近代の超克/ポストモダン、歴史/生活、偏在/遍在
前回、すこし本道を離れて論じた「PERFECT DATS」はロングランをつづけている。その前(No.40)にはブギウギの笠置シズ子から京都学派、「Whole Earth Catalog」をめぐってユク・ホイの宇宙技芸まで触れてみた。今回は、その続きから。
日米開戦日の夜のジャズ
前々回、笠置シズ子と服部良一のブギウギから昭和の大衆音楽シーンを語ったのだったが、その際に参照した輪島裕介がその著書で多大なる敬意を表したのが、ジャズ評論家であり『ジャズで踊って 舶来音楽芸能史 完全版』(草思社文庫)の著者である瀬川昌久である。
瀬川昌久はそもそもジャズ評論家ではなく銀行マンだったのだが、恵まれた生い立ちのため幼い頃から大衆音楽に囲まれて育ち、戦前からの日本の大衆音楽シーン、アメリカのジャズに精通したという人物である。大正生まれでありながら、幼少期をロンドンで過ごし、帰国後も家にはレコードがあり、週末には両親と連れ立って洋画を観るといった環境で育っている。実弟は映画監督となる瀬川昌治だったりもする。
この瀬川昌久でもっと興味深いのは、学習院初等科から東京帝国大学法学部に至るまで、あの三島由紀夫と同窓であったことだ。のちに三島が自作のブロードウェイ舞台化の企画のためにニューヨークに滞在した際にも、すでに現地に勤務していた瀬川昌久と交流があったという。
瀬川昌久の生い立ちがもたらしたエピソードは、蓮實重彦の小説『伯爵夫人』(新潮社)のモデルにもなっている。「ある先輩が日米開戦の夜にジャズをきいていたこと」と蓮實が語るものだ。その先輩が瀬川昌久である。昭和16年12月8日の夜、瀬川は自宅でアメリカのビッグバンドのスイングジャズを大音量で聴きだして母親に「今日だけはおやめなさい」とたしなめられたという。ビアズリーの挿絵をただちに想起させる美しい装丁──嗚呼、新潮装幀室!──の『伯爵夫人』は、エリート学生の戦時下とは思えぬ、しかしピンと張り詰めた世相に過ぎていく淫靡な一日を描いた物語である。なるほど、作中に三島由紀夫を思わせる同級生も登場する。そういえば、蓮實は三島賞の授与について「はた迷惑」と言い放ったことも思い出す。
〈近代の超克〉という思想喪失
瀬川昌久の『ジャズで踊って』の文庫版付録に、蓮實の『伯爵夫人』についてのエセーがあるのだが、同じく文庫版付録にもっとわたしの興味をひく文章がある。タイトルは「戦中に共通する反知性──敗戦から71年の今」という。気になった一節を長めに引いておく。
わたしにはこれがどこか得心するような意外なような感じがする。京都学派も日本浪漫派、そして〈近代の超克〉も戦後にはひとしく批判されており、どちらも大政翼賛的な思想として厳しい目に晒された。とはいえ、陸軍側のイデオローグであった日本浪漫派と海軍と関係の深かった京都学派は戦時中、とうぜん対立関係にあった。そのためもあって、戦後も両者の見え方はやや違う。それは反動的な陸軍に対し比較的リベラルなイメージを保った海軍との違いに通じている。〈近代の超克〉と京都学派は混乱して記憶されがちだが、〈近代の超克〉とは京都学派の一部の学者も参加した『文学界』の座談会のタイトルであり、そこで展開されたのは近代批判の名を借りた西欧批判であり、京都学派とは思想的にかけ離れた日本浪漫派寄りの亀井勝一郎、小林秀雄らもいる。だから〈近代の超克〉は京都学派の思想を象徴するものではない。日本浪漫派の代表だった保田與重郎は座談会への参加を一度は受けていながら、結局、欠席している。
むしろ、京都学派で戦争翼賛として戦後に批判されたのは雑誌『中央公論』で連続された「世界史的立場と日本」「東亜共栄圏の倫理性と歴史性」「総力戦の哲学」(この3つは書籍にまとめられ1943年、中央公論社から刊行された)という座談会のほうだ。参加者は四天王と称された高坂正顕、西谷啓治、高山岩男、鈴木成高である。西谷啓治と鈴木成高は〈近代の超克〉にも参加している。
