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雑感記録(330)

【自己検閲の蔓延る現代】


昨日、僕は会社の関係で日本近代文学館が主催する夏の文学教室に参加してきた。以前と言っても僕が大学4年生ぐらいだったか、友人に連れられ行ったことがある。そう考えると実に6年ぶりに参加してきた訳だが、よくよく聞くとどうやらコロナの関係で2019年から昨年までは開催していなかったと言う。なるほど久々の開催だったのかと会場に着き初めて知る。

僕は高橋源一郎の講演を聞いてきた。これも実はの話だが、大学時代に行った時にも高橋源一郎の講演を聞いた。その時も天皇に関する話題だったが、今回も「ヒロヒトの時代の作家たち」というタイトルの元で講演がなされた。タイトルがもう正しく天皇、とはいえ昭和天皇の名前(という概念が天皇にはない訳だが一応ここでは便宜上、名前ということにしておく)を冠したものである。

少し僕の話をすると、僕は過去の記録でも何度も書いている訳だが、大学時代に熱を入れていた分野がプロレタリア文学である。特に中野重治の作品を中心に据え、プロレタリア文学の盛衰をそれなりに研究してきた。時代的なものというよりは、どちらかというと文体論に着目しながら進めた訳だが、今思うと大分稚拙なものではある。

プロレタリア文学と言うと小林多喜二の『蟹工船』や葉山嘉樹の『セメント樽の中の手紙』あるいは『淫売婦』、佐多稲子の『キャラメル工場から』、平林たい子の『施療室にて』、徳永直の『太陽のない街』…と挙げればそれなりにキリは無い訳だがこぞって作品を世に出した。この時期はとりわけマルクス主義が大きなセンセーショナルとして存在した。細かい話をすれば、青野季吉が書いた悪名高い(?)と言われる『自然生長と目的意識』から様々なことが始まる訳だし。それにマルクス主義にも解釈が2通りあって、所謂「福本イズム」と「山川イズム」と呼ばれる訳だし…。

とあまり踏み込んだところで仕方がない訳だが、いずれにしろ僕はプロレタリア文学の生活を具に書くという姿勢は面白いなと思う訳だ。その思想性はどうであれ、それを如何に描くのかという点では勉強になる部分が大きい。とりわけ、蔵原惟人が書いた『プロレタリア・レアリズムへの道』は今読んでも描写という点で考えれば色あせない筈である。久々に読み返したいところではある。

そんな中で、プロレタリア文学ひいては戦中の日本に於ける文学の「検閲」と言うものと切っては切り離せない関係性がある。


今回の高橋源一郎の講演では「検閲」の話がなされた訳だ。

ところで、今の人たちは文学に於ける「検閲」と言うものを知っているだろうか。今、僕等は当たり前のように昔の小説を読めている訳だ。発売が禁止されたり、伏字にされた小説を読む機会などそうそう無いだろう。本当に興味関心が無ければ読まない。と言うよりも知らない筈だ。例えば、よく言われるのは江戸川乱歩の小説は何回も発禁を喰らっている。実際この講演会で高橋源一郎は『芋虫』を例に挙げて話をしていた。

そう言えば、僕は手元に江戸川乱歩のエッセー集である『わが夢と真実』があったので読み返すのだが、これが中々面白い。特に発禁処分について書いている部分は見当たらなかった訳だが、少し狂った部分が垣間見えるところは面白い。興味のある方は1度読んでみるといいかもしれない。

そんなことはさておき、とにもかくにも今と比べて国自体が文学を「検閲」していたと考えると恐ろしい話であるが、逆を返せばそれ程までに影響を与えていたということは事実である。何ならプロレタリア文学の作家たちは「検閲」もされれば検挙もされて投獄されては、転向せざるを得ない状況になったまである。この転向の問題については過去に記録を残しているのでそれを参照頂きたい。

しかし、これらは何もプロレタリア作家だけに限った話ではない。例えば先に挙げた江戸川乱歩もだし谷崎潤一郎の『細雪』だって発禁処分を喰らっている。確か太宰治も発禁か検閲かどっちか喰らっていた気がするのだが…。記憶が定かではないが…。何もプロレタリア作家に限った話ではない。個人的に谷崎が処分を喰らうのは分かる気がするが、何で『細雪』なん?というのは未だ僕の中ではよく分かっていない。

そういうことが国レヴェルで行われていた訳だ。もっと遡れば、明治時代からそういうのは現にある訳だ。僕の稚拙な過去の記録ばかりで申し訳ないが、小栗風葉だって最初の処女作である『寝白粉』は発禁処分を喰らっている訳だ。今では難なく読めてしまうから「え、そうなの」となりがちだが、意外と今読める昔の小説にはそういう背景を持った中で生まれているということは知っておいても損は無いだろう。

ただ、僕は文学がそれほどまでに社会に対して力を与えていたということを認識したいと同時に、それが今では難なく読めていることの有難みを再度確認することになる。


それで高橋源一郎は講演でこういう様な内容を話す。

昔の、つまり明治期から昭和期に続く「検閲」と言うのはある程度明確な基準があったうえでなされている。例えばプロレタリア文学なるものは1番分かりやすくて、「社会主義の弾圧」という目的性があった訳で、それに沿う様な形で伏字が為されたり、酷い所まで行けば検挙、転向となる訳である。しかし、現在はどうだろうか。現在の場合はそういう国が制度的なものとして「検閲」をするのではなく「自己検閲」する時代になっている。

