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雑感記録(371)

【古本巡りはスポーツだ!7】


冬という季節は好きだ。

それは単純な話で、晴れの日が多いからである。日中は太陽の明るさと暖かさを知り、周囲の景色の美しさを知る。そして夕方。太陽が闇に落ちるその合間、これを映画用語で「マジック・アワー」と言うらしいが、その美しさを知る。夜、都会の明るさの喧噪の中でも空を見上げれば月が僕等を照らし、星の明るさを知る。冬。とかく自分自身が「ここに在る」ということが他の季節に比べて眼前に現れてくる。旧暦では1月からが春である。ほんの少しだけれども、1月からを春とする感覚が分かったような気がする。


 昔から詩の中ではいっぱい使っている言葉ですが、日常生活ではあまり使わない。見上げることはしょっちゅうあるけれど、それは農民や漁師とはまったく違う見上げ方でしょうね。空を物としては見ていない。空に自分の生活がかかっていない。だから私には空を一種の抽象として扱う傾向があります。青空の青の濃さや薄さ、動いてゆく白い雲、さまざまな夕焼け…空はいつも美しい。でもいつももどかしく、どこか苛立たしい。空と一体になりたいと思いながら、それは決してかなえられない夢だと分かっているから。

谷川俊太郎「ことばめぐり」『ひとり暮らし』
(草思社 2001年)P.86


恵まれた天候が続く中、僕は2日連続で所沢古本まつりに参加してきた。

12月6日金曜日。僕は先日の休日出勤の振替でお休みを貰った。たまたま彼女とお休みが合ったので、彼女と共に1日目は参加してきた。普段1人で行く時は開場時間である11:00に所沢へ着くように行くのだが、せっかく彼女と行くのでゆっくり行こうと思い、西武新宿線で準急、急行ではなく各駅でのんびり行くことにした。だが面白いことに電車に乗るや否や、2人とも電車の中で眠りにつく。

僕がハッと目が覚めた時、電車が駅に停車していた。「はてさて、所沢まではあと何駅だろう」と思って窓の外を見たら「所沢」と書いてある。僕は焦って彼女を起こして下車した。ここで僕が目覚めていなければ、このまま本川越まで行ってしまったことだろう。そう考えると少し怖いなと思いつつ、それもそれで面白かったのかなと思ってしまった自分もどこかに居た訳だ。僕の本能が所沢で下車するということを覚えていたのかもしれない。

実は彼女と共に所沢古本まつりに行くのは初めてである。各々でそれぞれ行くことはあったが、2人ではこれが初である。僕は以前のこのシリーズの記録で「所沢古本まつりが古本まつりの中で1番好きである」ということを書いた。それは単純明快で、ゆったり本が見られるということにある。一緒に見て回ろうと自分の中で決めていた。しかし、会場に入ってしばらくして各々で見て回ることとなった。

これは僕の良くない所でもある訳だが、1つのことに集中してしまうと視野狭窄になってしまう。目の前に好きなものが敷き詰められ、それに僕は集中してしまった。言ってしまえば、彼女を置き去りにどんどん先へ進んでしまったのである。いつものルートで壁際の文庫本から攻めていき、見終わったら真ん中のゾーンを攻めていく。文庫を見終わった後、僕は彼女を探しに行った。

僕は一服したく、彼女はお腹が空いたとのことでとりあえず選んだ本を購入し一旦会場を出る。普通であれば、ここで一緒に「じゃあ、一緒に飯行くか」となるのだが、僕は本に集中していたので昼食はスキップして本を引き続き見ようと思った。だから心の中で申し訳なさを感じながら「ここから各々で行動しよう」と言った。「俺は昼飯食べずにそのまま見るから、自由に過ごしていいよ」と。そのまま彼女とは別行動を取ることにした。

喫煙所でタバコを蒸かしながら、内心「しまったな」と反省する。

中々休みが合わなくて、お互いに過ごせる時間も限られている中で、こうしてせっかく一緒に過ごせる時間を自分自身の手で貴重な時間を台無しにしてしまっている訳だ。しかし、ここがまたまた僕のいけない所で、「そう思うなら今からでも追っかければ良いじゃねえか」となるのだが、「別行動しよう」と言ってしまった手前、それも何だかなというクソみたいなプライドもあった。それに現状、この調子、この流れのままで本を見たいということが自分の中で優先度が高くなっていた訳である。言ってしまえば僕の「余裕の無さ」である。結局僕はそのままタバコを吸い終え1人で会場に戻って行く。

