【トリセツ】自分の機嫌の取り方
先週末、私のメンタルは、一気に【情緒不安定】が到来した。自分でも気づかないうちに、1人で頭を忙しくさせ過ぎたみたい。
私が【家に一人で過ごす平日の夜】は、この1,2ヶ月くらいは短かった。私が【密かに望んでいたこと】が叶ったからだ。夜ご飯の準備が出来ていないタイミングで旦那が帰宅する。たまたま旦那の【仕事が落ち着いているだけの状態】なので、『いつまで続くか分からない』けれど、『今が純粋に嬉しい』と『だからこそ楽しみたい』気持ちが同時にあった。
そんな中、金曜日の夜の話。旦那に、元々予定があることを把握してした私は、とりあえず自分の夜ご飯を済ませた。その後、旦那が帰ってくるまでの【1人の時間】を、テレビや配信番組を見て過ごそうと思っていた。ところが、1時間ほど経過した時、ふと急に『先にお風呂入って、早めに寝ようかな』って思考が浮かんだ。明確な理由はなかったものの、【なんか疲れている自分】を感じているのは確かだった。家の中で1人、テレビから見える画面も、聞こえてくる音も、『所詮、全部が他人事じゃん』みたいな気持ちになった。そして、『家で過ごす1人の時間に耐えられないくらい』の気分になった。
その後、友達に『なんとなく電話しようかな』という気持ちにもなったけれど、『なんとなくで電話するくらいならやめよう』と自分でなった。すると今度は、『何故、私は友達との気軽な電話をやめるのか?』と自問した。その答えを探した結論も、結局のところ『友達の話は友達の話であって、私じゃない』と思ったからだ。いつの頃からか、【私は私】と、本気でと思い過ぎてしまっている。どんな相手の存在も【相手は相手】だと『割り切ってしまうようになった』ことを実感した。
また、そんな相手に対して【尊敬】したり【憧れ】たりの、『崇める感情を持つこと』自体が衰退した。すると、そんな【相手の話や意見、価値観】みたいなものが、『全部どうでもいい』みたいな感情さえ湧いてきた。そして、いよいよ、【自分1人の時間】と【自分1人の思考回路】を【本気で停止】したくなった。
私は、『もうやめよう』『とりあえず、お風呂入って早く寝よう』と、つけていたテレビを消した。その足で、とりあえず食器の洗い物に行動を移したところで、次の思考が巡ってきた。
【今の私の状況】に対して『なぜなのか?』と問い続けて【答えを探す】よりも、『なんとかしたい』の気持ちが勝った思考。そしたら、何故か急に【今の自分に既に与えられているもの】や【今の自分が既に持っているもの】を『大事にしよう!』という結論に辿り着いた。
具体的に説明すると、【相手は相手だからこそ、持ってるもの】がある。そして、それを【羨む気持ち】が故に【劣等感を抱く自分】がいるってこと。だから私は、【今の自分】にもっと目を向けて、私の中の【劣等感】の脱出方法である【誇り】を探そうとした。そして、一時的にはメンタルを持ち直し、旦那が帰宅する前にお風呂に入った。すると、旦那の「ただいま」の一言が、丁度、私が浴室にいるタイミングで聞こえてきた。その瞬間、【何とも言えない安心感】なのか、【自分の中の色んな感情や思考】が一気に溢れてきた。一旦、『自分の感情を落ち着かせた』ものの、その後も『自分の気持ちのまま』に、先に布団に入った。
ところが、なかなかすぐには寝付けなかった。やっぱり私の頭は忙しい。なかなか簡単には寝かせてくれなかった。『そりゃそうだ。それが【私の取り柄】なんだから』と、若干開き直るくらいの気持ちになった。結局のところ、【私の誇り】とか【私だから持ってるもの】みたいな視点で私を見た時に浮かぶもの。それが【ただ、ひたすら考えること】とか【ブログを通して思考整理をすること】だと、自分で思った。むしろ、『それくらいしか出来ないのが、今の私なの』みたいな、少し【悲観的】な視線を自分に向けた。『やっぱり私って、最悪だ』と虚しくなった。
私自身が、『勝手に何かに憧れて、調べて模索して求めすぎる』が余り、【自分の余裕】が無くなる。つまり、【自分が空回りしている】状態。【少し未来の自分】に繋げたくて【一生懸命なつもり】なんだけど、上手くいかない。そんな【自分の見方】に変わった時、こんなことを思った。
【んまぁそんな時もあるよね!】の気持ちって、とっても大事。結果が伴わなくても、【自分なりに頑張ってること】を『自分で認めて自分が労わろう。褒めてあげよう』『誰かに認めて貰うんじゃなくて、自分自身が認めてあげよう』みたいなこと。そうじゃないと、『いつか本当に自分が自分じゃなくなくる』気がした。【私なら出来る、やれる!】って『強く思い過ぎる』が故に、【上手くいかない時ほど情緒不安定】になりやすい。【典型的な私の日常】だと思った。
