雑感記録(358)
【曖昧な季節】
朝、目覚めても頭がスッキリしない。昨日はどうも心身共に不調を来していて仕事から自宅に戻って、すぐに眠ってしまった。睡眠時間は十分に確保出来ていたのだけれども、小頭が痛いような。そんな感じで1日が始まろうとしていた。毎度毎度で恐縮だが、低気圧にはやはり勝つこと出来ない、自然を目の前にして人間は如何に無力であるかということを思い知らされる。
雨の日は色々と思考も暗い方へ暗い方へ進んでいきがちだ。しかし、自分で言うのも何だが雨の日の思考というのは思いの外、気に入っているのである。僕はポジティヴに振舞っているように見せているけれども、その実はネガティヴから来るものである。僕の根源にはそういったネガティヴな感情というものが存在している。何度も言うようで恐縮だが、「ポジティヴ/ネガティヴ」と区分すること自体が僕からすると変な話であって、どちらも心の中の1つの正常な働きであると考えれば、やはり「渾然として一」である。
だから思考のパターンにはそういったものが混在する中で、謂わばカオスから生まれるものである。それがたまたま偶然にも僕の場合は雨の日がよく色んなことをマイナス方向へ思案する傾向にあり、何だか冷めたような姿勢で物事を捉えることが出来るので、心身が優れていない分「興奮」が抑えられて薄暗い、それこそジメジメしたようなフィルタを積極的に掛けることが出来るので僕にとってはそれが好みであるということだ。
ところで、僕はこういう雨の日にはLed ZeppelinのThe Rain Songが無性に聞きたくなる。Led Zeppelinは父親の影響で幼少期から聞き慣れている訳で馴染があるアーティストである。何なら古着屋でLed Zeppelinの長袖と半袖を意識して購入するぐらいには好きなアーティストである。
Led Zeppelinは他と比べると長尺な曲が多い。よく方々で聞かれるImmigrant Songは大体2分強ぐらいで終わる訳だが、Stairway to Heavenは約8分である。このThe Rain Songも7分後半ぐらいである。意外と長い曲は聞きにくいかなと思いきや、不思議と聞けてしまうのである。しかも、Led Zeppelinの場合はどことなく暗さみたいなものを感じることが出来て、僕は凄く好きなのだ。あの反復感が堪らなく居心地の良さを感じてしまう。
少し話は脱線するが、メタルというジャンルの曲はわりと長いものが多い。代表的な所で言えばDream Theaterなんかは長尺の曲が多い印象だ。僕の知る限りでは、曲名は忘れてしまったが14分ぐらいの曲があった気がする。このように書くと長いという印象を持つかもしれないのだが、実際聞いてみると意外とあっという間である。特にDragonForceなんかは長い上にギターテクニックで延々と聞いていられる。
まあ、そんな話はさておいて。とかく雨の日になると僕はLed ZeppelinのThe Rain Songが無性に聞きたくなるということだけの話だ。それでこの曲をここ最近では流しながら久々に読書をすることが出来ている。僕は読書人生10数年でやっと判明したというか分かったことだが、暗い気分の時には読書がわりと捗るみたいだ。ここ最近の低気圧と自身の様々なことが重なったお陰で読書が捗っている。
大体、人間幸せな気分の時に読書をしようなどとは思わない。確かミシェル・ウェルベックだったかな。「人は人生を愛している時に読書はしない。」みたいなことを言っていた気がする。加えて「芸術みたいな世界の入り口は人生に少しばかしうんざりしている人たちの為に用意されてる。」みたいなことも言っていた気がする。それが肌感を持ってやって来るのが何となくだけれども分かる。
とはいえ、別に僕の人生は今の段階では幸せである。先のことは全く以て分からない(と書くと語弊がある。ある程度の予想は出来る訳だが、そこに確実性があるかということを考えた時に「分からない」と表現するのが妥当だろう)のでこの先の人生を愛せるかどうかなんてのは知る由もない。待てよ。これはつまり、読書をするという時点で幸せではないということなのか?何だかよく分からなくなってくる。
僕は最近、再び『新記号論』を読み始めている。これは2周目である。
やっぱり対話形式の本というのは読み易い。僕は常々だが読書は音であると思っている人間なので、こういう形式だと話す言葉のリズムも伝わってくるので僕もそこに没入しやすい訳だ。そう言えば、『アミダクジ式ゴトウメイセイ』も読み途中であった。これも近々読まねばなるまい。「なるまい」というか読みたい。
この『新記号論』を読む度に思わされるのは、やはりフロイトをしっかり学んだ方が良いということである。心的機能と言葉という部分で考えているという点に於いては、僕等の日常生活に密に結びついているものなのだからその端緒として読まねばなるまい。しかし、中々その重い腰が上がらず僕はラカンに逃げる。だが、実際ラカンの方が難しいという現実がある。『エクリ』を3冊揃えて読み始めたが、日本語版の序文に寄せられた文章を読み、僕は『エクリ』を読むのを辞めたことを思い出す。
とかく僕はその時々で読んだ本に影響されやすい傾向にある。今は『新記号論』に影響され、新しいフロイト解釈の元で『夢判断』を読み直そうという機運が高まっている。しかし、「これを読んで満足だ」という自分自身もどこかに存在していて、それはそれで良くないなと反省する自分が居る。一応『精神分析学入門』は読み終えた訳だが、『続精神分析学入門』までは未だ手が付けられていない訳である。どこまでも曖昧で中途半端な自分自身である。良いか悪いかは置いておくとしてもだ。
