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雑感記録(384)

【‟それ以前のもの”】


最近、中村稔の『言葉について』という詩集を読んだ。

この作品は計3部作となっており、最初が『言葉について』。2作品目が『新輯・言葉について 50章』。そして3作品目が『むすび・言葉について 30章』である。僕は古本屋で1作品目の『言葉について』を購入し読んだ。僕はあまり中村稔の詩については触れてきていない。加えて中村稔がどんな人(これはあくまで経歴やどういう事をしてきたかということであり、心象に浸る訳ではない)か知らない。

知的財産権に詳しい弁護士として、中松特許法律事務所で働き、日本国内外の商標・特許問題を処理し、文学関係でも、高村光太郎の遺族側に立ち初版版元との『智恵子抄』裁判(1973―93)に従事、日本リーダース・ダイジェスト社の漱石初版本無断復刻問題(1975)などで活躍、信頼を得た。この分野の第1人者で、「中村合同特許法律事務所」を率いて、のち代表パートナーの立場で後進を育てた。詩作で養われる表現力や想像力は、弁護士の仕事でも共通するという立場を持っている。

"中村 稔", 日本近代文学大事典, JapanKnowledge,
https://japanknowledge.com , (参照 2025-01-09)

『日本近代文学大事典』からの引用である。弁護士と詩人という二足のわらじで頑張る人らしい。僕はこの箇所を読んだ時に、こたけ正義感が頭の中を過った。あの人も現役弁護士でお笑い芸人もやっている訳で。そういう人たちは見ていて純粋に凄いなと思う。何ならこたけ正義感は自身の、弁護士であるということを利用している。YouTubeなどに動画が色々とあるのでぜひ見ていただきたいものである。

まあ、そんな話はただの余談に過ぎない。今日は他に書きたいことがある。


先にも書いたが、僕は中村稔の『言葉について』という詩集を読んで、言葉というものについて考えてしまったのである。特に以下に引用する詩の中では「言葉の影」という言葉(という言葉も影なのかもしれない)に僕は納得するようなしかねるような。でも、何となくだけど感覚として分かるなと思う部分があったのである。引用しよう。

 言葉は家常茶飯の底に燻ぶっている。
 じっと身じろぎもせず潜んでいる。
 家常茶飯のざわめきを怺えている。
 燻りながら暗闇の中で沈黙している。

 言葉が閃光を放つ時がある。
 あわてて私たちは閃光を捕捉しようとする。
 私たちが捕捉したと思ったときは、
 言葉は身をかわして逃げ去っている。

 私たちが捕捉できるのは言葉の影にすぎない。
 その影はさまざまな容貌をもっている。
 それらを私たちは言葉だと信じている。

 言葉は家常茶飯の底に燻ぶっている。
 私たちがいつか言葉が放つ閃光を
 捕捉できてもそれが言葉ではないことを私たちは知らない。

 

中村稔『言葉について』
(青土社 2016年)P.8,9

僕は「言葉の影」云々よりも以前の問題だと思うのだ。言葉を書くということは、言ってしまえば「意味を与える行為」に他ならないのではないか。僕等が話すあるいは書く言葉に実態が無いとも解釈できるような詩である訳だが、そもそも言葉自体がそういうものなのではないかと思うのである。それはちょうど先程書いた記録で実験し少し判明したことである。

この記録の意図として、僕はまず「言葉」を書くことを辞めた。手元にあるキーボードをただ無造作に動かして文字や記号をただひたすら打ち込んで行った。しかし、どうしても自分の癖かどうか分からないが、偏りが生じてしまう。同じ記号などを連打することも頻繁だ。自分の中で画面右上に薄く表示される文字数を見ながら「とりあえず9,000文字になるまでやってみよう」と思い、ただ何も考えず画面に反映される文字を見ていく。

途中途中で変換(スペースキー)を押しているので、かろうじて日本語になった部分については読めなくはない。いや、厳密に言えば「そこに文字がある」ということは認識できるのである。記号では無くて文字だ。漢字になったら、ひらがなになったら、カタカナになったら。僕はそれを文字だと認識する。しかし、それ以外の部分は文字というよりも記号という認識である。この時僕は意味を持つ繋がり=言葉を意識せずにただ打ち込んでいた。

しかし、一通り書き終わって、再び最初に戻って見るとそれが「何か意味があるもの」として眼前にやってくる感覚を覚えた。その文章は確かに、誰がどう見ても、明らかに、まごうことなく変な文章であり、意味などない。書いた僕自身でさえも書いている際にはそう思っていた。だが、一歩引き、読者として屹立した時、それは「意味が与えられているであろうはずのもの」として勝手に脳が認識してしまうことが分かった。(※あくまで個人の感想です。

そこにある文字を言葉としてまずは見ようとする。そして、言葉と言葉の連なりの中で文章として構築する。ということが無意識化のうちに行われてしまっている。そして何度も書いて恐縮だが「そこに何かしらの意味がある」と勝手に思い込んでしまうのである。あるいはこうとも言える。「意味を与えなければならない」というどこか使命感にも似た潜在的なものが僕等には存在しているのだろうと考えざるを得ない。

そう考えてみると、僕等が普段使用している記号や文字、言葉などは結局のところ本当の(と言ったら語弊が大分ある訳だが…)姿ではない。そうなる以前の所にこそ本質がある訳だ。だからこそ翻って、中村稔の引用した詩にもある通り、僕等は「言葉の影」を追う事しか出来ないのである。僕はこれを「それ以前のもの」と安直に呼ぶことにしよう。