『上手くいく時ばかりじゃない』のは当たり前。【上手くいかない時】は、『そんな時もあるんだよ』って【認める努力】をしよう。【上手くいかないこと】が『決して悪い訳じゃない』ってこと。【頻発】することによって、『自分でメンタルを持ち直すことが更に困難』な訳だけれど。でも、そんな時こそ、自分自身が【自分の機嫌の取り方】を『知っているかどうかが重要なんだ』ってこと。そんなことに、今更ながら気がついた。
周りの人達を頼ったとて、【相手は相手の人生】だし【相手の価値観】がある。『どこまで何を話した』ところで【私の話は、私の話】ってこと。だから最近は、【色んな人に同じ話をすること】極端に減った。【話したいと思う人】も減った。『話そうかなって、一時的にと思った』としても、なかなか『以前のように簡単には話さなく』なった。
その理由も、最近分かった。たぶん、【相手の意見に流されること】を『私自身が恐れているから』だってこと。要は自分の問題。でも『本当に恐れている』のだとつくづく思う。だって、結論『相手は私じゃない』し、『相手に直接的な影響がある訳じゃない』ってこと。【他人事】じゃんって話。それなのに「あーだこーだ」と【言われる自分を想像】した時、『自分が相手の話を聞き入れられない』ことだってある訳じゃん?って感じ。んなら、『わざわざ相手に話しなくて良かったじゃん』ってなる訳だ。だからこそ、そうならないために、【話す相手】を『自分で選んでいる』ってことだと納得する。わざわざ自分から、【自分が萎える(かもしれない)ような話】はしたくない。自分でもよく分からない【変なプライド】が『高いだけかもしれない』けれど。
冒頭に私が思った『なんとなく』とか『気軽な気持ち』で【話す相手】を選んだとしても、上記のような【可能性があること】は、『既に十分経験』してきた。『正確な事は分からない』けれど、【私の個人的な見解】として思ったことがある。
私が思う【大人な人】って、『自分への責任感を強く持っている』感じがする。だから、【内容の薄い話】とか【本人の言いたいことが見えない話】とかって、あんまりしない。【自分に直接的な関係がないと思う話】とかも、そこまで『深入りすることは無い』イメージ。
要は『なんとなく』とか『気軽に』とかで、わざわざ【自分が左右される話はしない】ってことだ。自分の話をする時は、あくまでも【自分の感覚をベース】に【自分の中で聞きたいことが明確】な話し方とか、聞き方とか。そんな印象。
私は、そんな人達に対して『憧れている』し『尊敬している』訳だ。だから、【とてつもない劣等感】で『自分がおかしくなりそう!』ってなったんだと振り返る。結局のところは、【自分がなりたい自分】と【実際の今の自分】を【比較】してしまった。そして『まだまだ足りない自分を痛感した』結果、【情緒不安定】になったって話。
ならば、自分が【情緒不安定】に『ならなければいいだけじゃない?』って気持ちになった。正直、『それが1番難しいんじゃん!』て話なんだけれど、周りを見渡してみれば、【情緒不安定】を【日々乗り越えて過ごしている人】だって沢山いる。というか、そもそも、そんなイメージの人達って【情緒不安定になりにくい方法】=【自分のトリセツ】を知っている感じがする。
それと、【情緒不安定】の反対って、単純に考えれば【情緒が安定する】ってことだよね?って私は思った。【自分の情緒が安定する】ってことは、つまり【自分の機嫌の取り方が上手】ってことかなって思う。
【自分で自分の責任を持つ】ってことを、【ほんの少し前に意識するようになった私】だけれど、今度は【自分で自分の機嫌を取ること】が『出来るようになりたい』と強く思う。『情緒の安定を維持する』ための【自分のトリセツ】を知っていく。作っていく。覚えていく。【自分が自分らしく生きる】ためにも、『必要なプロセスなんだ』ってこと。今更だけど納得する。
私は【自分で自分の理想を高く求める】が故に『劣等感を生みやすくなる』ってのが、【自分の中にある1つの性格】なんだと、今回学んだ。「今更かい!」ってツッコミたくなる気持ちも正直ある。ただ、きっと今後も、『似たような経験を沢山重ねること』になるんだろうって気がしている。
【そんな時々の自分】と『常に本気で、深く向き合うんだろうな』と想像する。その度に、『もっと【自分を知る】ことになるんだろう』と思う。自分の【誇り】や【今既に持っているもの】に目を向けて『もっと自分を大事にして生きる』みたいな。【とっても尊いこと】だと純粋に思う。
上記のようなことが、【努力】と『言えるかどうか分からない』けれど、私は、そんな時を重ねて、乗り越えて生きていく。それが【私の人生】なんだよって思う。これからは【自分のトリセツ】を『もっと自分で見つけていこう』って気持ちを大事にしよう。