記憶の蛸
何を語りたいのか、それが問題だ。話したことも、書いたことも、その瞬間からは嘘になる現在を、絶えず踏みしめている自分がいるのに、また同時に意識はどこか別の、明るくて空気の澄んだ天地をどうしようもなく所望する。暗い部屋でキーボードに手垢をこびりつかせながら悲しみや絶望といったそれこそ垢に塗れた安い言葉を液晶に並べる人間は、果してどれほどまでに高尚であろうか。語ることと、語らぬこと、その場合、どちらが価値を持つのだろう?
“I want―”と、「愛を」は似ている。口ずさんでみると、響きが似ている。それしか似ていない。むしろ違いは、前者が目的語を秘匿し、後者が目的語から出発していることだろうか、と思う。このような秘匿と先行き不明なエネルギーのすれ違いが、雑踏のように満ちていると感じる。それは抽象的でありながらも明晰な思い付きのようにも思えてくる。
確実な目的意識を持った人間の、自意識の欠如。その一方での、目的意識の欠落した人間の、自意識の際限ない肥大化。 “I want―”と、「愛を」の意識の断層はおそらく、このようにも読みかえることもできる。他人が存在する限り、自分の欲求は侵害されるしかないという根本的な気づきからさえ眼を逸らしたいと思う醜い鳥のさえずりが、軋りながら液晶を流れてゆくTwitter。Botのような人間と、自意識の肥り切った人間たちが交響しながら上から下へコトバが流れてゆくそのさなかにも、堆積することなくTrashされてゆくさまは、この世界を統べる質量保存の法則さえも統御できない電脳領域ならではの残酷な軽やかさがある。
――おれが死んだら、何が残るか?
という稚拙な問いにも、真摯に考えれば不機嫌な余韻以外にも答えは出得る。毎日飽きもせず駄文を綴りながらも、その読みにくさの中に閃く仄かな光がある。それは比喩的としか言いようがない光だが、自分にも他人にも読まれるうちに、推敲し書き直してゆくうちに、少しずつ明確な形をとる。
電子の世界には、基本的には何も残らない。おれたちは確実にその脳の思考・記憶領域を電子の世界に明け渡してきたが、その見返りは、「少しだけ白痴になる」ことと、「空虚になる」ことだ。自分が存在しないこと、自分が忘却されることへの根源的な恐怖を、おれたちはそうして呆けることで乗り越えるしかないのか。違う。無理やりにでも残すのだ。悔しいから、残すのだ。自意識も、目的も乗り越えた超然としてかつ濁りきった眼で、手で、足で、他者の記憶に深い穴を掘るのだ。
それは直接的なかかわりでも、こうした文章を通した間接的な接点でもかまわないだろう。ちょっとした表現に趣向を凝らし、プロットを工夫し、登場人物を殺したり生き返らせたりして心を揺さぶってもかまわない。そうして他者の記憶の中で生きるためのタコツボを作るのだ。そこに記憶の蛸として生存することができたならば、死後の生、それも時には複数の生を謳歌できるかもしれない。
ファースト・パラグラフの問いに応えよう。何を語りたいのか。おれは、おれの生のやりかたで、他者に連絡したい。こうして生きて感覚を紡いでいるのだと伝えたい。話したこと、書いたことが嘘でも、その紡がれた膨大な嘘の織物のなかに、きらめくビーズの欠片のように真実が輝きだす。
いや、最初から行為としてそれは奇麗だったのだ。ビーズのようにあるいは児戯的な光輝にもそれは見える。それでも、まぎれもなくそれは光り、在る。それゆえに、書く者は、みな凛として高尚だ。その光輝がどのように誰かの鼻につこうとも、書記者は書記するという行為そのものが祈りであり、真正なるものと認められる。
では、何を綴るか?
おれたちは、きっとみな生の書記者なのだ。語ることに価値などなくとも、おれはそれでかまわない。美術館の絵画の美が、審美者によって美とされたように、まず一次的なものは、とにかく生み出してゆくしかないのかもしれない。