コースケコーチの出来るまで。9
晴れて野球少年になった僕は近所のチームメイト達と毎日の様に野球をした。
プラスチックバットにビニールテープをグルグル巻きにしてヘッドに重さを与え、ボールは野球ボールの形をしたゴムボール、野球場は20m位ある団地の棟と棟の間にある芝生。
リトルリーグとだいたい同じ位の距離にプレートになるブロックを埋め1塁はマンホール、2塁は自転車置き場の角、3塁は真四角のブロックをどこからか拾ってきて埋めた。3階の上に飛べばホームラン。
かなりの角度で打ち上げる練習を遊びの中で自然と行っていた。
ストライクゾーンは団地の排水を流す縦に通ってる配管からブラケット。
こちらもアウトコースがかなり広かった。
自然とアウトコースにバットが届く事を知ったし、そのアウトコースをセンターへ飛ばさないとホームランが打てない作りだったからセンターへ大きな当たりを飛ばす事も覚えた。(ライト方向に団地はなく芝生の長手だった)
何個屋上にボールを乗せたかわからないし、夏休みなんか3日くらいで「50本」位ホームランを打った。
この野球が僕の原点だし、この野球があったから途中で辞めなかったと思う。
昭和と平成の狭間のストリートベースボールは誰よりも早く「フライボール革命」を実践していた。
事実ここで野球をしていた5~6名のうち僕を含め3人がドラフト候補に名前があがり、弟がプロ野球選手の夢を叶えた。
子供達に野球を楽しんで欲しいって思うのはここでの経験が財産になっているからだ。
中々思うように野球で遊ぶ場所がない時代だから出来れば所属するチームがこの様な場所である事を切に願う。
今日の話に爆裂親父は登場しなかったが、その理由と親父の爆裂ぶりはまた明日。