河畔、午前0時、蕁麻疹、TOKYO

 自分の部屋にいて、ここは河のほとりだと、思うようになった。通りにバルコニーが面していて、車の通りを見下ろしている。かれらはシューッと音を立てて流れ、多くの場合帰ってくることはない。鉄塊の流れる、さもしい河。その河からは清冽な響きと水のすずしさの代わりに、選挙カーの爆音ノイズと排気ガスの香気漂う。ただ、問題はその雑駁かつ混沌の様相を、私という人間が佇みながらに見下ろすことができるようになっているというその変容だ。

 文の装飾をできるだけ削ぎ落して、近況を報告しよう。ここは東京都の最も埼玉県に近いところ。正気とは思えぬ都市計画で歩道橋と地下道と横断歩道が行き交う駅前と、その駅前を一歩出ると住宅街の拡がる、社会の教科書に載せたい「郊外」の様相は、はてさて東京に来たのか、小学生が18:30に見るアニメの世界に迷い込んだのかわからなくなる。
 冒頭で河のほとりと言ったのは案外間違っていなくて、荒川と隅田川が分岐するちょうど近くに住んでいるため、ハザードマップは血の色より赤く、河のご機嫌次第でこの文章の更新も途絶えることとなるだろう、という感じ。

 そして、これが社会人になってからの最大の変化なのだが、仕事が終わると蕁麻疹(じんましん)が出るようになった。母も蕁麻疹持ちなのだが、私は遺伝していない、と胡坐をかいていたので、吃驚ものだった。デスクワークで動かない、動けないという根源的なストレスは、落ち着きのない魂にはかなりの苦行である。それが直接の原因かは不明だ。もちろん、急に環境が変わるというストレスは計り知れないものだ。ただ、「ジンマート」とかいう恥ずかしい名前の薬を飲むと、恥ずかしげもなく薬剤は作用し、さっと痒みが引く。人体は正直で、単純で、なんか面白い。

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夜の思考は増悪する。少しでも不安要素があれば、夜の闇と静謐さがそれを助け、悪魔のもとへと魂を追いやってくる。この感覚は、きっとあなたにもわかるはずだ。飲み会のたのし気な喧騒が終った、その徹底的に痛めつけてくる孤独は、どうしようもなくそんな夜の闇に絡みついて已まない。ただ、安易に誰かにこの孤独を引き渡すのも惜しい。このはかなげなひとときを甘受し、誰かがそばにいるその時に、また浮かび上がる過去の影像としてこの時間を定義したい。

ふるさとは遠きにありて思ふもの
そして悲しくうたふもの

室生犀星「小景異情―その二」

 失ったもの、過去の甘い時間をこそ、わたしたちは恋う。少なくともわたしは、恋うてきた。「ふるさと」は、現在形ではなく過去形の言葉なのだ。然らば、この孤独を嘗めつくすことこそ、未来形のわたしへの手向けになろうと思う。未来、だれかと伴に生きることを決めたわたしへ、今の孤独がきっと生きるだろう、と祈ることで、何かが報われる気がする。よすがを求める巡礼者のごとく、河のほとりの執筆席に厳かに腰掛け、鉄塊の跋扈する午前0時の東京には、一人の男が、誰のためともつかぬ文章を屑々と書く。疹痛が赤くうごめく脚を掻き、(これはもしかしたら字義通りの「足掻き」ではないか⁉と失笑をひとつまみしながら)、更ける夜に一抹の頌歌をささげる。われ、孤独な旅人として自意識を立派に拗らせつ。

 とまあ、最近はこんな感じで、過行く時間のなかでゆっくり生きているつもりが、流されながら目標もなく、ただ日々を蕩尽するという感。そこにはなんとない悲しみと、虚しさが生活の底を流れ、表層に人と接する楽しみと刺激、日々の雑事のあれこれが記録されてゆく。書きつづけて捨てるノートのような日々。それは時々「ノート」として漠然と思い出されはするが、何を書いたか、微に入り細を穿つようにはもはや存在していない記憶だ。

 みんな、どんなように生きているんですか。私の言語化能力(それは嗜好も含まれる)では、どうしても抽象的な魂の在りかたや意識の流れみたいなものを書きたいと思ってしまうから、具体的なものを取り落としてしまう。書きながら考えている。書きながら、ああこれは駄文の域を出ないな、と諦めている。悪文製造者。落伍者。お前なんか何者にもなれないペダントだ。次は具体的な事を書こう、と思って書いたのがこれだ。タイトルを具体的にしてみたつもりが、イメージの連環みたいになって逆効果だった気もする。文章は、難しい!