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雑感記録(367)
【駄文の円環part17】
最近どうも気持ち良く文章が書けないでいる。
それに加えて、読む気力みたいなものも無くて、今自分は本当に何をしているんだろうかと心中穏やかではない。こういう時に「焦ってはいけない」ということが思惟されたとしても、身体機能としての働きとしてはどうも動かない。例えば仕事から自宅に帰り、お風呂やら掃除、夜ご飯を済ませた後の自由時間。僕はただダラダラとNetflixかAmazon Primeを見ている。本は僕を圧迫するし、自分も本を読みたいし、noteも書きたいのだけれども、如何せん心が晴れやかではない。
だからここ最近の記録というのは言葉が自分でも「自分で書いている」という確証がないまま、ただそこに書き連ねているに過ぎない。手触りのある言葉というと些か格好つけすぎかもしれないが、しかしどうも零れ落ちて行く感覚が拭いきれないでいる。身体と言葉がうまく合致せず、更に思惟とも相反する形である。どうしたものかと日々考えあぐねながら過ごしている。
別に書くことが読むことが嫌いになった訳ではない。ただ、何となくだけれども自分自身にとって「書く」「読む」という選択肢が日毎に希薄になって行く。そんな感じである。そして昨日か一昨日かに書いた記録ではいよいよ自分自身の存在すら希薄になって行く瞬間というものが訪れた訳である。果たして僕と言う存在はここに在るのかということである。
中々自分でも馬鹿げたことを書くなあと思う反面、でも実際に自分と言う存在が何によって担保されているのかということについて考えてしまう。それを僕は「リアル」と「現実」という観点で書いてみたが、しかしどうもしっくり来ていない。何を以てしてここに在るのかということ。それは「存在意義」みたいな言葉では決してなくて、ただそこに自分が在るという確証そのものがどんどん薄められて行く感じである。
人間の存在は物理的な身体を持っている。これは既にそこに在る訳だ。しかし、僕等が思惟する場合と言うのはそこに身体は在るけれども、どこか浮遊した存在であるはずで、身体と思惟が一致するというのは難しいものである。というより、それをコントロールしたくない自分自身が存在する訳である。僕は僕自身が僕であるという確証を持てずにいる。
デカルトはかつて「Cogito ergo sum」と言い残した。日本語にすれば「我思う故に我あり」といういことである。考える自分が居るから自分自身がここに在るということを言っている訳だが、今の情報社会で果たしてそれが通用するのかは難しい所だ。また、平野啓一郎が言うところの「分人」と言うものでも片付けられないような何かが存在する。
そもそも、どうして身体と思惟を一緒にしなければならないのかということを考える必要があるのか?と書いてみたところで、お互いがお互いを補完する働きである訳で、どちらかに優位性のあるなしというのは結局のところ無意味であって、一種の諦念が必要ではないかと思われて仕方がない。つまり、人間という存在はどう頑張っても「ここに在る」ということを確証する何かを持ち得ているようで、実は持ち得ていないのではないかということを僕は言いたい。
しばしば「アイデンティティ」という言葉で、自分のルーツやら自分の存在の根源を表現しようとする輩が居るが、僕はそれで「僕のアイデンティティは〇〇です」と容易く言えてしまうそのこと自体に危機感を抱かざるを得ない。そんな端的に表現できる程、人間という存在はやわではないし、簡単なものではない。もし、それが簡単に分かるのであれば、世の中のいざこざや、人間関係なんかも悩まずにスムーズに行くはずだ。
これを書いていてふと思ったが、安易に外国語を使うのは危険だなと思う。
先程まで僕は「アイデンティティ」という言葉を使って表現した訳だが、これを日本語で説明すると長くなる訳である。試しに辞書を引いてみようではないか。
アイデンティティ
解説・用例
〔名〕
({英}identity )《アイデンティティー》
(1)他とはっきりと区別される、一人の人間の個性。また、自分がそのような独自性を持った、ほかならぬ自分であるという確信。組織、集団、民族などにも用いる。自己同一性。
*新西洋事情〔1975〕〈深田祐介〉日本「業者思想」欧州に死す「特に官庁、民間大企業などおおきな組織に長期間にわたって『ご用達』を許されていれば、『業者』としてのアイデンティティはまさに完璧になります」
(2)本人にまちがいないこと。また、身分証明。
https://japanknowledge.com , (参照 2024-11-18)
ここには仰々しく「ほかならぬ自分であるという確信」なんて書かれている訳だが、しかし「アイデンティティ」というカタカナにして8文字。だが、この解説は(1)だけでもざっと70数文字ぐらいである。たった一言で表現できてしまうその便利さには感嘆するが、しかしそこに内包されたものには少なくとも多数の文字を使用して表される何かが存在する訳である。
昨今ではビジネス用語でやたらと横文字が使われる。「アジェンダ」とか「リスケ」(しかも、これは元来「リスケジュール」である!)「コンセンサス」など挙げ出したらキリがないが、こんな言葉が横行している。そういう言葉が溢れるこの世界で、どうして「ほかならぬ自分であるという確信」などというものが生まれるのだろうかと僕は感じてしまう。
そもそもだ、僕等の人間存在なるものが言葉だけで表現出来得るほどの存在なのだろうか。これまで僕は「自分自身の存在の不確かさ」的な感じで書いている訳だが、様々に言葉を尽くしても取りこぼしてしまうことなど山のようにある。どれだけ言葉を尽くしても、どれだけ頭をこねくり回しても、取りこぼしてしまう何かがある訳だ。その取りこぼしをどう捉えるかが、実の所、「アイデンティティ」と呼ばれるものなのではないかと僕は思っている。
