コースケコーチ

野球スクールの講師をしています。

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コースケコーチの出来るまで。16

相変わらず親父は早く帰って来て練習を続けた。 毎日が合宿の様な日々だった。 そのかいあってか…冬を越えて春になる頃には「HISASHI」君のボールを逸らす事は減っていた。 冬の間に新戦力の「ヨシハシ」君も入り戦力も厚くなった。 春の大会ではブロックを勝ち進み本大会でもベスト8まで勝ち上がった。 しかし、当時のリトルリーグも連投は許されておらずダブルヘッダーの試合は最低でも2人ピッチャーが必要で絶対的エース「HISASHI」君と新戦力「ヨシハシ」君が投げていた。 「ヨシハシ

    • コースケコーチの出来るまで。15

      親父が野球に来るようになってから会話のほとんどが野球になった。 僕は親父に褒められた事はほとんどない。 つまり、会話のほとんどは叱責だ。 日曜日の夜から水曜日の夜まで試合で打てなかったとかキャッチャーで後ろに逸らしたとかを永遠と言われた。 だから食事を早く終わらせる術を身につけた、そして早く寝る。 それをわかっているから母は夕食に嫌いな物を出すなんてミスはしない。嫌いな物を出して食べるのが遅かったら余計怒鳴られるからだ。 毎日、好物の生姜焼きが食卓に並びその他に焼き魚とかハ

      • コースケコーチの出来るまで。14

        親父が野球に関わりはじめて「野球一家」になった上野家…。 五年生の秋…僕はキャッチャーにコンバートされた。 以前話した「HISASHI」君とバッテリーを組む事になったのだ「HISASHI」君は地域で有名な投手でボールも速かった急造キャッチャーでは後ろに逸らす事も多く迷惑をかけた。チームの監督は「このチームはコースケと心中だ」とひと冬かけて鍛えるプランを考えてくれていた。 考えてくれていただけなら良いんだ、グランドでいくら鍛えても良いんだ。でも…監督はよりによって親父にそれを話

        • コースケコーチの出来るまで。13

          前回、親父の誕生日話で終わってしまったが時を戻そう。 親父がたまたま見に来て、火がついてしまったおかげで5年生になる頃には親父は毎週グランドに来るようになった。 親父だけじゃない、母も弟の「啓」もリトルリーグに入れられた。 親父は僕の野球を一人で見に行くのが嫌な為に弟をリトルリーグに強制的に入れ、母を巻き込んだ訳だ。 晴れて野球一家「上野家」が出来た訳だ、さらに運が悪くペリカン便を辞めて大型トラックの運転手をしていた親父がバブル崩壊で帰りが早くなってしまったのだ…。 週末

          コースケコーチの出来るまで。12

          書き始めて昨日、はじめて休んだ。 なぜなら5月29日は親父の誕生日なのだ。 親父は誕生日や父の日などのイベントが滞りなく行われないとぶちギレる。 「この歳の誕生日は今日しかねぇんだ!」小さい頃に何度も聞いたフレーズだ。 母の事だ親父の誕生日を忘れるなんてミスはする筈ない。 じゃあなんでか? 食べたい物が出なかったか、ビールが冷えてないか、特別な酒がプレゼントとして用意されてなかったか…。多分そんな所だ。 誕生日なんだから「親父の食べたい物を出してあげれば良いじゃない」って

          コースケコーチの出来るまで。12

          コースケコーチの出来るまで。11

          そしてその日は突然訪れた。 4年生になると自分達の代での試合が増えて僕は一応レギュラーだった。 試合にもでれてたまにヒットも打てていたし相変わらず野球を楽しんでた。 しかし、訪れてしまったのだ。 それは大会の試合と従姉妹の七五三が重なってしまってダブルヘッダーの1試合だけ出て帰ると言う事があり、親父が迎えに来たのである。 僕の記憶はコーチ達に特別何かきつく何かを言われた記憶はなくあるのはライト前にヒット性の当たりを打ったがライトゴロでアウトになった事だ。ヘッドスライディング

          コースケコーチの出来るまで。11

          コースケコーチの出来るまで。10

          昭和から平成の狭間だったが僕は楽しく野球をしていた。 野球人生のスタートは外野手だった。 毎日野球をして遊んでいたせいかフライも比較的すぐに捕れる様になった。 試合の最後に守備に着く事も増えて「早くバッターボックスに立ちたいな」なんて思ってた。 親父はまだグランドに来る事がなかったのが楽しく出来ていた要因の1つかも知れない。 でも、親父は親父だ。 野球が終わり帰宅すると1日あった事を興奮気味に話すのが日課だ。(母に) ある日の試合、1つ年上で近所に住む「HISASHIく

          コースケコーチの出来るまで。10

          コースケコーチの出来るまで。9

          晴れて野球少年になった僕は近所のチームメイト達と毎日の様に野球をした。 プラスチックバットにビニールテープをグルグル巻きにしてヘッドに重さを与え、ボールは野球ボールの形をしたゴムボール、野球場は20m位ある団地の棟と棟の間にある芝生。 リトルリーグとだいたい同じ位の距離にプレートになるブロックを埋め1塁はマンホール、2塁は自転車置き場の角、3塁は真四角のブロックをどこからか拾ってきて埋めた。3階の上に飛べばホームラン。 かなりの角度で打ち上げる練習を遊びの中で自然と行ってい