しかも僕は飽き性という性質もあるので、1冊の本を集中して読むことが中々に出来ないのである。一度に何冊かを同時並行で読まなければ読書自体に飽きてしまうのである。それでこの『新記号論』と同時並行で『物語消費論』を読んでいるのだが、これもまあ中々面白くて止まらない。
ちなみに言うとだ、これのアップデート版が『動物化するポストモダン』である訳で、何だか僕は東浩紀の信者みたいな様相を呈してしまっている。そう言えば、遂に先日『訂正可能性の哲学』を読み終えた。これを読み終え、再び『一般意志2.0』を読み直す機運が高まってきているのだが…どうなのだろう。自分でもよく分からない。だがこう書くということは読むんだろうなと自分では思っている。曖昧だなあ。
この『物語消費論』では所謂「ビックリマンチョコ」を中心に据えて「大きな物語」について考える。この本の最初でも書いてある通り、僕は真っ先にプロップの『昔話の形態学』が想起された。やはりこう考えてみると白水社は僕にとって救いの出版社なんだなと思わされる。ジュネットの著作が読めるのも白水社のお陰である。頭が上がらない思いである。最近もジュネットの『スイユ』を購入した訳だが、これもまた中々に面白い。
僕は以前の記録で「アマチュアでいたい」ということを書いた。
言ってしまえば、「アマチュア」という立場も至極曖昧で、どっちつかずみたいな感じではある訳だ。そういうスタンスの方が縛られずに横断的に読めるから愉しい。しかも、誰かに講釈を垂れる訳でもないので何かに追われて読書をするというよりも、フラフラっとした気持ちで読めるから幾分か気は楽である。とは言うものの、こういう場で書くからにはそれなりの意識と覚悟は持たなければならないということは注意しておきたいところではある。
何事かを始める初期衝動というものを僕は大切にしたい。いつも考えていることだ。例えそれがどんな理由であれ、それを忘れてしまっては続くものも続かない。人間関係に於いてもそうだしこういう趣味やライフワークに関してもそうだ。一体何故それを継続出来ているのか。そこに立ち返ることは重要である。だからこそ僕は一生「アマチュア」でいたいと思うのである。
もっと言ってしまえば、その途中途中で出てくる曖昧さを如何に愛することが出来るか。この曖昧さに対してそれをなーなーにして過ごすことも出来るっちゃ出来る。だから僕は「習慣」というのが酷く恐ろしいものに思えて仕方がない。僕は毎日古本屋に入り浸っていることが「習慣」化してしまっているので、もうそこに居ることが当たり前になってしまっている。しかし、これは何度も書くようだが「あたりまえじゃねぇからな!」ということである。
曖昧さというのと向き合うということは、自身の想像力がタフネスでないと中々難しいことである。それは単純にそして平板化して書くならば「どうでも良いことに対して考える」ことだからである。この「どうでもいい」という部分が肝心で、それが主観的に見て「どうでもいい」のか客観的に見て「どうでもいい」のかという点でガラリと変わってくるからである。誰かと、何かと関わるということはそこを同時に考えなければならないのではないかと僕には思えて仕方がない。
どうでもいい話だし、自分で書くのは些か烏滸がましい話だが、僕は客観的に物事を捉えるのは得意な方だ。それがしかも自分の背後に自分が居るという近接的な客観ではなく、本当に空中に自分が居て状況全体を眺める客観、そうだな「俯瞰的」という表現で事足りるのだろうか。そういうのは得意だと思う。だが、「俯瞰的」という言葉はどうも苦手で、そこに僕という存在がまるで無機物のような様相を呈している感じがしてしまう。だから回りくどく「客観」という言葉で「俯瞰的」を語った。
「主観」と「客観」というのはどうも僕にとっては難しい言葉である。僕は正直どっちも「主観」だろという立場なので、「客観」という言葉は使うがその実これも「主観」の一部だと考えている。それは単純に「これは客観的であると考えているのはあくまで僕の主観」だからである。この世に「客観」というものは実在せず、実はそれもまた「主観」であるということを忘れてはいけない気がする。
そして逆を返せば、「客観」は何処まで行っても「主観」であるということが分かっているからこそ、冷静になれる部分というのはあるように思う。これは人間関係なんかではよく分かる話なのかもしれない。ちょうど昨日書いた僕の記録なんかが正しくそれで、「心配している」ということは言ってしまえば「敬意を含んだ想像力の産物」と書いている。無論、確かに相手に対しての想像力を働かせて言っている訳だが、結局それは自分自身の主観でしかない訳だ。
だから僕は「心配」することを辞めようと心から思った。厳密には「心配」という言葉をなるべく使わないようにしようと思った。しかし、こう書きはしたもののそれに代替する言葉が見当たらない。何よりそれが今の自分を苦しめている1つの要因であると言っても過言ではない。どうしたもんかなとここ数日頭を抱えている。
窓を開けると涼しい風が入って来る。この文章を僕はパンツ一丁で書いている。寒い。まだ冬でもないのに冬のような寒さだ。この至極曖昧な季節感は何なんだと腹立たしくなる一方で、僕は僕自身に起こる曖昧さと向き合っていかねばならないなと密かに決心した、そんな夜である。
よしなに。