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雑感記録(394)
【『風姿花伝』に学ぶ】
これ、人々心々の花なり。いづれをまことにせんや。ただ、時に用ゆるを以て、花と知るべし。
《現代語訳》
つまり「人々心々の花」で、人それぞれの心で花が異なるわけであるが、そのいずれもが花であり、どれが真実の花であるなどと差別はできないのだ。ただただ、その時々に人々に賞讃され、役に立つものが花であると心得るがよい。
この部分を読んで、僕ははたと「あ、ニーチェだ」と感じた。『風姿花伝』が成立したのは1400年から1402年ぐらいである。能というジャンルで、言ってしまえば芸術論にはなる。それにここで語られる花というのは、所謂「珍しさ」であったり、もっと有体に言えば「興味関心」である。そして引用箇所日本語訳の「どれが真実の花~心得るがよい」というのは正しく、「真理というものは存在しない」というようなことを語ったニーチェと重なって見えたという個人的な感想である。
僕は「能」のことなど知らぬ存ぜぬだが、知らない身として『風姿花伝』を読むと色々と発見があって面白い。僕は常々「生活」の重要性を説いており、芸術と呼称される作品には「生活」が重要であるということをしばしば書いている。だが、『風姿花伝』は言ってしまえば、能楽論である。つまり僕の「生活」には何ら直接的な関りなどは無い。それを読み手として自身の生活にどう落とし込んで行けるかということを考えながら読んでいる。
特に有名な部分としては「幽玄」という言葉が挙げられる。
これは能楽を知らない人間でも、日本史を選択していた人間であるならば聞いたことはあるのではないか。世阿弥、観阿弥と言えば『風姿花伝』、『風姿花伝』と言えば「幽玄」ぐらいの感じではないだろうか。しかし、この「幽玄」を調べてみると、何も『風姿花伝』だけの話ではない。古来より他の分野、例えば和歌などでも説かれていることであるらしい。これまた『日本国語大辞典』より引用してみよう。
ゆう‐げん[イウ‥] 【幽玄】
解説・用例
〔名〕
(6)日本の文学論・歌論の理念の一つ。(1)の深遠ではかり知れない意を転用したもので、特に、中古から中世にかけて、詩歌や連歌などの表現に求められた美的理念を表わす語。「もののあわれ」の理念を発展させたもので、はじめは、詩歌の余情のあり方の一つとして考えられ、世俗をはなれた神秘的な奥深さを言外に感じさせるような静寂な美しさをさしたものと思われる。その後、一つの芸術理念として、また、和歌の批評用語として種々の解釈を生み、優艷を基調とした、情趣の象徴的な美しさを意味したり、「艷」や「優美」「あわれ」などの種々の美を調和させた美しさをさすと考えられたりした。また、艷を去った、静寂で枯淡な美しさをさすとする考えもあり、能楽などを経て、江戸時代の芭蕉の理念である「さび」へと展開していった。
*忠岑十体〔11C初頃か〕「此体、詞雖凡流義入幽玄、諸歌之為上科也」
*作文大体〔1108頃か〕「余情幽玄体 花寒蘭菊照題。菅三品詩云、蘭苑嵐摧紫後、蓬莱洞月照霜中 此等誠幽玄体也」
*長承三年中宮亮顕輔歌合〔1134〕「左 新中納言 見渡せばもみぢにけらし露霜に誰すむ宿のつま梨の木ぞ〈略〉左歌、詞雖擬古質之体、義似通幽玄之境」
*本朝続文粋〔1142~55頃〕一一・柿下人麿画讚〈藤原敦光〉「方今為重幽玄之古篇、聊伝後素之新様」
*加持井御文庫本御裳濯河歌合〔1189頃〕「心なき身にもあはれは知られけり鴫たつ沢の秋の夕暮 鴫立つ沢のといへる、心幽玄に姿及びがたし」
*慈鎮和尚自歌合〔1198~99頃〕「もとより詠歌といひて、ただよみあげたるにも、打詠じたるにも、なにとなくえんにも、幽玄にもきこゆることのあるべし」
*無名抄〔1211頃〕「歌のさま世々によみ古されにける事を知りて、更に古風に帰りて幽玄の体を学ぶ事のいで来る也」
*亀山殿五首御歌合〔1265〕一二番・判詞「老てすむ嵯峨のの草のかり庵にいく秋なれぬさをしかの声〈略〉老てすむ嵯峨野、作者誰人哉、殊心幽玄之由さたありて」
*風姿花伝〔1400~02頃〕序「言葉卑しからずして、姿ゆうげんならんを、うけたる達人とは申べき哉」
*花鏡〔1424〕幽玄之入事「公家の、たたずまひの位高く、人望余に変れる御有様、是、ゆふげんなる位と申べきやらん」
*正徹物語〔1448~50頃〕下「幽玄と云ふ物は、心に有りて詞にいはれぬもの也。月に薄雲のおほひたるや、山の紅葉に秋の霧のかかれる風情を幽玄の姿とする也」
*心敬僧都庭訓〔1488〕「心もち肝要にて候。常に飛花落葉を見ても、草木の露をながめても、此世の夢まぼろしの心を思ひとり、ふるまひをやさしく、幽玄に心をとめよ」