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          コースケコーチの出来るまで。8

          さぁ、いよいよリトルリーグのチームに入る話だ。 3年生の2月、「豆まきがあるからコーちゃんもおいでよ」近所の同級生「ケンタ」に誘われ僕は再度リトルリーグに遊びに行った。 今回は普通に練習に参加しお昼はカレーライスを食べさせて貰い豆まきをしてお菓子を袋一杯にして帰った。 同級生がすでに10人位入っていて、誘ってくれた「ケンタ」や同じ学校の「ゲンキ」は特に上手で他にも何人かは1つ上の学年と一緒に練習をしていた。

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          コースケコーチの出来るまで。7

          やっと野球に出会ったのだがチームに所属する事は叶わなかった…。 しかし、近所の男の子に混じってメンコやボール遊び等をする様になった。 野球チームに行った事で僕に変化が起きた。(野球中継は親父が不機嫌になるから相変わらず嫌い) 一方親父は…。相変わらずの破天荒ぶりだ。 酔っぱらって帰って来て、母に閉め出されたら団地の芝生に寝っころがり「ママ!ママ!星が綺麗だよ」って大声で報告したり同じく酔っぱらって家のガラスを頭で割ったり…。 まだ現金支給のボーナスを懐に忍ばせたまま飲みに

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          コースケコーチの出来るまで。6

          弟が生まれて一人っ子の寂しさから脱し、僕は嬉しかった。 弟とは今でも仕事を一緒にしている。 弟が会社の代表なのでたまに怒られるが概ね仲良しと言えるだろう。 親父は相変わらず理不尽な事は多かったが、夏にはプールに連れて行ってくれたり、日曜は団地の芝生で野球らしき遊びをしてくれたりしてくれる事もあった。だいたいは遊んでいる途中にブチ切れられ泣いて帰って来るのだが…。 しかし、野球をはじめるまでは野球の様な遊びをしていて怒られた記憶がなく、一塁から何塁まであるか知らないから四塁だ

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          コースケコーチの出来るまで。5

          これまで母の愛情と親父の理不尽さを一身に背負って来たコースケ少年だが、5歳の時に弟が出来た。 母が入院中は母の実家である祖父母の家にずっと一人で泊まっていた。 幼稚園児が一人で良く10日位泊まれたな…。とも思いそうなものだが、母と親父は僕が生まれてすぐ半年程別居している。理由はまた後に話す。 そして、初孫だった僕はその半年間祖父母、叔母、叔父に滅茶苦茶可愛がられ、母と親父が別居を解消しても母の実家がチャリで行ける範囲だったので年中、甘やかされに行っていた。 だから母が入院

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          コースケコーチの出来るまで。4

          早いものでnoteをはじめて4日目だ。 しかし一向に幼少期から抜け出せない…。 野球をはじめる所にたどり着かない…。 この際だから言って置くけど、僕が野球を始めたのは小学3年生の終わり、4年生になりそうな時だ。 このペースだといつ僕の野球人生は始まるのだろう…。 そして見て下さってる方は僕の野球人生に関わった親父の更なる爆裂ぶりに耐えられるのだろうか ? お笑い芸人ではないが…。「安心してください。生きてますよ…。」なので飽きずに落ち着いて見て欲しい。

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          コースケコーチの出来るまで。3

          昨日語った様な出来事がありながら僕は無事生き抜いていた。 記憶があるのは3歳位からで多分、写真の頃がそうだ。 覚えているのは団地に住む近所の女の子達と良く遊んでいた事で休みの日は団地のポストから「○○ちゃん遊ぼ~」って叫んで家に上がり込んで○○ちゃんのママが着替えて化粧する横で遊んでいた。 買ったばかりの三輪車が盗まれたのがショックで次に買って貰った三輪車は盗まれない様に三階に住む友達の家まで引きずって上がって行くような子供だった。 この頃の僕は写真にある通りトミカ大好き

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          コースケコーチの出来るまで。 2

          昨日、僕の生い立ちを語る上で親父の存在が欠かせないと話した。 これが若かりし親父と幼少期の僕だ。 ひとつ驚いたのが、この写真の親父と今の弟がそっくりと言う事だ。 でも、話が進まないから父の話に戻そう。 写真を見て、「お風呂に入れるなんて良い父親してたんだな」って思いそうな物だが事実は全く違う。 この写真以後、母は僕を風呂に入れる事を親父には頼まなかったそうだ。 何故なら、親父は「いつもと違う人に風呂に入れられて不安で泣いてしまった」僕をあろうことか「うるさい」って理由で湯

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          コースケコーチが出来るまで。 1

          僕は上野 幸輔。 今年39歳で野球スクールの講師をしています。 好きな事を仕事にさせて貰っている僕がどうやって出来上がったかをお話させて貰います。 僕が生まれたのは1981年8月21日の千葉県船橋市で上野家の第一子、長男として生まれました。 逆子で帝王切開でした。(ここ覚えといて) 3800㌘位あってまぁまぁ大きかった様です。 父は当時は日通のペリカン便の配達員。 母は専業主婦。 団地住まいで今思えば近所の大人達がみんなで協力して子育てをしていた様な昭和感溢れる場所で

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