![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/174071721/rectangle_large_type_2_c8c9dc6ea3e605169221889ff27a13f4.jpeg?width=1200)
【雑感】分断の時代に私たちはどう生きるか(4,324字)
こんにちは!エルザスです。
今回は時事考察のようなもの。
テーマは、
社会の分断を乗り越えるための試みがちょっとずつ増えてきている
ということについてです。
現代は分断の時代
最近、とかく社会の分断を感じがちです。
アメリカ大統領選では、大卒のエリートリベラル層(民主党支持)と労働者層(共和党支持)との分断が明らかになりました。
日本でも、「現役世代の手取りを増やせ!」という層と、「財政規律」の名のもとに減税に慎重な層が対立中。
あるいは、就職氷河期世代に象徴されるような正社員・非正規社員の格差、キャリアパスの格差がこのところ特に注目されています。
一番分断がすごいのはSNSで、フィルターバブルとエコーチェンバー効果で同じような価値観の人たちがかたまり、違う価値観の人たちと壮絶な叩き合いを演じています。
そうでない大多数のまともな人は、論争を呼びそうな話題は器用に触れないようにしながら、ささやかな情報発信を続けています。
そして、自分とは違う価値観の人とは関わらないことが正解だと思っています。
私もそうでした。
以前、しくじり先生で令和ロマンがテレビに出ない理由を説明していた回で、価値観の合わないテレビマンがあまりにも多いという話をしていました。
そして、「我々は何も奪わないので我々から何も奪わないで」と言っていたのを聞いて、
「ほんとそれ!みんながそのスタンスでいれば平和なのに!」
と思ったものです。
要するに、「お互いストレスフリーで過ごすために、価値観が違う者同士は関わり合うのをやめませんか?」というスタンス。
![](https://assets.st-note.com/img/1739108923-Tifwb0aUg5q2DJKOkZ9sdREQ.jpg?width=1200)
![](https://assets.st-note.com/img/1739109321-xysqr6zg9PKEawN0UZtJGHof.jpg?width=1200)
価値観は多様、つまり相対的なもので、絶対的正義がない以上、擦り合わせるのにも限界はある。
なら、「頑張って擦り合わせようとして摩擦が生じるより、そもそも擦り合わせようとしないほうがいいんじゃない?」という発想が生まれる。
私もそういう発想で生きてきました。
でも、最近その考え方が変化してきました。
このままでは社会の分断が固定化されてしまう。社会の分断を乗り越えるには、価値観の違う人との対話を閉ざしていけない。
そう思うようになったのは、斎藤幸平さんの『未来への大分岐』を読んだからです。
『未来への大分岐』/斎藤幸平
去年、私が一番強い影響を受けた学者の斎藤幸平さん。『未来への大分岐』は、彼が3人の賢人たちと対談した模様を書籍化したものです。
本書では、ポストモダン思想の影響で「絶対的な価値や真理は存在せず、すべての意見は相対的なものである」という相対主義が広がったと指摘されています。
この結果、
「どんな価値観も尊重すべき」という考え方が強まり、科学的な事実(例えば 気候変動の危機)でさえも「それは一つの意見にすぎない」と扱われる
社会全体で「何が正しいか」を議論するのではなく、「個々の価値観に閉じこもる」傾向が強くなる
といった影響がでてきています。
つまり、相対主義が極端に広がることで、「客観的な事実を前提とした社会全体での合意形成」が難しくなっている、と問題提起しているわけです。
その問題をさらにややこしくするのがフィルターバブルの存在です。フィルターバブルの中では、自分にとって心地よい情報だけが届くので、
自分の信じるものが「絶対的に正しい」と思い込みやすい
逆に、異なる意見や科学的事実が届きにくくなる
反対意見に触れたとしても、それを「自分とは別の価値観」として片付けてしまう
ということが起こりやすくなります。
その結果、
陰謀論やフェイクニュースも「一つの意見」として受け入れられやすくなる
科学的根拠より「自分が見たい情報」だけを選択し、自分の思想が強化される
社会的な問題(貧困・環境問題・差別など)を「自分には関係ないもの」と切り離してしまう
という状態が生じやすくなってしまいます。
みんなが「自分の価値観」に閉じこもることで、社会全体の課題を乗り越えるための連帯が生まれにくい状態になってしまう。
つまり、フィルターバブルと相対主義の相互作用によって、社会全体として「より良い未来を選択する力」が弱くなるということです。
『未来への大分岐』が問題提起していたのは、まさにこの点でした。
そして現代社会では、この問題から目を背けてはいられないほどに分断が進行しています。そのことを考えると、将来への不安が募るばかりです……
一方で、価値観を超えた対話の試みは増え始めている……気がする
さて、ここからようやく本題です。
世の中の分断が進んでいる一方で、最近では知識人たちによる「価値観の違いを乗り越えた対話」の事例がいくつも出てきています。
完全に価値観を擦り合わせることは無理でも、常に対話の窓口を閉ざさずにいること。
擦り合わなくても、お互いの認識を確認し合う努力をしてみること。
分断が固定化されるのを避けるためには、これしかありません。
ここからは、そんな事例をいくつか紹介したいと思います。
1.斎藤幸平vs村上隆
