記念の日
ぼくは、こんなこと予想していなかった。
もともと飽きっぽいほうで、日記なんて三日坊主どころか、二日ももたなかった。習い事のピアノも習字もすぐにやめてしまった。生きること以外ほとんど何も続いていない僕が、noteというものを、一年間続けることができた。(投稿はけっこうまちまちだったりするけどね)
ピアノも習字も個人作業だった。練習して、先生に倣う。だけどnoteは、やっぱり少し違う。noteでは、ただ自由に書いたり書かなかったりして、書いたものに気のいい人たちが「スキ」をくれたりすばらしい人は「コメント」をくれたりする。彼らの力が「書く」ことに喜びを紐づけた。
と、いうことで、初めて書いた記事から一年になる。あのころは緊張して独り暮らしのうすぐらい部屋で何度も推敲していたっけ。
この記事の結びに、ぼくはこう記していた。
白紙の自分に、誰がどのような色を付けてくれたか?そして、今度は誰かに、素敵な色をつけてあげられるだろうか。わたしの、言葉で。わたしという人間で。(#0)
ぼくの白紙のnoteには、ぼくだけが記したのではない。ぼくのnoteをのぞいてくれる皆さんと、ハートの形をした目に見える励ましと、なにより同じくものを「書く」人々の「書くこと」が、ぼくを形作った。それは常に僕のそばで、一年という年月を共に生きた。かけがえのないひとたち。かけがえのない言葉たち。
そしてこれからも、わたしたちは生きていく。書いていく。続いていく。それぞれの色が混交し、調和し、noteの世界は色彩が絶えないだろう。「書く」人がいる限り、少なくともぼくは豊かにいられる。きっとこの社会にとってもそうだろうとおもう。
個人的な抱負は、ことばに対する感覚は丁寧に、それでいてもっと気軽に書こうと思う。間違いや断定に臆病にならないで、コミュニケーションのように書こうとおもうのだ。
記念というのはよいものだ。恋人たちが記念日にこだわる理由が一つ分かった気がする。記念日というのは、振り返り、改め、また前へ進むという、美しい一連をなしている。この一年、どんなことがあったかな、次の一年は、どうしたいかな。
僕はしっかり覚えているだろう。あなたが読んでくれたという事実を。それはダッシュボードの数字になるわけだけど、それ以上の有機的な意味があったりするのだ。
みなさま、これからもよろしくお願いします。