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思索は続くよどこまでも...

関係のあるものと関係のないものを
結びつけると言うことは、実に人間的といえよう。
それにこれこそが人間の認識の極めて原初的な単位といえる。

「関係がある」としているのは
自分自身であって、「関係がないと」
思っているのも自分自身である。
関係とは意味のことであって、
意味とは多かれ少なかれ主観的なものであり客観的ではない。

そもそも生きる意味すらも
初めから用意されていたのではない。
人々の慈愛をうけて育ち、さまざまな学問を修めること、
多くの人と関わることを通じて初めて肯定的な形態を
もって取得されるものだろう。人間が世界を解釈する上で
その後天的な部分によるところは大きい。

孔子も「性相い近く習い相い遠し」
と人間の特質はうまれつきよりも習慣が大いと述べている。

最初の「意味」の話になるが、主観が意味を決める力は、
そのまま芸術的な創造性といえるだろう。関係のない線と線、
関係のない文字と文字、関係のない音と音を交錯させる所に
クリエーションがある。

空き缶の飲み口が人の顔に見えたり
樹木をヴィーナスにみたてたり、
月で兎が餅を撞いたり...。

関係ないことを関係させるのは
主観のしわざだと言った。
だから主観がどういう「形式」を持っているかによって、
例えばある特定のものを好む、逆に恐れたり嫌ったりする。
そういうことによって、(これを「認知」や「バイアス」と呼ぶのかもしれないが)客観的な世界は良くも悪くも”歪め”られる。
それが美しい物語を生むと同時に心の病を生むことさえある。
なにかのテレビで見かけたことばだが、
「芸術とは治ってはいけない病気である」という。

「格物致知」という言葉がある。
これは宋明理学の一大テーゼであるが、
朱子学では「格物」を「ものをいたす」とよみ、
事物にはそれぞれ「理」が備わっているので、
これを確かに解明し認識していくことが、確実な知の
はじまりであるとした。

他方、陽明学では「ものをだだす」とよんで、
各事柄にたいして発生する自己の主観を是正することが、
道徳的に生きるための基礎だとする。

「なにが確かな認識か」ということは、
洋の東西を問わず議論されてきたが、
カントは、「コペルニクス的転回」などといわれるが、
人間は「物自体」すなわち、この世界の実像とでもいうべもの
は「叡智界」に属し、そもそも認識することはできない
というあたりから人間の認識論をはじめる。

その後の時代のヘーゲルは根本的に正確な「知」というような
観念をすてさり、不正確な不合理なものを含んだものとして、
人間の「知」を求めようとする。

話がだいぶ逸れたが、関係ないことを関係させる。
その働きは素晴らしいと同時に狂暴なもので、
これに振り回されないためには、結局、
陽明学的な「主観」の「是正」が重要になるとおもう。
「認知行動療法」などはこれに近いのかもしれない。

認知行動療法では人間の認知は行動とフィードバックを
互いに行う関係性にあるとする。
行動を変えることで、認知を改め、認知を改めることで、
行動を変容する。鶏が先か卵が先かのような議論だが、
結局フィードバッグなのだから、
改やすい方からとりかかればいいのだろう。
とはいえ、言うは易しで、人間の本質に相当深く食い込む
難題であることは間違いない。

なにかを指向する心は、
指向した事が使然に運んだときに、さらにその指向が強化される。
反対に、指向した事が指向の通りに行かなかった時に、
その指向にはマイナスのフィードバックが課される。
恐れたことが現実になれば、さらに恐れ、
恐れたことが肩透かしを食えば、はたと自分の思考を省みる。

しかし、未来のことは誰にもわからないので、
恐れが現実になるかどうかはわからない。
だから、人間は恐れを自ら成就させ、結果をみて
安心しようとする。通常ならこれで説明がつく。

しかし、わからないことがわからないままであれば、
ウソの平和である。と言うような場合。
「知らぬが仏」という言葉があるが、
知らぬが仏ではウソになるという場合、
真実を知っていないと、知らせないと良心にもとるという場合。

たとえば、ある人のとても大事にしている
花瓶を誤って割ってしまったとしよう。
その持ち主は今日が誕生日でウキウキしている。
これから祝宴がはじまろうとしており、皆が楽しげにしている。
ここで割りましたと言えば、本人は泣きだし怒り出す。
場はどっちらけとなる。
しかし、「知らぬが仏ではウソになる。」
「真実を知らせないと良心にもとる。」
こういう状況であなたはどうするだろうか。
私は良心の呵責に耐えかねて本当のことをいい、
たぶん場をしらけさせる。

ここまで書いていて思ったのだが、
あくまでこの例に限るが、
花瓶は「誤って」割ってしまったのだし、
悪意があったのではないということが重要なのではないか。
その日に言わずともよいが、
正直に話せば許してもらえる可能性は高い。
こういう根本的な思い込みが結構カギになっている気がした。

思索は続くよどこまでも。

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