純粋な第一次情報を書きたいという欲求
あなたという人間は、これまで出会ってきた人間と、そのことばです。と言ったのは学部生時代の指導教員だ。ああ、たしかになあ。そう思う。最初は素敵なことだと思ったよ? けれどもそれは裏を返せば逆に僕たちは「これまで出会ってきた人間とそのことば」から逃れられないってことなのかもしれない。
それってとても恐ろしい。
それは、真なる創作・創造は存在しない、みたいなハナシになってしまう気がする。でもそれは身に染みて真実のような気がする。その時々に読んだ小説の語彙とか、表現とか、たくさん使ってしまうし、影響されてしまう。習いたての言葉を使いたがる小学生のように、それは使い慣れている人々の文脈から少しだけ浮いていて、悲しくも空疎に映ってしまうのだろう。
・・・とこのように考えたのは、さいきん最果タヒさんの詩集を読む機会があってのことだ。『夜空はいつでも最高密度の青色だ』という(もうタイトルから刺しに来ているようだ)ビビッドな詩集。(映画化もされているらしい、すごい。)
ページをめくってさいしょの詩が目に入ってくる。情報としてではない、鮮烈なことばたち。
都会を好きになった瞬間、自殺したようなものだよ。/ 塗った爪の色を、きみの体の内側に探したってみつかりやしない。/ 夜空はいつでも最高密度の青色だ。 (青色の詩より抜粋)
具体的なところは少ないけれど、たしかな訴求力をもって読む者の内側へと入ってくる。刺々しいことばたちが、どこか優しく、キュートに響きあう。「自殺したようなものだよ」と言われて、もうこの詩を最後まで読むしかなくなるのだ。ずるい、ずるいぞ最果さん。
と、このような強烈な「オリジナル」と出会ってしまったのだ。それはまぎれもない創造で、模倣のにおいがしない、彼女の内側の言葉であり、主張だった。読む者の感情や物語を少しだけ違う色に見せるようなレンズのような詩が書きたい(あとがきより)という彼女のチャーミングな目論見は、見事に達成されているだろう。これは読む者の言語感覚を攪乱し、うらぶれた夜の街へ連れて行くような劇物だ。間違いない。だが、カフカが大昔に「われわれは、われわれ自身を切ったり刺したりする文章を読まなくてはならない」と語ったように、僕らは傷を得て、それをどうにかこうにか恢復しなければならない。そしてより大きなことばの渦の中に生きてゆくのだ。
自分もこんな文章が書きたい。詩が書きたい。切実に思う。時間は少ない。まずは表現形式を見定めないといけないだろう。・・・けれど最初は二番煎じでいいとおもうんだよな。その憧れは少し危険でもある。自分にしか書けないものなんて、いくらでもあるんだけど、すごく難しくって、そればっかり目指していると、きっとしんどくなっちゃうからね。