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雑感記録(335)

【場のスライド】


宙ぶらりん

 なにがなんでも生きのびなくてはならない
 というのがひとつの真理であるとすると
 いますぐ滅亡してもかまわないというのも
 いっぽうの真理であってその中間で
 われわれはネクタイに首をつっこんでいる

 この地上で今も何千人かが餓死しているのを
 現実と呼ぶならば犬の食べ物に
 何千金を投じているのも同じ現実の名で
 呼ばざるを得なくてその中間で
 われわれはにやにや風に吹かれている

 休まずに抗議の叫びをあげていこう
 というのがひとつの必要であるならば
 不正確な饒舌よりも沈黙を択ぶことも
 劣らず必要であると云えてその中間で
 われわれの息はつまってくる

 欲望をおさえることがひとつの倫理なら
 欲望を解放することもそれに異らぬ倫理で
 われわれはそこで半死半生だ

谷川俊太郎「宙ぶらりん」『手紙』
(創美社 1984年)P.30,31

良い作品に出会うと心が躍る。ここ数日そういう読書体験が僕には頻発している。始まりは先週の3連休で購入した『アミダクジ式ゴトウメイセイ』を購入してからである。元々、後藤明生の作品が僕は好きで読んでいたこともある訳だが、対談集ともなるとまた別の話である。対談集の良さについては以前の記録で残してある。そちらを参照されたい。

そう言えば、僕はこれまで後藤明生について書いてこなかった気がする。という訳で、個人的な後藤明生体験についてざっくばらんに適当に書こうと思う。と書き出してみたが、実際何から書こうかと実は悩み続けてはや30分ぐらい経ってしまった。だが、書き出してみなければ始まるものも始まらないので書き出すことにしよう。

僕にとっての後藤明生体験の初めては『挟み撃ち』だった。

読み始めたキッカケは思い出せないのだけれども、恐らく古井由吉の流れであった気がする。僕の悪い癖なんだが、誰かの作品を読む前に少し下調べをしてしまう。いつもはwikipediaで済ませていたが、最近は『日本近代文学大事典』を利用するようになった。まあ、そんな話は置いておくとして。いずれにしろ、古井由吉を読む際に下調べをする中で、所謂「内向の世代」という言葉を発見した。

少し文学的なお話をしよう。

文学でも美術でもそうだが、「○○派」というようなある特定のジャンル名を与えられることがある。例えばモネなんかに代表される「印象派」とか、あとは「ダダイズム」とか「シュルレアリズム」とか様々にある訳だ。これは美術の話であるが、文学にも一応このような流れみたいなものが存在する訳である。特に小説という分野に於いてそれは顕著になる訳である。そして小説が輸入された明治時代から連綿と続いている。

例えば、明治時代に一世を風靡した「自然主義文学」なんかもその1つである訳だ。その前で言えば「硯友社文学」と呼ばれるように尾崎紅葉一派の作品群をそう呼ぶこともある。時代が下れば横光利一に代表されるような「新感覚派」とか「白樺派」「新思潮派」とか谷崎潤一郎を含む「耽美派」とか、あるいは「プロレタリア文学」とかもそうだ。文学の分野でもそういった細かいグルーピングがされている訳だ。

戦後になれば、所謂「第三の新人」とかが出てくる訳で、その流れで「内向の世代」が出てくるのである。僕は日本近代文学を専攻していたのでどちらかというと明治期から戦前戦中までの間の方をメインにして学んで来たので、どちらかというとそちらの方が馴染が深い。やはり時代の流れと小説の関係性を捉えることは重要である。社会から小説を語り、小説から社会を語る。肝心なことである。

「内向の世代」という言葉は、文芸評論家とされる小田切秀雄がその世代の作家たちを揶揄する形で書かれたものである。この当時、唯一これを擁護したのが柄谷行人である。この辺りについては柄谷行人のじんぶん堂のインタビュー記事を読んでもらうと良いかもしれない。あるいは『反文学論』なども良いのではないかなと思ってみたりする。

