どこまでも奔れ 混沌
お久しぶりです。久しぶりに散文を書こうというmoodになりました。詩をぽつぽつと生みおとしているだけなので碌にこのような挨拶もなく申し訳なく思います。
最近は詩ばかり書いているけれど、詩を書くのも決して楽な作業ではないとおもいました。(それは詩を書いたことのある人にはきっとお分かりのことですが、)詩は散文以上に言葉に自省的に、抑制をきかせなければならないのです。なんというか、わかりやすさから遠ざかって、言葉の連続のあいだになにかの印象を生まなければならない。
たとえば、「朝は」のあとに「あかるい」とか「清新だ」とか、凝った言葉で形容しても当たり前のイメージしか生まれない。面白みのない、それは散文の領域を出ない表現になる。「昏(くら)い」とか逆を張ってみてもなにか虚しい。詩人・大岡信氏は「朝の頌歌(ほめうた)」において、このように朝を飾っています
朝は 白い服を着た少女である
これほど朝の清澄をまっすぐに表すことばがあるでしょうか。詩はむずかしい言葉でなくてもいいことがよくわかる。それでいて、その代わりぼくたちが了解する世界の本質的イメージに、まっすぐに肉薄していかなければならない、と痛感します。
論理的でなくてもいいから、なにかの解決でなくてもいいから、混沌を混沌のまま遇してもかまわないから、そこに印象をとらえて、読んでくれるひとの何かを掴みにいく。何かを切り裂きに行く。けれど自由さを失わず、ある程度奔放にやりたい。現実にある一定の制約や閉塞をぶち破ってことばをはしらせたい。丁寧に破壊するように、入念に暴れるように、一瞬をとらえ、読む人の心になにかを芽生えさせる。そのための言葉を紡ぎたいと、意識を新たにしました。