JapanKnowledge, https://japanknowledge.com , (参照 2025-01-28)
「世俗をはなれた神秘的な奥深さを言外に感じさせるような静寂な美しさをさしたもの」ということらしいのだが、何だか難しい表現である。「幽玄」という言葉を見るだけでは全く以てその「幽玄」が見えてこない。「もののあはれ」の発展と言われてもイメジが湧かない。かと言って「能を見れば分かるか?」と言われれば果たしてどうなのだろうか。
「これが幽玄と呼ばれるものです」というように指で指し示すことが出来ない。あくまで「こういう感じ」としか表現の仕様がないのである。そして、先の『風姿花伝』の如く「人々心々」なのである。誰かが何かを「幽玄である」と言っても、それを見ている別の人が「いや、幽玄ではない」ともなればそれぞれが、それぞれにとっての「幽玄」であり、また同時に無かったりもするのである。総体的に「幽玄」などというものは存在しない。
例えば、何かの作品を100人に同時に見てもらう。「ここが幽玄だ」と思ったら手を挙げてください。とでもしない限り、「幽玄」などというものは判明しない。しかし、逆を返せばそれゆえに「幽玄」は「幽玄」足り得るのかもしれないなと考えてみることにした。「幽玄」は誰の心にも存在しているが、外に出て交じり合った時、「幽玄」は「幽玄」でなくなる。そのぐらい柔らかいものである。取扱注意だ。
「誰しも共通として持っている認識」を言葉にするのは容易い作業なのかもしれない。しかし、「誰しも共通として持っているけれども、外に出した瞬間に別のものになってしまう認識」というのは難しいことなのだろうと思う。言葉が流動性を持つということは正しくこういうことなのかなと何となく感じている。確固たる何かではなく、何となくこうだよねを表す言葉は難しい。
感情を言葉にする、心象を言葉にするのは中々難しい。言葉は建築の材料の如く均一に綺麗に整えられている訳ではないのだ。組合わせて感情を創り上げた所で破綻する。まばらな形の言葉でどう繕ってもそれは諸刃の剣でしかない。隙間に様々な言葉が介入し、内部崩壊を引き起こし、感情はうやむやになってしまう。これも涙が流れる1つの原因だったりするのだろう。しかし、そこに具体的な感情の言葉はない。言い表せない言葉の集積、内部崩壊による涙である。
再三に渡って書くが、僕は能を知らない。強いて言えば、宮藤官九郎が脚本を書いた『俺の家の話』ぐらいでしか知らない。
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このドラマの中で、そう言えば長瀬智也が「秘すれば花」と言っていたことを思い出す。これも『風姿花伝』にまるまる1章で掲載されている。タイトルも長瀬智也が言っていた形とは異なるが「秘する花」というものである。以下に引用するが、「花」という部分は先にも少し触れたが「興味関心」「珍しさ」とでも解していただければと思う。
一、秘する花を知る事。秘すれば花なり。秘せずば花なるべからず、となり。この分け目を知る事、肝要の花なり。
《現代語訳》
一、花は秘密にすべき事を知らねばならない。秘密にしているからこそ花になるのであり、秘密にしないことには花になり得ないのだ。この、花となり、花とならぬ理由を分別することが、花の秘訣なのである。
「興味関心」「珍しさ」をひけらかすことは、あからさま過ぎである。それをひけらかしてしまえば、「興味関心」「珍しさ」も「興味関心」「珍しさ」とはならない。それは秘密にされて初めて「興味関心」「珍しさ」になるということである。自分で書いていて分からなくなってきた。ただ「秘すれば花」という字面だけ捉えるのであれば「秘密にしているからこそ花である」ということである。
しばしば、親密になる1つの手段として「秘密を共有する」ということがある。お互いの秘密を共有することで、それを明かしてくれた仲であるということ。そして、お互いの本心を曝け出したことになる訳なのだ。しかし、『風姿花伝』によれば「秘すれば花」である。秘密の共有が果たして本当に親密度を上げる効果に繋がるのだろうか。むしろ、「秘すれば花」を徹底し、興味関心を継続させることの方が余程良い気はする。ただ、これはあくまで親密度を増す為の手段としてである。信頼関係が構築されている場合には不要だろう。
『俺の家の話』で長瀬智也がどのタイミングで「秘すれば花」という言葉を言ったかは思い出せない。また再度ドラマを見直そうと思う。しかし、それにしても「能」というのは奥が深いなと感じている。『風姿花伝』の外にも『花鏡』も読みたいなと思う。そんなことを考えている。
何の話を書きたかった分からない。
よしなに。