I et.al.
思考以上言明未満のものたち
不定期更新の読書日記。
断片として 点綴として
読書記録、しっかりした書評からメモ程度まで形式は統一していません。ネタバレ多。
書評類の目次頁みたいなものが出来たらいいなと思って、試してみています。読んだものを作品ごとに時系列順に記します。作品は複数を極力まとめて書き、完読したタイミングで読了も記します。(一冊まとめて読んだ場合、また長編小説・研究書などの場合は、書名を優先し、作品/章別にはしません。)読んだ日付は末尾に[20XX/XX/XX]等の形で示しています。 書評へのリンクは全体に下線、日記へのリンクは日付に下線、としています。 237 安部公房『砂の女』(新潮文庫)[2024/3/23
誰に遠慮する必要もないのに、真実ではないことばかりを書こうとする自らの手を、指を折りたい。自分で自分をよく見せたいという気持ちに唾を吐きかけたい。どうしたって奥行きのないしょうもない人間なのに、覚えたての言葉を並べて、自分の浅さを覆い隠した気でいる愚かさ。 体面という、みずからの実体と世界の境界。他人の評価や信頼、あるいは愛、経済力、能力、特質…。それらは時に蜃気楼として、ひとつの卑小な肉体をあいまいに大きく見せる。そこにはいかほどの意味もなく、それでいて、やはり致命的に
ひとつぶの灰 落ち 海へぬける風が あまりにもかたくなに閉じられたわたしをひらく 少しずつ軋みながら わたしは新たなものに組み換えられる 一滴の恍惚 湧き 女が眠る部屋に しずかに影をなしながら存在しようとする意志たちの群れ 鼓動が宿る前の しずかな予感が 女の血のなかからやってこようと わたしが午睡で亡くした午後が 吹き過ぎていった風とともに回帰する 死んでいった者たちとともに 言ってしまった言葉たちとともに 消滅してまもない 眼たち 記憶たちとともに
もはや 確からしいものはない午後二時 雨の反響だけが輪郭を探り 柘榴の光が落ちる 人間も踏切もしばしの午睡 歩道橋に雲を見下ろす 都市 アスファルトのゆれる水 そのとき風は有楽町駅を吹きすぎて 浜松町方面快速の速度を後押しする 山紫陽花の白い花弁から 東京の六畳の部屋のペン先の滲みから 台風の影響で運転を見合わせる車内から 鬱蒼とした記憶の森の 名も知らぬ植物たちの犇く その暗みから 素晴らしい速度で目覚めたのは私 亜光速でモーニング・ルーティンを済ませては 「本日はどうぞよ
↑の続きです この一ヶ月はサボり気味、5月ということもあり、メンタル的にもしんどい一ヶ月でした〜。 走り書きですが、読んだ本などを記録しておきます。 2024/4/10〜2024/4/28 1 星野太『食客論』(講談社) 共に生きることとは何か、という問いに、食事という側面から切り込んでいく論。バルトの講義録、サヴァランから九鬼修造、石原吉郎まで、非常に広大な範囲で繰り広げられている。第四章まで読了したが、とても読みやすく、また、各章で取り扱う内容は焦点化されていて良
集中力がなく、数十冊の書物を日々齧り読みし、その度読了できないことを嘆く。そのように、遅々として前に進んでいないような停滞のさなかにも、確かに齧った知があるとするなら、それを記しておかぬ手はない。 この記録は、そうした本と本との集中力のないスキゾな横滑りを、奔放に綴ろうとするものだ。書誌情報の他には、この卑小な読み手としての私が感じたことや考えたこと、あるいは、雑に何かと結びつけることもあるだろう。これは断片たちの適当な記録である。適当に続けていきたい。 見出しにあ
全てのものが腐乱するような日曜日だ。冷蔵庫を開ける、意味はない。閉める。意味は生まれない。夜の底で冷たく絡まり合う洗濯物に手をつける。「四月は最も残酷な月」と詩人が言ったのを思い出して、生活は呼吸や心臓の動きのように、意識せずともここに在る、在ってしまうことに気がつく。もはや意味の発生しない最小の領域と単位で、在るだけの生活に慣れてきたところだ。遠い声がゆき過ぎる。遠い部屋に生きる人々が、同じようにして記憶の通路を通り過ぎる。 カーテンの隙間から一条、街灯のLEDが鋭く
今日は今年で最も実りある1日だったと思う。ブルシット・ジョブを終えて18時30分からバレーボールの地域の体育館開放に向かう。学生、社会人問わず集まって、バレーボールをする集まりだ。会社の人から存在を聞き、今日初めて行ってみる。電車を乗り継いで40分、居心地が悪かったら嫌だなと思いながらのある意味での挑戦だったが、結句、行ってみて本当によかった。中高生がたくさんいて、社会人は少なかったが、近隣の高校に通っているという気さくな男子高校生たちの仲間に入れてもらい、サーブのテクニッ