先ほどの『未来への大分岐』の斎藤幸平さんと、現代アーティストの村上隆さんとの対話です。
この2人が直接会うことになったきっかけは、過去の別の動画で斎藤幸平さんが「私、村上隆さんとか大っ嫌いなんですよね」と発言したことw
マルクス主義研究者の斎藤幸平さんにとって、超富裕層に億円単位で作品を売っている村上隆さんは「資本主義の権化」に見えていたのでしょう。
その動画を見た村上隆さん本人が、「一度自分の展示会を見に来ませんか?」とコメントしたのが直接対面のきっかけでした。
会って早々、斎藤さんが村上さんに土下座するシーンが面白くて大好きです😂
![](https://assets.st-note.com/img/1739199524-ZWKXRgYTb9ErcOmDtQNwzidu.jpg?width=1200)
最初の動画は、主に村上隆さん自身による作品解説です(これ自体が現代アート好きにとっては垂涎もの)。それを通じて、斎藤さんは村上さんの作品の背景にある思想(例えばスーパーフラット)を知るようになります。
本格的な対話はその次の動画から。
これがまあ、感動的な対話です。
2人の価値観は最後まで擦り合いません。
斎藤さんはおそらく最後まで「現代アートが億円単位で取引されるのは良いことなのか」という疑問を解消できていないでしょう。
それでも、お互いが相手へのリスペクトを失わず、かつ自分自身の軸はぶらさず、時間の許す限り対話し続けています。
もう一度言いますが、この対話は感動的です。
この分断の時代、バックボーンがまったく違う2人が、しかも最初は「大嫌い」という最悪のコミュニケーションから始まった2人が、このような素晴らしい対話を見せてくれたこと。
「人間は分断を乗り越える力を持ってるんだ」という可能性を見せてくれたことに本当に感謝したいし、見習いたいです。
2.石丸伸二vs横田一(フリージャーナリスト)
こちらは感動的な対話とは程遠い内容ですが、「異なる立場の者同士が話したからこそ、見えるものがあった」という好事例です。
石丸伸二さんは新党立ち上げの記者会見で一部マスコミの入場を認めず、物議を醸しました。
この動画は、そこで閉め出された側のフリージャーナリスト、横田一さんと石丸さんとの対話を軸としたものです。
この動画では、次のようなことが白日の元にさらされました。
横田さんは、取材に際してはろくに一次情報に当たっておらず、切り抜きショート動画と週刊文春をネタに質問していること(2:31:47〜)
横田さんが石丸さんや兵庫県知事を叩くような質問(ほとんど演説に近いと私は思いますが)をしているのは、そうした内容が市民派インターネットメディア「デモクラシータイムズ」での反響が大きく、マネタイズ目当てであること(2:37:00〜)
内容が酷すぎてそれこそ「横田さんを貶めるためのフェイクじゃないのか?」と思われそうですが、動画内で他ならぬご本人がそう語っているので度し難い……編集者の箕輪厚介さんに「日本のジャーナリズムってここまで劣化したの?」と言わしめるほど……
ただ、ここで主張したいのは横田さんのジャーナリストとしての適性云々ではありません。
こういう事実を明らかにすることができたのも、石丸さんと横田さん双方が対話のチャネルを閉ざさなかったからだ、ということです。
自分には理解できない主張をする相手でも、対話を続けることで見えてくる事実がある。
このことが当動画の最大のインプリケーションだと思います。
3.小泉悠vs護憲派
最後はインタビュー動画。
小泉悠さんは、ロシアによるウクライナ侵攻以来一躍時の人となった軍事評論家です(專門はロシア軍事)。
その小泉さんが、護憲派(9条の会)の人たちと対話した模様が本になり、それについてこれまたリベラル派を自認する小林えみさん(出版社よはく舎代表)がインタビューしている動画です。価値観を超えた対話が二重になされていて、とても良い動画だと思います。
この中で小泉さんがおっしゃっていたことが胸に刺さりました。
この本の中でずっと貫いているテーマとして、
あなた方も言いたいことがあるし私も言いたいことがある。その時に憎んだり馬鹿にしたりしないで話し合えればそれは議論である。
憎み合ったらそれはもう議論ではない。言葉を使った戦争にしかならないですよね、と。
価値観が異なる人と対話をした時、「なぜ自分の意見を理解できないんだ?」という想いが生じ、それがイライラに繋がり、ひいてはヘイトに繋がってしまう。
人間に感情がある以上、その確率は非常に高いと思います。だからこそ、多くの人は冒頭の令和ロマンのような発想に至るわけで。
価値観を超えた対話を目指す以上、「対話の中にリスペクトがなく、憎しみしかないのだとしたら、それは議論ではなく戦争である」ということは決して忘れてはならないでしょう。そうでないと、対話は結局新たな分断を生み出す元になりかねません。
まとめ
今回の記事では、現代社会における分断の現状と、その背景にあるフィルターバブルや相対主義の影響について考察してみました。
これまでの私は、価値観の違いによる摩擦を避けるために、異なる意見との関わりを控えるのが平和的だと考えてきましたが、斎藤幸平さんの『未来への大分岐』を読み、対話を閉ざすことで社会全体の合意形成が難しくなり、分断が固定化してしまう危険性を認識しました。
では、どうすれば良い対話ができるのか。
斎藤幸平さんと村上隆さん、石丸伸二さんと横田一さん、小泉悠さんと護憲派といった、価値観の異なる者同士が実際に対話を行った事例は、学ぶべき所が非常に多かったと思います。
相互理解とリスペクトに基づく対話。
社会の問題を解決する手段は、これに尽きるのだと思います。
ではまた!