後悔 五つの感情・その一

 あのときああすればよかったと
 そんなやくざな仮定法があるばっかりに
 言葉で過去を消そうとするけれど
 目前の人っ子ひとりいない波打際は
 目をつむっても消え去りはしない
 せめて上手に後悔しようと
 過去を苦い教訓に未来を夢見ることは
 あの日のあなたのかけがえのない
 こわれやすい愛らしさを裏切ることになる
 くりかえす波の教えるのは
 ただの一度も本当のくり返しは無いということ
 けもののように言葉をもたなかったら
 このさびしい今のひろがりを
 無心に吠えながら耐える事もできようものを

谷川俊太郎「後悔 五つの感情・その一」
『私の胸は小さすぎる』(角川学芸出版 2010年)P.74,75

真ん中のゾーンを見ていく。やはり単行本ともなると面白い本が沢山あって僕は集中して書架を見ていく。平日は土日に行くよりも人が少なく、よりゆったり見て回れるのは良いなと思う。今回は特に「この本がお目当てだ」という形で事前に購入する本を決めていなかったので、ある意味凄く自由に見て回ることが出来た。だから眼に付いた作品、何となく気になった作品をポンポン籠に入れることが出来た。

そこから2時間程見て回った訳だが、はたと「あ、しまった」と思い会場内を探す。彼女は文庫コーナーの所に居た。僕の中ではもう満足しきってしまい、帰宅モードに入ってしまっていた。「この後どうする、まだ見てく?」と彼女に聞き、「まだ見ていく」ということだったので僕は購入して外で待つことにした。僕はもう何十冊も購入しており体力もヘトヘトで、言ってしまえば疲弊していた。一緒に最後くらい見て回れれば良かったのだけれども、その体力すらもはや無かった。

しばらくして彼女が出てきたので帰路につく。


帰り、高田馬場から早稲田まで歩いて向かっていた時のこと。彼女が今日の古本まつりについて話をし始める。今回の所沢古本まつりのテーマが「昭和・平成ノスタルジー」というものであった。会場ではそのテーマ、とりわけ「ノスタルジー」についてアナウンスでその意味を説明していたことについて話をした。その「ノスタルジー」ということについて話し始める。

『ベルリン・天使の詩』(1987年)

彼女がこの映画を字幕で見た時、セリフの中で「ノスタルジー(nostalgie)」という言葉が出たとのことであった。その日本語字幕として「愛したい」だったか「愛している」と書かれていたそうだ。それで、会場でアナウンスされていた「ノスタルジー」の意味や成り立ちを聞き腑に落ち、何だかその訳語を充てたことに感銘を受けたという話だった。個人的に凄く面白い話だなと思うし、彼女のこういう感性が好きである。

それで自宅に戻ったあと、僕も「ノスタルジー」について意味を調べてみることにした。

懐かしさ
nostalgia

ノスタルジア。過去に反復経験した事柄(昔の友だち,音楽,食べ物,風景など)について,長い時間を経て,再度接触したときに,それが引き金(トリガー)になって起こる感情。その感情は,想起に伴うポジティブ感情(喜び,楽しさ,幸福感など)あるいはネガティブ感情(感傷,後悔,ほろ苦さ,甘酸っぱさなど)や,よかった過去に戻りたいと感じる欲求などを含む複雑感情である。

"懐かしさ", 有斐閣 現代心理学辞典, JapanKnowledge,
https://japanknowledge.com , (参照 2024-12-08)

まず以て『現代心理学辞典』に掲載されている訳だが、項目を読むとどうやら医療用語として使われているらしい。今度は英和辞典で調べてみることにしよう。

nos・tal・gia
[nɑstǽldʒə,-dʒiə,nəs-|nɔs-]♪
n.
1 (…への)郷愁,懐旧の情,ノスタルジア((for ...))

suffer from nostalgia for one's home

郷愁に悩む,ホームシックになる.

2 郷愁を誘う[かき立てる]もの.