4月は最も残酷な月、とあることが身に沁みてわかる。俺は、他人の悪意、気まぐれ、不機嫌に付き合わされるいい人間だ。決して逆のことを意図的にしたりしない。 仕事で老人に絡まれる。上層が発達していない死にかけの子ども、この世で最も同情しなければいけない可哀想なひとである。というかむしろ、老いというのはそういうものなのだろうか。あまりに悲しくなる。 日記を書く習慣ができ、あまり細かくは日々のあれこれを綴ることはできていないが、確実に書く頻度は上がった。これからは逆に頻度を維持
どんなものも軽蔑しない、という快哉さに胸を打たれる。正の方向に一貫することは、親密さと有益さにひらかれるということでもある。それは社会的になる、という無機的な用語では表せない機微である。 アレジオンを飲んで寝たので今日は花粉症がかなりマシになった。会社に行って書類と、会議の準備をする。準備で1日が終わる。 昼休みには高山宏『近代文化史入門』(講談社学術文庫)を読みすすめる。18世紀初頭は日記が最速最強のメディアであったと目に留まった。日々の時間を記録して集積するという発
とんでもない花粉の飛散量で、呼吸器の存亡を感じた1日だった。蕁麻疹も出るし、身体が十全な日というのは存在しないのだろう。沖縄県には花粉症の元となる杉や桧が植っていないらしく、重症患者はそこに避難することもあるようだ。安定した今の生をかなぐり捨てれば、鼻腔と呼吸器をクリーンに保てる、という魅力的な提案。とにかく遠くへ、寒冷地か沖縄へ、と願うばかり。 どうやら人事異動で新入社員がチームに来るらしい。可哀想に。この季節は俄に変化の匂いを漂わせる。それは魅力的でもあり、頽廃的でも
昼、食堂で飯を食っていると、新入社員がどでかいネームプレートを胸につけてぞろぞろと食堂に入ってくる。一年前はああした恥辱を嘗めていたと思うと死にたくなるが、通過儀礼と思えば耐えることもできよう。期待の滲む若い顔。反復の中で老いるのを待つ、若い顔。 という自分も年寄りではないのだが、どうも昔から、何かに期待することを冷笑してしまう。このシニシズムこそ、私が立ち止まって凝視し、駆逐しなければならない自分自身の影なのかもしれない。 夕食は社食でよくわからない豆腐の煮物を食べ、
朝から片頭痛で、8時に起きて、またダウンする。結局14時まで寝ていたのだが、向かいのマンションの建設の件で説明に来たスーツのおじさんと、数日前に買ったmac mini とキーボードを届けに来たおじさんに断続的に起こされたため、頭痛の治りも遅く、吐き気が完全に消えたのが昼過ぎになった。 全てを許すつもりでMacをセットアップし、キーボードをつなぐ。打鍵音が良すぎて、これで執筆の環境が整った、と嬉しくなる。 明日で社会人になってから一年となる。一年は長い。一年耐えられた
後楽園に阪神×巨人第二回戦をみる。東京ドームは気圧があって少し頭が痛くなる。久しぶりの観戦ともあり、気分は高揚する。 試合はというと、書きたくもないくらい酷いもので、得点機会を作っては自滅し、ちぐはぐな采配でフラストレーションが溜まる一方だった。ドームを出る黄色い負のオーラを纏った大群。あまりにも疲れ果ててしまった。 しばらくは大人しくしよう、と思った。どこに行くにも、何をするにも、自閉し、思考し、それこそが自由だと捉えようと思った。その自由の薄い膜を、身に纏わせてスト
朝起きて、Amazonのセールをやっているので、この機会にmac miniを購入する。キーボードもいいやつをあわせて買い、会計が十万円近くなる。高い買い物をするのはやはり慣れないし、少し緊張してしまう。 ゆっくりと支度をして職場へ向かい、気がついたら退勤していた。高校時代の友人と駅で待ち合わせ、飯を食いに街を彷徨くも、金曜の夜ともあり、どこも満席で、結局15分くらい待って餃子の王将に入る。熱気と湿気のあるこの場所。二年ぶりくらいだったけど、たまにはいいな、と思った。友人が
会社のバレー部へ。男子バレーやハイキュー‼の映画を見てモチベーションが上がっていたので、普段より動きがよかった。あとはストレッチは毎日しないといけないと感じた。これから衰え行く身体に、少しでも、なんというか労りをあげないといけない。そのためには、適度に負荷をかけていかなければならない。 飲み会の誘いをすげなく断ってしまい、若干先輩の機嫌を損ねたかもしれない。気がかりだがまあ仕方ない。ここのところ雨続きで、人と楽しく笑い合える確証がなかったのだ。