京都学派にシンパシーを抱いていた少年、瀬川昌久は三島ら同窓生たちが美文を謳われた保田與重郎らに心酔するのを苦々しく思っていたようだ。『日本浪曼派批判序説』(講談社文芸文庫)で橋川文三が描いていたように、若者たちの保田への傾倒ぶりは非常に強いものだった。橋川は日本浪曼派の美意識がもつ悲壮なまでの感傷が若者を酔わせ戦争へ駆り立てたと論じる。日本浪曼派の「耽美的パトリオティズム」──それはナショナリズムのような政治性がないと橋川はいう──は、近代的な合理主義に古典的な美を対抗させ若者たちをして「私たちは死なねばならぬ(Wir mssen sterben)」という呪文をかけたと『日本浪曼派批判序説』の解説に井口時男は書いている。同書は戦後、黙殺されつづけていた日本浪曼派をとりあげた最初のものである。と同時に、もっとも早い段階で〈近代の超克〉論に触れたものでもある。
〈近代の超克〉座談会は、参加者の論文をまとめ、松本健一の解題と竹内好の批評を加えたかたちで『近代の超克』(冨山房百科文庫)として刊行されている。簡単に手に入るので目を通してもらうのが確かだろうが、日本浪曼派に近かった河上徹太郎、小林秀雄らの荒唐無稽な近代拒否、機械文明拒絶は今では滑稽なほどだ。京都学派の参加者で歴史学者の鈴木成高などはあまりにめちゃくちゃな議論に、文字通り閉口している。
竹内好はこんなふうに述べる。
機械文明に対する「浅薄きわまりない」拒否
瀬川昌久少年は多くの同窓生とは違い日本浪漫派を冷ややかに見ながら、京都学派にシンパシーを抱いた。そして同じように日本海軍にもシンパシーを抱く。なぜなら日本海軍には英国式のダンスパーティの伝統があったからと『ジャズで踊って』で述べられるが、蓮實重彦との対談集『アメリカを遠く離れて』(河出書房新社)では、学習院の中等科時代の院長にノムハルノートで有名になる野村吉三郎ら海軍出身者いたために憧れがあったとも語っている。『アメリカを遠く離れて』で、蓮實はマルクス主義の哲学者の廣松渉の『〈近代の超克〉論 昭和思想史への一視覚』(講談社学術文庫)によって京都学派の思想を認識したと言う。瀬川も蓮實の批判的な様子を受けてか、『ジャズで踊って』の付録ほどのシンパシーは示していない。
対談にあたって『中央公論』の「世界史的立場と日本」を読み直したという蓮實は〈近代の超克〉、日本浪漫派に欠けていたのはアメリカニズムではないかと語る。アメリカニズム、それは端的には機械文明であり、ジャズレコードや映画といった複製技術時代の芸術(ベンヤミン)である。蓮實は機械文明に対する「浅薄きわまりない」拒否に、近代というものを捉えそこねた戦前の知識人の問題を見ている。それは、当時すでにアメリカに匹敵しうる文化として成熟する萌のあった日本の大衆娯楽文化への不見識に対する憤りとしても言明される。
1924年生まれの瀬川に対し、1936年生まれの蓮實というちょうど干支ひとまわり違う世代である。多感な思春期を過ごしたのはかたや戦中、かたや戦後という違いがある。ともにアメリカニズムに深い理解があるふたりとはいえ、戦前知識人に対してここまでの隔絶があるのは興味深い。それだけこの短い期間で日本の知識人たちは大きな思想的な転回を起こしたということの証左でもあるだろう。
京都学派と海軍については2000年代以降、再評価の流れにある。それは大橋良介の仕事によるところが大きい。大橋は京大、ドイツのミュンヘン大学で学んだ哲学者だ。京都学派の思想、京都学派に大きな影響を与えたハイデガーの研究者でもある。
西田幾多郎を中心とした京都学派のメンバーが海軍と秘密裏に連携して、戦争回避、国策是正に動いていたことは、この連携をとりもった大島康正のメモを発見した大橋の『京都学派と日本海軍 新史料「大島メモ」をめぐって』(PHP新書)で詳細に語られる。西田幾多郎らは、京都帝国大学時代に西田とも交流した近衛文麿の内閣が挫折した後、成立した東條英機内閣を打破することによって戦争阻止を画策していたという。もちろん、これだけをもって同書の帯コピーのように「戦争協力の汚名を濯ぐ」わけにはいかないと思うが、京都学派のメンバーの知られざる思いを垣間見ることができる。
京都学派の思想については、同じく大橋良介が編んだ、その名も『京都学派の思想──種々の像と思想のポテンシャル』(人文書院)で概観できる。ニーチェのようなニヒリズムに陥るのではなく、西田が提唱し京都学派の鍵概念となっていた「無」の哲学で、ヨーロッパがぶつかり停滞していた近代を乗り越えられると主張した。