[1780. <近代ラテン語<ギリシャ語 nóst(os)帰郷+-algia -ALGIA;ドイツ語 Heimweh〔スイスの学者 J.Hofer が医学用語として造語(1688)の翻訳〕]

"nos・tal・gia", 小学館 ランダムハウス英和大辞典,
JapanKnowledge, https://japanknowledge.com , (参照 2024-12-08)

なるほど。もともとnostalgiaというのはギリシア語のnostos(帰還)+algo(苦痛)が合成されたものであるらしい。そもそもの出発地点は医学用語として造られた言葉である。ということは、「ノスタルジー」とは言ってしまえば病気の一種であるということが推察される訳だ。しかし、それに対して「愛してる」はたまた「愛したい」という訳語を充てる。何だか僕も良いなと思う。あらゆる嫌な事も良い事も全て受け入れるということこそ「愛している」「愛したい」ということなのだと気付かされる。

僕としては「愛したい」という訳語が良いなあと思う訳だ。実際にその映画のどういう場面で、どういった流れで言われた「ノスタルジー」(あるいは「ノスタルジア」)かは分からないが、「愛したい」の方が人間味がある気がしている。全てを受け入れることは難しいかもしれないけれども、受け入れる心の器みたいなものは大きく在りたいと思うこと、そういう努力をするということは肝心なように思われる。

他愛もない話をしながら歩く。寒いけどどこか暖かい夜だった。


12月7日土曜日。今度は大学の友人と所沢古本まつりに行って来た。

彼は午前中に用事があるとのことで、午後から行くことになった。僕は朝から行く予定でいたのだが、前日にわりと沢山本を買っていたし、日用品・食料品の買い物をしなければならなかったので午前中は急遽買い物へ行くことにした。外に出ると太陽の光が眩しい。やっぱりこの季節はいいなあと思いながら近くのスーパーに買い物へ行く。

さっさと買い物を済ませ自宅に戻り、そのまま所沢へ向かおうかとも思ったが少し自宅で昨日購入した本を読む。その中で木田元『反哲学入門』と『柳田國男対談集』を読み始める。どちらとも面白くて集中して読んでしまった。特に『反哲学入門』についてはかなり心に刺さる部分が多く、自分が哲学に対して抱いていた幻想に邁進していること自体がどこかちゃんちゃらおかしな気がしてきた。気楽に愉しむということを忘れていた気がする。それを思い出させてくれた。オススメである。

そんな感じで読書をしていた訳だが、彼が15:00頃に会場に着くということで僕もそのぐらいに着くように行くことにした。これものんびり行こうかと思い各駅で高田馬場から電車に揺られる。電車の中で『柳田國男対談集』を読んでいるのだが、差し込む太陽の光の暖かさにやられ、これまた気が付けば眠りに落ちていた。目が覚めた時、東村山駅であった。今回はギリギリセーフである。

会場について友人と合流し、まずは腹ごしらえということでぎょうざの満州へ行く。実は僕にとってこれが初めてのぎょうざの満州である。お腹がかなり空いていたのでW餃子セットを頼んだ。久々に美味しい餃子を食べた。ふと、餃子などを食べ終えると皿の底に謎の文言が書いてある。マスコットキャラクターか何なのか知らないが、その画と共に書かれていた。

「3割うまい!!」

僕は友人に「これ何で3割うまい!!なんだろうな」と言った。すると彼が「ちょっと真面目に考えてみようぜ」と言い出した。そもそも何で「3割」なのだろうかということが気になった訳だ。しかし、皿の情報だけでは考えることにも限界がある。近くのメニュー表やらを見ると色々書いてあった。どんなことが書いてあったか今は忘れてしまったが、やはりそのどれを読んでも「3割」という数字にどうも納得がいかない。

そこで僕はふと頭の中で、高校生の時だったか。先生に「習慣化するスパン」みたいなものを言っていたことを思い出す。とりあえず、3日間続けてみろという言葉が脳裏を過る。「3」という数字に対して僕は直感的に「習慣化」というものが浮かぶ。しかし、ここに書かれているのは「3日」ではなく「3割」である。例えばこれが「3割」とかではなく、「3日」という何かしらの文言であれば「ほほーん」とはなったのだろうが、「3割」というのは中々難しい。

ウンウン考えていても結局なんで3割なのかということが分からず、考えるのを諦めた。友人も「分かんねえや」と言って諦めた。腹も満腹になった所で会場に向かい本を漁りに行く。


僕は前日にしこたま買っていたので、今回はそこまで買わないかなと思っていたのだが気が付けば籠にポンポン本を入れていた。今回は文庫本はスキップして真ん中のゾーンを集中的に攻めた。友人も「今回は文庫本はいいや」ということだったので単行本を攻めていくことにしたのである。

