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雜記

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思考以上言明未満のものたち
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#文章

河畔、午前0時、蕁麻疹、TOKYO

 自分の部屋にいて、ここは河のほとりだと、思うようになった。通りにバルコニーが面していて、車の通りを見下ろしている。かれらはシューッと音を立てて流れ、多くの場合帰ってくることはない。鉄塊の流れる、さもしい河。その河からは清冽な響きと水のすずしさの代わりに、選挙カーの爆音ノイズと排気ガスの香気漂う。ただ、問題はその雑駁かつ混沌の様相を、私という人間が佇みながらに見下ろすことができるようになっているというその変容だ。  文の装飾をできるだけ削ぎ落して、近況を報告しよう。ここは東

記憶の蛸

 何を語りたいのか、それが問題だ。話したことも、書いたことも、その瞬間からは嘘になる現在を、絶えず踏みしめている自分がいるのに、また同時に意識はどこか別の、明るくて空気の澄んだ天地をどうしようもなく所望する。暗い部屋でキーボードに手垢をこびりつかせながら悲しみや絶望といったそれこそ垢に塗れた安い言葉を液晶に並べる人間は、果してどれほどまでに高尚であろうか。語ることと、語らぬこと、その場合、どちらが価値を持つのだろう?  “I want―”と、「愛を」は似ている。口ずさんでみ

「何であれ構わない」性の超克

   抽象的で、かつ役に立たないことを書く。そうエクスキューズしなければ、ここから何も語れないだろうと思う。自分の内面があるとするならば、それは中東の荒野にある町のように乾いている。触れないが、よく見える。  閉塞したとき、停滞した時にわたしは書く。と思っていたが、閉塞と停滞とは突き詰めるとつまり、飽きることである。飽食の時代。気付けばサブスク、YouTubeの動画、安価なコンテンツで腹を膨らしたことへの怒りが湧く。    この前先生が、他人と同じコンテンツの消費の仕方をしな

AIとの共作

序 AIが小説を書く時代がやってきた。らしい。私は基本小説を書かない。精度はかなり高いらしい。倫理的云々はどうでもよく、好奇心があったので、昔書いたものの続きをAIに書いてもらい、またその続きを書いて、と、AIとラリーさながら文章を綴ってみた。 使用したのはコチラ! 友人に教えられるまで知らなかったのだが、非常に優れた文章を書くAIらしい。無料でできるサービスで、キャラクターの属性などを認識させたり、かなり細かいところまで設定可能なようだ。(今回はほとんど使ってないけど。)

どこまでも奔れ 混沌

 お久しぶりです。久しぶりに散文を書こうというmoodになりました。詩をぽつぽつと生みおとしているだけなので碌にこのような挨拶もなく申し訳なく思います。  最近は詩ばかり書いているけれど、詩を書くのも決して楽な作業ではないとおもいました。(それは詩を書いたことのある人にはきっとお分かりのことですが、)詩は散文以上に言葉に自省的に、抑制をきかせなければならないのです。なんというか、わかりやすさから遠ざかって、言葉の連続のあいだになにかの印象を生まなければならない。  たとえ

完結している人間が好きだ

 日はとっくに落ちてしまって、蒸した夜のペトリコールと大学生の話し声がTシャツ越し、べとべとと肌にまとわりついてくる。大学から帰っている。研究室で少し遅くまで論文を探し、図書館に取り寄せていた資料を取りに行った帰りだ。車が一台通れるかどうかという道幅のところに、20人くらいの学部生と思しき集団が固まって歩いている。はあぁ。まあ、ええか。どうやってコミュニティが維持されているのだろう、とか、一人一人と関係を取り結ぶのだろう、とか考えながら、ため息を隠して仕方なくいつもの五千倍ゆ

純粋な第一次情報を書きたいという欲求

 あなたという人間は、これまで出会ってきた人間と、そのことばです。と言ったのは学部生時代の指導教員だ。ああ、たしかになあ。そう思う。最初は素敵なことだと思ったよ? けれどもそれは裏を返せば逆に僕たちは「これまで出会ってきた人間とそのことば」から逃れられないってことなのかもしれない。  それってとても恐ろしい。  それは、真なる創作・創造は存在しない、みたいなハナシになってしまう気がする。でもそれは身に染みて真実のような気がする。その時々に読んだ小説の語彙とか、表現とか、た