〈近代の超克〉論の系譜
以前もとりあげたユク・ホイの『中国における技術への問い 宇宙技芸試論』(伊勢康平訳/ゲンロン)で、形而上学的ファシズムと批判されたのは「世界史的立場と日本」にも〈近代の超克〉にも出席していた西谷啓治である。京都学派は当時、さかんに世界史ということを言った。それは、ヨーロッパ中心の歴史ではなく、それ以外のアジアをもふくめた世界の歴史のことである。しかし、それは日本を中心としたアジアによるヨーロッパに対抗するための歴史であった。
ヨーロッパ中心の歴史物語がヨーロッパのみならず近代世界の思想、科学、経済を正当化しきれなくなった──《大きな物語》の解体──を憂え、それに代わる正当性を東洋から提示しようということなのだ。それはつまり、ヨーロッパ近代の否定のうえに成り立つものであり、あらたに形而上学的(メタフィジック)に全体を覆う思想を確立することになる。これこそユク・ホイが喝破した形而上学的ファシズムにほかならない。
前述した廣松渉の『〈近代の超克〉論』が世にでたのは、1970年代中頃の雑誌連載を経て1980年代に入ってからである。1989年、『〈近代の超克〉論』文庫版の解説を書いている柄谷行人が編集同人だった『季刊 思潮』4号の特集「〈近代の超克〉と西田哲学」の座談会で、浅田彰は次のように語る。長い引用になる。
日本社会は明治維新後、ずっと近代というものと格闘してきた。科学的な合理性の受け入れに苦心し、西洋型の個人主義に混乱した。その都度、反動として浪漫派的な古典回帰やら東洋的思想が現れてくる。それが、浅田のいう1930年代の「世界史的立場と日本」であり〈近代の超克〉であり、その反省として──あるいは原子力爆弾の威力による科学の絶対化、またはマルクス主義の流行によって──1950年代に前述した竹内好や橋川文三らによって〈近代の超克〉を問い直す動きがおき、そして高度経済成長の途についた1960年代には新左翼による工業化批判、文明批判、近代の権化である資本主義の象徴としての大企業批判を通過する。1970年代に廣松の『〈近代の超克〉論』が登場したのはその後だ。浅田が「反抗のパトス」というのは、つねに対峙し闘争すべき主流派として近代があったということだ。この闘争にいつの時代にも共通して登場するのはマルクス主義であり、左翼思想だった。マルクス主義者は、たとえば戦中に獄中死した三木清のように京都学派の世界史論に対しても批判的であった。とはいえ三木清も廣松も必ずしも忌み嫌い唾棄すべきファシズムとして京都学派を論じるわけではない。
柄谷もマルクス主義の立場から廣松の論を支持しており、『季刊 思潮』の座談会では次のように述べている。
この柄谷の発言について大橋良介は前出の『京都学派と日本海軍』の註でソ連崩壊をもって「その発言の半年後に、観念の先行したマルクス主義社会体制は、現実の方から離縁された」と皮肉っていることを付記しておこう。
歴史の終焉と近代の超克
近代という大きな物語が失効するなかで、それを打ち壊し乗り越えようとする歩みには一方にファシズム、ナショナリズムがあり、もう一方にマルクス主義がある。この構図はしかし、一旦、消滅しかける。アメリカの政治学者、フランシス・フクヤマの『歴史の終わり』 上・下(渡部昇一訳/三笠書房)が物議を醸したのもこの頃だ。ソ連の崩壊によるマルクス主義の失墜によって歴史が終焉するなどと言われた。しかし、先の構図が壊れたのは、それよりも先の浅田が言うような1980年代に多極化するなかで、社会にあった自明的な対立の構図が薄れゆくポストモダンの時代が現れたからというほうが今となっては正しいだろう。引用が多くなるが、柄谷が『〈近代の超克〉論』の解説に書いたことをみておきたい。
さらにそのうえで柄谷はわたしたたちは戦前の「近代の超克」問題をまだ乗り越えていないと言う。1980年代後半以降、ポストモダンと名を変えて近代への対峙は避けられることなく続いていた。先に挙げた京都学派の座談会をもとにした『世界史的立場と日本』で読める座談会のうち、いちばん最後の「総力戦の哲学」にはポストモダンの問題を先どりしたような議論もある。この点にわたしは通底するものを感じている。以下は西谷啓治の発言である。