「内向の世代」と言われる作家群には古井由吉をはじめ、黒井千次、日野啓三、坂上弘、小川国男、そして後藤明生などが挙げられる。その時にふと、「あ、後藤明生って『必読書150』で見た気がするな」ということを思い出した。そこで後藤明生が近畿大学の教授をしていたことを知り、そこで柄谷行人と共に仕事をしていたことを知る。丁度『必読書150』に後藤明生の『挟み撃ち』が掲載されていたので、それを読むことにしたのである。

ここまで長かったが、これが僕と後藤明生作品との出会いだ。


 そこでわたし流儀のいい方をすれば、幻想的であるというのは、自分とはまったく異なる価値観を抱いている他人の真只中で生きている、ということになろうか。そのような他人との関係なしには、生きていることが出来ない、ということである。それが現実であり、そのような現実ほど幻想的なものはあるまい、というわけだ。世界の中心は、わたしであって、同時にわたしでなはい。野暮ついでに大げさないい方をすれば、司馬遷的な楕円形の現実である。
(中略)
 平凡なことだが、小説とは人間をつかまえるものだ。そして現実とは、人間と人間の関係だった。とすれば、小説と現実との関係は自ら明らかとなるだろう。もちろん、先にのべた、現実ほど幻想的なものはないという意味を含めての、現実である。そのような現実をつかまえるものという意味において、わたしの小説はリアリズムなのだ、といえるだろう。わたしが考える散文とは、そういうものだ。

後藤明生「わがリアリズム」『大いなる矛盾』
(小沢書房 1975年)P.62,63,65

これまた話が脱線するが、個人的な経験としてエッセーが面白い作家の小説は大体自分の中ではハズレがない。正しく古井由吉もそうだし、僕が敬愛してやまない保坂和志もそうだ。中野重治も面白い。中々エッジの効いたエッセーというか批評が面白い。加えて小説や詩も面白いのである。詩でも吉岡実のエッセー『死児という絵』も面白いし、谷川俊太郎のエッセー『ことばを中心に』や『沈黙のまわり』など面白い。そして当然に詩も面白い。

後藤明生もまた同様である。僕は後藤明生の小説も好きだが、エッセーが何だかんだで1番好きなのかもしれない。後藤明生の文章が僕は好きであり、実は心密かに目指している文体でもあるのだ。どこが好きかというと、とにかくユーモアのある文章であるという点である。エッセーは特にだけれども話が飛び飛びになる部分が僕にはそそられるのである。

例えば、僕らは何かを話す時に「これについて話す」と決めて掛かって話す。それは当然である。何故なら伝えたいことがあるからである。「まったく異なる価値観を抱いている他人」に対して自分の言葉を尽くしてコミュニケーションを図る。無論それは大切なことである。伝えたいことを伝える為に「これについて話す」と決めることは重要で、大切なことを伝える為には重要なことである。

しかし、それを話している時に気づくことだってある。それはそこに「まったく異なる価値観を抱いている他人」がそこに存在しているからだ。「これについて話す」と決めていても、それに対するレスポンスによって自分自身の話や考え方に変容が生じることはそのコミュニケーションの中で生じるものである。常に変化していくものである。それを無視して僕等は本当に大切なことを伝えたい相手に伝えることが出来るのだろうか。

僕は以前の記録で「ユーモアを以て語ること」の重要性について少し触れた気がする。正しくそれをエッセーや小説で表現しているのが後藤明生だと思われて仕方がないのである。僕はこれも何度も書いているが、話をズラすことの重要性。しかし、簡単に書いてはいるものの、それを実行するのは難しいものである。後藤明生はそれを上手い具合にやってみせる。