例えばSNSで何かを発信する時に「この内容で投稿して良いのか」「炎上しないように」「叩かれないように」というような形で自分自身でその投稿内容、作品を検閲する。ところが、その「自己検閲」と言うものには明確な基準がない。気を付ければいいって言ったって、その基準がないから「自己検閲」するが結局炎上して謝罪する羽目にあったり、或いは一線を退かなければならなくなるということもある。

今の時代は「自己検閲」の時代で、昔の「検閲」の時代から比べると酷く危険な時代になってしまった。何か分からない、至極曖昧な基準で「自己検閲」をして世に出してしまうものだから、恐ろしい。というような内容だった(筈である。と言うのも、講演会の翌日にこれを書いているので些か記憶が曖昧である)。

僕も何となく分かる気がする。

僕は過去に武田砂鉄の『わかりやすさの罪』という本を引き合いに出して「分かりやすさ」に逃げるなということを書いた。この記録に関しては目下僕の敵である自己啓発本に狙いを絞って書いた訳だが、何でもかんでも分かりやすくするのは良くないということを書いた。これを僕は講演会中にふと思い出した。

確かに何でもかんでも分かりやすいのはいけない。それは考えることを奪う行為だからである。しかし、一定の分かりやすさというものが在っても良いのではないかと講演会を聞いてふと感じた。多分、ここで語られる「分かりやすい/分かりにくい」というものの種類自体がそもそも異なるのだろうが、言葉にしてしまうと混同しがちである。濃淡の程度の話なのかというとそういう訳でもなさそうな気がする。

中々難しい所である。


確かに現在では様々なSNSで自己発信をして炎上するということが至る所で散見される。そしてそれがネットニュースに取り上げられ、批判の渦に晒される。僕はいつも言っていることだが、あやふやな正しさと言うのが最近は顕在化してきているのではないかと思う。特にSNSの発達によって。

そもそも、「検閲」自体が誰か第3者がその作品に対して「検閲」を行うはずである。文学などは例えば「賞」を設定している機関、文芸誌などの選考委員だったり編集者のある種「検閲」機能が働いて作品が世に出される訳である。自己の他者ではなくて、本当の(という表現が正しいか正しくないかというのは置いておくとして)他者に見てもらうという機能が働いていたはずである。

しかし、今ではそういう視点を通さずいきなり自己表現が出来るので、「あ、これはヤバそうだな」という作品でさえもフィルターを通さずにいつでもどこでも誰でも情報を発信できるようになった。やはりそう考えると、高橋源一郎が指摘するところの「自己検閲」と言うのは中々危険な状態である。それは個々人に委ねられることになるからである。無論、それはそれで「自由な」表現な場を確保できるという点に於いて、今まで何者かになりたいと考えていた人々にとっては喜ばしい状況ではある。自分が抱えている問題意識や考えを発信できるのだから。

とは言うものの、それは逆を返せば容易く見知らぬ他人を動かせてしまえるという点では危険である。それに対して「共感した」という人々によって下支えされ影響は波及していく。それと同時に所謂「アンチ」という人々によって抑制され、粗探しが始まる。要するに、自分自身の中で対社会のフィルターを持たねばならない。二重のフィルターを自分自身の中で掛けなければなるまい。ところが、結局言ってしまえば「自己検閲」なのだから全て自分の中で完結する。つまり、発信されて初めて社会的フィルターに掛けられるという状態である。

だが、結局そこで発信されることが掛けられるフィルターもそのSNSの場でしか生起せず、それが社会であるとは言いにくいのではないか。仮に全人類がSNSをやっているのであればそれはそれで別だが、ある一定の限られた人々によって行われているのだし、しかもニッチな内容で書いていれば、その界隈のSNSの場でのフィルターになるわけだから、非常に狭い社会的フィルターなのである。つまり、現代に於ける「検閲」機能と言う部分で明確なものは存在し得ない。

そういう時代を生きる中で、僕等はどうやってSNSと上手く向き合っていかねばなるまいか。僕にはよく分からない。しかし、確実に言えることは「自己検閲」のレヴェルを上げることしかないのではないか。それは言ってしまえば、想像力の問題である。毎度毎度で恐縮だが、これに尽きるような気がしてならない。

想像力のない人の考えることは途方もなく馬鹿馬鹿しく、その馬鹿馬鹿しさが底知れなく怖い。想像力のない人は相手がどれだけ想像力があるか想像することができない。いや冗談や言葉遊びを言っているわけではなくて、2の想像力しかない人間が相手に10の想像力があることを想像することは不可能にちかい。「不可能にちかい」という留保がついているのは、「この人は俺が想像できないことまで想像することができるんだろうな」という想像さえできれば、2の想像力しかない人でも2以上の想像力がこの世に存在しうることだけは想像できるからだ。それを相手に対する「敬意」と呼び、そういう敬意は文化や教養によって育てられてきた。中身までは想像できなくても、それがあることだけでも想像できれば、2の想像力しかない人の内面も豊かさに向かって開かれる。

保坂和志「想像力の危機」『人生を感じる時間』
(草思社・2013年発行)P.232

大切なことなので何度でも引用しよう。


僕等は今1度、SNSの向き合い方について考えねばなるまい。

それは今、学校教育で行われているような情報リテラシーのような(とは書いてみたが、果たして学校教育で現在それが行なわれているかは不明だ)ものが大切になって来るのではないか。特に僕とかと同世代ぐらいの20代後半から40代ぐらいの人たちは。実際僕はネットリテラシーについて勉強した記憶はなく、こうして実地で身に着けたものだからである。

高橋源一郎の講演を聞いてそんなことを真剣に考えている。良い講演会だった。来年も機会があればぜひ行きたいものである。

よしなに。


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