古本を一緒に歩きながら見て、ふと友人が「やっぱり本が好きだよな、俺らって」と言った。僕は以前の記録でも書いたが、そもそものスタートが読書が好きではないという所からスタートしている。それがいつの間にかこうして古本を求めて、本を求めて各所に赴いているなど当時の僕からすれば驚きものである。2人でヘトヘトになりながらも古本を漁っていく。

本を一通り見て、レジに向かい購入した後、2人で喫煙所に向かい煙草を蒸かす。その時に友人が「こういう古本まつりってさ老人ばかりじゃん。それってさ、言いかえれば本が好きなら健康でいられるってことじゃないか。」と言い出した。「皆がどういう手段でここ(古本まつり)に来ているのか知らないけれども、そもそもここに来られる体力があるっていう時点で健康的。ってことは、このまま本好きであれば健康的なんだよな、きっと。」ということを言った。

僕は手元にあるタバコを見ながら「うんうん」と耳を傾ける。

僕は過去のシリーズで「古本まつりには大概、若者が居なくて老人ばかりだ」ということを嘆いている。それは文化的な側面的な部分で担い手という意味で嘆かわしい訳だ。だが、自分たちも歳を取る。実際にこうして会場に居る老人たちと同じになる。そう考えた時に、確かにそういう見方もあるよなと感心した。僕はまだ若者だと信じたいという老いに対する恐怖心というか、それに対する若干の嫌悪が在るんだなということに気付かされる。

人間誰しも老い、誰しも死ぬ。これは幸か不幸かは知らぬ存ぜぬだが、誰しもに与えられた平等なものである。そして避けられないことである。例えそれがどういう道を辿ろうとも過程とその終着地点は変わらないのである。であれば、僕は自分とそれ以外に大切にしたい人以外のことを考えている余裕などないのではないかと思えてくる。僕はまだ生きたい。まだ世界と触れ合っていたい。そんなことを柄にもなく思ってしまった。

生活を成り立たせている、あるいは縛っているさまざまな事実だけが現実ではない、その底になまなましい生の現実がかくれている。生活の衣装をはぎとって、裸の生と向き合うのは恐ろしいけれど、甘美でもあります。ですがほんとうの生とは、そんな意識の介在を許さないのかもしれない。「生きていてよかった」というような、通俗的な感慨の表現がどこかうさんくさく、気恥ずかしいのは、生きることのてごたえはそんなひとことで言えるほど、やわなものでもうすっぺらなものでもないということを、私たちがちゃんと知っているからではないでしょうか。ほんとの生はもっと無口で不気味だと私は思います。

谷川俊太郎「ことばめぐり」『ひとりぐらし』
(草思社 2001年)P.92

今回の古本まつりも実りあるものとなった。一緒に行ってくれた彼女と友人には心より感謝したい。


ふと、この記録を書くにあたって、『茨木のり子詩集』を読んでいたのだが凄く良い詩があった。この記録を昨日から書き始めているが、どうもうまい具合に言葉が出ず、詰まりながら書いた。書きたいことがありすぎると言葉が詰まるということはあるだろうが、だがそれとは別の何かによって書き出せない自分が存在することに気付く。

しかし、この詩を読んで「全てを書くこと、全てを言葉として声に出し書き記す」という行為そのものに対して懐疑的になる。僕は以前の記録で「自分の言葉とは」ということを書いた訳だが、もしあの本にもこの詩が引用されていたならばほんの少しぐらいは腑に落ちただろうと今になって思う。

そう言えば、彼女は中々言葉にするのが上手ではないとしばしば僕に言うことがある。事後的に言葉が出てくる、纏まりがつく。「そう言えばあの時」というようになるらしい。僕もどちらかというとそういうタイプなので気持ちは凄く分かる。だから、僕はこの詩を贈ろうと思う。僕自身に対しても。「その人の気圧の中でしか/生きられぬ言葉もある」。

言いたくない言葉

 心の底に 強い圧力をかけて
 藏ってある言葉
 声に出せば
 たちまち色褪せるだろう

 それによって
 私が立つところのもの
 それによって
 私が生かしめられているところの思念

 人に伝えようとすれば
 あまりに平凡すぎて
 けっして伝わってはゆかないだろう
 その人の気圧のなかでしか
 生きられぬ言葉もある

 一本の蝋燭の様に
 熾烈に燃えろ 燃えつきろ
 自分勝手に
 誰の眼にもふれずに 

茨木のり子「言いたくない言葉」
『現代詩文庫20 茨木のり子詩集』
(思潮社 1969年)P.98

よしなに。


※過去の記録はこちらから↓


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