【短編】滅びの練習

 夜になるといつも考えてしまう。この世界に横溢する図像情報が、触覚情報が、私の鼻腔から気管を通って肺へと音もなく浸潤する空気たちが、そっくりとどこかへ行ってしまって、ぱたり、と私自身が滅ぶのを。あるいは、父や母や近しい友人がやはりどこか遠くへ行ってしまって、永遠ともとれる喪失を迎えるのを。  それはもちろん想像でしかないのだけれど、いつか起こる種類の事柄だ。想像であり覚悟未満の手触りで、私はそれを知覚する。喪失のぬったりとした沼に半身をとられながら、暗い空に灯りを探す。失う

記念の日

 ぼくは、こんなこと予想していなかった。  もともと飽きっぽいほうで、日記なんて三日坊主どころか、二日ももたなかった。習い事のピアノも習字もすぐにやめてしまった。生きること以外ほとんど何も続いていない僕が、noteというものを、一年間続けることができた。(投稿はけっこうまちまちだったりするけどね)  ピアノも習字も個人作業だった。練習して、先生に倣う。だけどnoteは、やっぱり少し違う。noteでは、ただ自由に書いたり書かなかったりして、書いたものに気のいい人たちが「スキ

うたたね読書論

 最近考えたことをつらつら書こう。ひとつは、悲しくも僕が本を読めなくなってきているということ。物理的な条件とか時間の制約とかではなくて、大学院に入学して二か月経とうとしているいま、学術的な研究の読書による、単なる「情報収集」として本を読んでしまう癖がついてしまったのに気がついた。  ぼくが「読む」としているのは、やっぱり本から楽しみを得ることだとおもう。それは知識欲や好奇心が満たされた時の喜びとはまた種類が違う。夏の盛りの扇風機の首の音とか、かわいらしい猫の肉球とか、恋人と

有り体に言えば空白だった

 必要なものがあった。それは考える時間のような忍耐強い空白だった。雨が降っていればなお良かった。雨は時間とか思考とかいったものを押し流してしまう。  世界が刻々と変化している、という感覚があった。それは、自分だけが変わらず置き去りにされている、という感覚でもあった。どこにも行けない、何もできないという閉塞と停滞は、物理的ではない重さをもってぼくを圧した。  悲しくはない。怒りもない。いま僕に在るのは有り体に言えば空白だった。感情の隙間にあるどうしようもない空白は、人生みた

エピタフ

 孤独は、過去の影の上に立つ。今、ひとりでいることはそんなに問題じゃない。問題なのは、過去にひとりではなかったという事実だ。あなたが過去に、何を知っているかによって、あなたは欠乏し、欲望することになる。あなたがもし、親に愛されたなら、それが欠けた瞬間に、その欲望が可視化される。あなたがもし、恋人と愛し合うことを知っていたなら、恋人の不在は愛の不在になる。  孤独は、過去の影の上に立つ。あなたが今孤独であると感じるなら、あなたをひとりにしたものは何か。不在と分断の中から湧き上

散歩の哲学

 散歩には哲学がある。と最近おもう。  唐突だろうか。詩人・長田弘が「この世界は本である」と表現したように、いちばん身近な世界の、人々の生きていることを、それらの人々が各自で何かを紡ぎ、今この瞬間も築き上げていることを滔々と散歩は示してくれる。それは世界を読み解く行為の第一歩であるような気がする。目的地を決めずに、交差点にては選択し、脇見しながらゆったりと歩く。いつも見ているものを清新な気持ちで、じっと見つめるような、そんな行為だ。花粉と黄砂が無くなれば、もっと清らかな気も

文学とは何か

 序  文学とは何か、といったタイトルの著作は多々あり、名のある文学者たちが挑んできた難しい領域であることは承知している。今回はこのシンプルな題名で、自分なりに文学について考えていることをつらつら書こうと思う。  前提として、この文章の著者であるぼくは、この春から大学院生になる23歳の男である。文学を学び始めて半年といったところのほぼ門外漢ではあるが、初心に筆を取って、書いてみることから始めようと思うのだ。自分の文学観を記録するという意味でも、いいかもしれない。そういうのっ