「意味は無いけど意味はある」というヘンテコな問いが僕は好きである。僕等は無意識のうちに文字そのものに対して、それは文字であるのに連なった瞬間に言葉として認識するその自動的な働きを避けられないものとしながらも避けようとする姿勢。何だか僕はそういう部分が良いなとも思う。という話はどうでもいいのでさておくとして…。

実は「それ以前のもの」という言葉を思い浮かんだ時、僕の頭の中には鈴木大拙の『禅』の第2章「悟り」という部分のことを思い出した。今年の年末に実家で読んだ本である。元々は外国向けに書いていたものらしいのだが、それを日本語に訳したものであるそうだ。もしかしたら、禅の本来の思想とのニュアンスとずれてしまう部分もあるだろうが、結構面白く読んでいる。

僕が思い出したのは、確か鈴木大拙が「悟り」について語る時に問答を引き合いに出して話をしていた時の部分である。その部分について引用してみたいと思う。

 問いを解くとは、それと一つになることである。この一つになることが、そのもっとも深い意味において行われる時、問う者が問題を解こうと努めなくとも、解決はこの一体性の中から、おのずから生まれてくる。その時、問いがみずからを解くのである。これが「実在とはなにか」という問いの解決についての仏教者の態度である。換言すれば、問う者が、問いの外にあることをやめる時、すなわち、両者が一となる時、それらがその本来の状態にかえる時、を言う。さらに言えば、それらが、まだ主客と客体の二つに分たれない原初の事態に立ち帰る時—分離が行なわれる以前、世界創造の以前—これが、論理的証明の形においてでなく、自己の現実の体験において、解決が可能となる時である。

工藤澄子 訳 鈴木大拙『禅』
(ちくま学芸文庫 1987年)P.24,25

なるほど。その問いそのもの自体が答えと成り得るということである。僕がこのnoteで再三に渡って書いている「渾然として一」の状態なのである。僕はこれまで「記号とは何か?」「文字とは何か?」「言葉とは何か?」というような意味合いのことを中村稔の『言葉について』という詩を引き合いに出して考えてきた。加えて「意味を与えてしまう」「そこに意味があることの自明性」を疑うようなことを少しばかし書いた。

だが、その問い自体が答えであり、答えこそ問いである。特に「意味を与えてしまうこと」についてはそんな気がしている。僕が書いた記録に意味を与えようとしたのは何故か。それは自分が意味を与えたかったからである。それ以外に答えは無い。加えてこの答えがあるからこそ「何故意味を与えようとしたのか」という問いが初めて生きてくる。そんな馬鹿みたいなことを感じた。

つまりだ。「それ以前のもの」というのは僕等が問を発する前のものであるはずだ。答を記号、文字、言葉とするならば、それは何かと問われれば「それ以前のもの」である。例えば、根本的な話だ。僕等が記号とは何だろうかと疑念を抱く。しかし、その問を設定する以前に記号や文字、言葉というのは既にそこにある。記号や文字、言葉はその問があってこそ記号足り得るのだろうし、文字足り得るのだろうし、言葉足り得るのだろう。では何を考えるべきなのだろうか。


そう考えてみた時に、僕にとってパッと思い浮かぶのは自分自身の身体性である。自分という存在があってこそ初めてその問や答というものが発生するのである。これはもう極論である。あまりあてにしない方が良い。

であるならばだ。僕等は外部の事象云々の前にまず自分自身を顧みなければならないのではないか。文学的なことがどうこうとか、哲学的なことがどうこうではない。これまた僕のnoteでは毎度おなじみの言葉。そう、「生活」である。ここにこそ考えるヒントがある。僕等は何故ここに在るのか。それはここに在るからである。それを成り立たせているのは何か。と様々に捏ね繰り回した結果として、やはり僕にとっては「生活」が中心に来る。(※あくまで個人の感想です。

 あらゆる人間は、常に何ものかを通して、生き続けてゆこうとしているのである。詩人もその例外ではない。彼は詩を通して生き続けてゆこうとしているのであって、決して詩そのものを求めて生きているのではない。我々は詩を書くために生きているのではない。生きてゆくために、あるいは、生きているから、詩を書くのである。私は詩には惚れていないが、世界には惚れている。私が言葉をつかまえることの出来るのは、私が言葉を追う故ではない。私が世界を追う故である。私は何故世界を追うのか、何故なら私は生きている。

谷川俊太郎「世界へ!」『沈黙のまわり』
(講談社文芸文庫 2002年)P.34,35

生きるという根っこがあってこそ様々に考えることが出来る。僕は記号やら文字やら言葉やら…様々に書き連ねてきた訳だが、結局それらについて考えられるのは「それ以前のもの」があるからである。つまりは「生活」。先の記録について僕は考えてみる訳だけれども、幾ら考えてみたところで、自分自身のことを分かっていなければお話にならない。どれだけ「これはだねぇ」と思っていることを書いたって中身は空虚のままである。

そう言えば、最近SNSかなんかで杉咲花の生活感みたいなものが一部話題になっていた。僕も上記の記事を読んで、どことなく分かる気がした。烏滸がましいほどこの上ない訳だが。生活に重きを置くこと。僕にとっての重要な課題でありつつ、興味関心のある問題である。

ここで注意を促しておきたいのだが、ライフワークバランスを!と声高に叫びたいという訳でもない。単純に日常生活の中にフッとした瞬間に現れる機微を感じ取れるように生活を愛そうということを言いたい訳だ。無論、ライフワークバランスが取れればそういう機会も増えるのだろうが、それは人それぞれなので一概にそれが全て良しとは僕は思っていない。少なくとも、僕はそう思っている。

そんな訳で、今日も今日とて何を書きたかった文章か分からない。

今日はゆっくり休もう。

よしなに。

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