 次の英文を和訳せよ。《早起きは三文の得》

 その解答欄にわたしは書き込むことができなかった。ジ・アーリィ・バード・キャッチズ・ア・ウォーム。早起き鳥は虫をつかまえる。まったく情ないくらい単純な話だ。しかし諸君、人生とはまさしくそのように単純で、ごまかしの利かないものなのである!もっともわたしが、「諸君」などと呼びかけてみたところで、誰かが「ハイ!」などと返事をするわけではない。もちろんこの橋の上にただ立っているだけの男の人生など、現在の諸君の人生とは何のかかわり合いも持たぬはずだ。いったいわたしは何者であるのか、一向に諸君にはわかっていないからである。ただ、もしも、いったいこのわたしが何者であるのか、ほんの一瞬間だけ通りすがりの諸君に興味を抱かせるものがあったとすれば、それはわたしの外套のせいだ。

後藤明生『挟み撃ち』
(講談社文芸文庫 1998年)P.11,12

僕は『挟み撃ち』の中でこの部分が1番好きである。最初の方なんだけれども、僕はこの部分でがっちり心を掴まれてしまったのである。最後の部分への流れが素晴らしくユーモアにあふれている。最初は英語の問題の解答について話していたのに、それが「諸君」という呼びかけに話がズレ、そして自分自身が何者かという問題に行き、最終的に突然「外套」という話題に行く。この移動が素晴らしくスムーズで面白いのである。

古井由吉の場合は言葉から言葉を呼んで話が進んでいくのに対し、後藤明生の場合は場がズレるという感覚。スライド、スライド、スライド…していく感じがするのである。ここが後藤明生の好きな所である。言葉が言葉を呼ぶということで話が広がって行くというのは、どこか線的なイメジを僕は持っている。それは樹形図的な、リゾーム的なものである。それはそれで面白い訳だが、生成される場ということを考えてみた時に、少し形而上学的なイメジを僕は持つ。

ところが、後藤明生の場合、無論その端緒は言葉である訳だが、そこに居る人物という点は固定的な中で場だけがズレる。そしてズレて行くごとに合わせてその人物も徐々にズレていく。そういう感覚が僕には堪らなく居心地が良いのである。言葉から言葉へという大きな跳躍ではなく、小さなスライドを数多く重ねることで大きな進展をする。そこが面白い。

ただ、それを実現できるのはやはりユーモアを含んだ後藤明生の書き方にある訳だ。言ってしまえば「セルフツッコミ的書き方」という感じなのか。僕は結構それを真似ている部分が少なくともある。この引用箇所の『挟み撃ち』で言えば「諸君」の所の話が正しくそれである。たった「諸君」という2文字でここまで場をスライドさせる技量には感服する。僕もこういう書き方をしたいなと実は心密かに願っている。

というよりも、古井由吉よりも後藤明生の方が生活に近い感覚があるのだ。古井由吉は芸術感覚がより洗練されているといった感じだ。そして僕らの生活に近いのが後藤明生という感じがする。このスライドするのも僕らが生活で誰かとコミュニケーションを図る時にも結構肝心なことだと思われるし、現実にあり得そうなことである。古井由吉の方が玄人向けというイメジをここ最近では持つようになった。


「現実ほど幻想的なものはない」

ここ最近、本当にそれを感じる。その幸せに溺れそうになる瞬間が多々ある。そして時折、夢か現か分からなくなる時がある。本当にこの現実が幻想的であると感じることが増えた気がする。それについては先日に散々書いた訳だが。

僕は今、宙ぶらりんである。

夢と現の合間で、その淡いの中で生きている。そういう感覚が日ごとに強くなってきている気がする。現実を考えることは同時に夢を考えることでもあるのではないか。そんなことを後藤明生のエッセーから考えてしまった。現実が幻想的であるならば、幻想も現実的であるのではないか。いや、これはあまりにも突飛すぎる発想だ。

さて、実はこの記録では他に書きたいことが沢山あった。本当は『日本語と日本人の心』という本と、最初に引用した谷川俊太郎の『手紙』という本について様々に書きたかった訳だが、後藤明生の話に飛んでしまった。これはこれで自分の中で愉しく書けたので良しとする。人間の思考というのは流動的である。その流れに身を任すのもまた一興である。

よしなに。

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