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雑感記録(206)

【深い思考を目指して】


ここ数日、再び柄谷行人を読み始める。

僕は毎日神保町に居るので、当然に毎日本を購入する。読みたい本を購入している訳だから、購入する度にその本を読み、他の本を読み…というサイクルを日々繰り返している。最近ではアガンベンの『バートルビー 偶然性について』や浅田彰の『構造と力』、中平卓馬の『なぜ、植物図鑑か』など読んでいた。ところが読んでいると「あれ、これ柄谷行人とか言ってなかったっか?」となることが多く、柄谷行人を引っ張り出して読んでいる。

『世界史の構造』は既に読み終えたので、今度は『力と交換様式』を読み始めることにした。

これが中々面白い。いや、もう面白くて仕方がないのだが…。僕はここ最近の記録で頻繁に「交換様式A」という言葉を使用している。これは柄谷行人の言葉である。『世界史の構造』で僕は初めてその概念に触れ、「交換様式Dは高次元での交換様式Aの回復」と言うのがどうも気になって仕方がなかった。しかし、『世界史の構造』ではあまり詳細に触れられていない印象があり、僕は悶々としていた人間である。しかし!なんと!それを詳細に書いてくれたのがこの『力と交換様式』である。

今日読み始めて実は未だ「交換様式A」についての章には入れていないのだが、最初からもう面白い。「なるほどな」と気付かされることが多い。所々難しい所があるのだが、不思議と柄谷行人の文章はスンスンと入って来る。言葉について真剣に考えている哲学者であるが故の文章なのだなと感動する。これについても過去に引用している『ダイアローグⅠ』での中村雄二郎との対談を参照して貰えれば良いだろう。近々の記録であるとこちらに引用している。


それで、最近僕は「考えること」ということについて考えている。

いきなり変なことをまた言い出す訳だが、様々な哲学書を読むとそれを考えざるを得ない。いや、というよりもいかに自分が考えられていない人間なのか痛感するのである。このnoteに浅いことを言葉の量を費やして書いていることに時たま自分自身で辟易としてしまうことがある。ただ、書き続けていると何となくこうパッと発見することもあり、書き続けることは僕にとっては同時に思考していることと同じなのである。僕にとって書くことは考えることである。

これは以前の記録でも書いたと思うのだが、最近「考えること」が出来ていないような気がする。僕が偉そうに言えたことでは決してないが、社会全体として「考えること」が出来ていないような気がする。こう言うことを書くと「そんなことはねえぞ」と言われかねないが、しかしどうも僕個人的にはそう思えない。何と表現すればいいのだろうか、立ち止まって思慮深く考えることが出来なくなってしまっているような気がする。

これは社会的なことが大きな要因だろうか。勿論僕はそれもあると思う。でも、結局は個人の所に帰結するような気がする。今、資本主義社会の中で…云々と書こうと思ったが辞めた。だって、そういう社会の中でもより思慮深く思考できている人間はいるのだから。様々な批評家や哲学者や小説家と呼ばれる人たちはこんな社会でも本を書き続けている。一般の人でも様々なところで、例えばブログやSNSなどを使って発信している人も居る。あるいはそういうものを利用しておらずとも、自己のうちに思慮深い思考を巡らせている人だっている訳だ。

一概に社会が悪い訳ではない。

勿論、社会構造として僕等がどうしようもすることの出来ない問題と言うのは当然にある。しかし、だからすぐに「これは社会のせいだ」とするのは些か短絡的じゃないかと思う訳だ。これは人間関係にも同様のことが言える。上手くいかないことが発生するとそれは相手側の背後関係にあるもののせいにしたりする。いい例で言えば嫁姑関係がそれに該当する。終局行きつく先として「相手の育ちが悪い」という結論に行きがちである。それは違うのではないか。相手の育ちはいま・ここには関係のないことである。大概そういうことを言う人の方に落ち度がある訳で、これがまあ個人的には痛快な訳だが。


それで、これまた個人的にどうして思慮深く考えることが出来ないかと考えた時に、単純に僕は「語彙力」の問題なんじゃないかと思う。そうしてその「語彙力」は読書、それも「骨のある読書」によって鍛えられるものであると僕は考えている。つまり、何が言いたいのか。これは簡単だ。「本読んでない奴はやべえ」と言うことである。

そうすると、「じゃあ、何でもかんでも本を読めば良いんだな」と訳もわからずSNSで紹介されている本を読むことになる。だからこそ、SNSでの本の紹介は皆気軽にやっているようだが、そういうことをするからには責任を持ってもらいたいのである。SNSなどは学生や若い子たちも当然に見る。僕はね、個人的にだけれども若い人達こそ骨のある読書をしてほしいと切に願う人間である。

若い時期から自己啓発書なんか読んだ日には世も末である。

最近、SNSでも若い子たち、特に大学生が自己啓発本を読んで人生変わったみたいな投稿を挙げているのを眼にする。それはそれで構わないとは思う。それで当の本人の人生が嘘か真かは別として、「変わった」と言うのだからそうなのだろう。しかし、だからと言ってそればかり言われても僕からするとね、余計なお世話かもしれないけど「どうなの…?」と思わざるを得ないんだな。

それは果たして本当に自分自身で考えていることになるのか?

何と言うか、これも凄く言い方が悪いんだけれども、今の自己啓発本の市場ってどこか「悪質商法」的な「ねずみ講」的な様相を呈している気がして怖いんだな。「これ読めば人生変わるから」というのをSNSで紹介してそれに若者が感化されて読む。そうしてその若者がまた…というようにある種の連鎖販売的な要素を感じてならない。この場合は商材が合法的なものだからさも悪いような気はしないけれども、骨抜き的な読者を増産するには持って来いの手法であるような気がする。

まあ、もうこれ以上は言うまい。

ただ、これは大切なことなので断っておきたい。別に自己啓発書やビジネス書そのものが悪いとは言えない。というのも、僕も読んでみて面白いなと思うビジネス書はある訳だ。しかし、自己啓発本にはロクなものがないというのが僕個人の印象である。ビジネス書は特に現代の時代背景も加味されたうえで書かれているのでまだマシなだけではあるのだが。でも、やはり自身の思考力を鍛えるという部分では文学や哲学、映画、美術などに勝るものは無いのではないかと僕は思ってしまうんだな。


とにかくだ、僕は深い思考をする為に文学や哲学、映画、美術が必要なのである。ニーチェも言っているが、それが自分にとって必要かそうでないかが肝心な訳で、僕にとってはそれが思慮深い思考をする為に必要としている。ただそれだけの話なのだ。

じっくり考えること。時間に怯えるのではなく、目の前にあることをじっくりゆっくり考えてみることも大切である。

これから柄谷行人を読むのが愉しみである。

よしなに。

最近のお気に入り。詞にポエジーを感じる。





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