ここまでダラダラ中二病みたいなことを書いている訳だが、それでも自分自身が取りこぼしている何かはある。それが具体的にどういうもので「これだ!」と名付け得ぬものである訳だが、それをどうするかということに僕は日々頭を悩まし続けている。僕にはそれを言葉に無理矢理にでも変換することしか術がないと考えた時に、「ああ、自分は何て詰まらない人間なんだろう」と打ちひしがれてしまう。
だが、それと同時にバルトのあの言葉が僕を励ます。何度でも何度でも引用しようではないか。
すでに示唆しようとつとめてきたように、この授業は、自己の権力という宿命にとらえられた言説を対象とするのであるから、実際問題として授業の方法は、そうした権力の裏をかき、権力をはぐらかすか、あるいは少なくともそれを弱めるための手段に関係する以外ありえない。そして私は、書いたり教えたりしながら、次第に確信するようになったのだが、このはぐらかしの方法の基本的操作はといえば、書くときは断章化であり、語る時は脱線、または貴重な両義性をもつ語を用いて言うなら、遠足=余談(excursion)である。それゆえ私は、この授業において互いに編みあわされてゆく発言と聴き取りが、母親のまわりで遊ぶ子供の行き来に似たものとなることを望みたい。子供は、母親から遠ざかるかと思うと、つぎには母親のもとにもどって小石や布切れを差し出し、こうして平和な中心のまわりに、ぐるりと遊びの輪を描きだす。その輪の中では、結局のところ、小石や布切れそのものよりも、それが熱意のこもった贈物となる、ということのほうが重要なのである。
(みすず書房 1981年)P.52,53
「子供は、母親から遠ざかるかと思うと、つぎには母親のもとにもどって小石や布切れを差し出し、こうして平和な中心のまわりに、ぐるりと遊びの輪を描きだす。その輪の中では、結局のところ、小石や布切れそのものよりも、それが熱意のこもった贈物となる、ということのほうが重要なのである。」という言葉に何度救われてきたことだろうか。というより、それを今の今まで忘れていた自分が恨めしい。「自分自身がここに在るという確証」などというものよりも、それに対してああでもないこうでもないと付かず離れずという形で様々に苦悩するその熱意こそが肝心である。
こういう書き方をしてしまうと、何だか自分自身を自分自身で慰めているような感じで片腹痛い訳だが、しかし時には甘えたって良いだろう。甘えることだって重要であると僕は信じている。
「僕がここに在る」というその不確かさについて、ああでもない、こうでもないと僕の稚拙な文章をただ書き続けることで、きっとその周囲に転がった何かがある筈だ。先の言葉を借りるならば「取りこぼし」である。だから、そもそも「自分自身の存在とは?」みたいなことに対して正確な答えを得ようとしている自分自身がそもそもお門違いである。僕にアイデンティティなど存在しない。僕という存在はその「アイデンティティ」という言葉の外にある言葉の沈殿の集積によって形成されるのである。
だが、これはあくまで僕が文学やら哲学やらそういった部類での、言葉が中心に在るものだからこういう考えに至る訳だ。例えばだが、言葉以外に表現する方法を持っている場合なんかは、取りこぼしをわざわざ言葉に変換する必要なんていうのは無くて、絵画やら映画やら、そういった何かを創り上げるという行為に昇華してもいいはずだ。僕の場合にはたまたまそれが言葉と地続きであるというだけの話である。何も言葉で考えることが全てではない。だってそうでしょう?写真や絵について言葉で語り始めたら陳腐なものになるでしょう?よく分からんけど。
ただ、少なくとも確実に言えることは、「自分という存在」について「これだ!」と言える人間は怖い。それは言ってしまえば、強さゆえの弱さみたいなものである。世界を揺蕩って、自分という存在って何となくこんな感じなんだなといつでも変幻自在に移ろうことが出来る方がよっぽど人間っぽい感じがするとここまで書いてみて思う。季節という自然が移ろうように、人間もまた移ろう存在なのではないだろうか。
そこに確固として存在することが大事なのではなくて、如何にうまくして移ろえるかということが肝心である。という纏めをして、下がった自己肯定感を上げようとする僕の嫌らしい魂胆が見え隠れする訳だが、そんなことはどうでもいい。先の記録で言えば「リアル」と「現実」を行ったり来たりすることが肝心である訳で、自分がどこに居るなんていう問題は至極どうでもいいことなのである。人間は「ここに在る」という次元を生きてはいないのだ。僕はそれを最近忘れてしまっていたような気がしている。
生命は
生命は
自分自身だけでは完結できないように
つくられているらしい
花も
めしべとおしべが揃っているだけでは
不十分で
虫や風が訪れて
めしべとおしべを仲立ちする
生命は
その中に欠如を抱き
それを他者から満たしてもらうのだ
世界は多分
他者の総和
しかし
互いに
欠如を満たすなどとは
知りもせず
知らされもせず
ばらまかれている者同士
無関心でいられる間柄
ときに
うとましく思うことさえも許されている間柄
そのように
世界がゆるやかに構成されているのは
なぜ?
花が咲いている
すぐ近くまで
虻の姿をした他者が
光をまとって飛んできている
私も あるとき
誰かのための虻だったろう
あなたも あるとき
私のための風だったかもしれない
(花神社 1992年)P.30~33
きっと、僕という存在は僕独りでは存在しないのだ。関係性の総体の中で編まれていく布である。
人は1人では生きていけない。
よしなに。