西谷のいう「総力戦」に求められいるのは、ジャン=フランソワ・リオタールのいう〈大きな物語〉と考えてほぼ差し支えない。領域内ごとの与件的(アプリオリ)な論理のあいだの矛盾こそがヨーロッパの世界に対する矛盾であり、それが近代を行き詰まらせていると西谷は論じた。
リオタールは「ポストモダン」の語を流布させたその著作『ポストモダンの条件 知・社会・言語ゲーム』(小林康夫訳/水声社)において、科学と物語は絶えざる葛藤の関係にあるといいながらも、ポストモダンを近代に対抗する“新たな”大きな物語として論じはしない。リオタールは大きな物語にかわるものとして、多様で小さな物語がそれぞれのルールをもった言表──ヴィトゲンシュタインに倣い「言語ゲーム」として──を対抗させながなら寄り添うと論じた。これは西谷が指摘した第一次世界大戦後のヨーロッパの矛盾の原因といわれたものであり、現在のソーシャルメディアを手にした社会のあり方ともいえる。それぞれがそれぞれのクラスタ(タコツボ)のなかで、そのなかだけで通じる「内在的な論理とか合理性とかいふもの」でコミュニケーションをとりあっている。クラスタ間では言語ゲームのルールの違いからなんら生産性のない罵倒合戦だけが発生する。リオタールはこうした小さな物語、たとえば科学と宗教の言表は共約不可能と述べていた。つまり架橋させうるコミュニケーションのコードがないのだ。以前、とりあげたことがあるがヴィトゲンシュタインの言語ゲームは、対話者同士の生活を背景に成立するもので、その生活を把握できない言語は意味をもてない。建築現場の親方が弟子に「カナヅチ!」と叫ぶとき、それが金槌を手渡すことなのか、足元の金槌に注意することなのかは、この二人が生活(行動)空間を共有していなければ通じない。
大きな物語を失った時代のコミュニケーションには、互いに参照して共有できる正当性がないのだ。だから、互いにゆずることがない。行き着く先は中傷合戦でありブロックなのだ。
リオタールはポストモダンの正当性について、大きな物語(総力戦の哲学⁉︎)が担保していた理性や普遍性ではなく、多様で複雑な価値を認めることだと述べている。言い換えれば、テクノロジーを大きな物語(理性や普遍性)によって正当化するのは難しい。それはそのまま現在のAIにまつわる議論に通じている。
ふたたび遍在と偏在
経済評論家でメルケル時代のドイツの経済施策アドバイザーを務め、『限界費用ゼロ社会 〈モノのインターネット〉と共有型経済の台頭』(柴田裕之訳/NHK出版)というベストセラーもあるジェレミー・リフキンと、経済思想家で『人新世の「資本論」』(集英社新書)で話題をさらった新鋭、斎藤幸平の対談を読んだのはすこし前、1月7日朝日新聞の朝刊のことだ。「気候危機と人類の今後」と題した対談では、テクノロジーによる解決を提起するリフキンと、テクノロジーにはあまりにも多くの懸念があり楽観できないという斎藤のあいだで議論がおきる。これもまた、テクノロジーの合理性と、(斎藤が信奉する)マルクス主義の普遍性、それぞれが依拠する正当化のすれちがいだろう。
わたしはまたこの対談に、これまで論じてきた言葉で「遍在」と「偏在」の対照をよみとっていた。テクノロジーはすべての人々を幸せにしうる手段とするリフキンと、一部の者のみが独占するだけだとする斎藤というふうに見えるのだ。
さらに、今回の記事に準えば、小さな物語の多様で複雑な価値と大きな物語としての普遍という対比でもある。現在のAIにまつわる議論、ポストヒューマニズムの議論を読んでいると、それらはまた大きな物語に比する普遍性、正当性への渇望のようだ。レイ・カーツワイルはその典型であるし、多くの加速主義者たちがそのようにみえる。ハラリは渇望こそしてはないが、テクノロジーの進化に普遍性、正当性を譲らざるをえなくなると述べているように思う。
科学を宗教にし、歴史とイデオロギーを新たにし、その正当性で近代を塗り替える。あるいは塗り込めてしまうことこそ、結局のところ、〈近代の超克〉の挫折ではなかったろうか。科学を宗教にした新しい信仰でもヒューマニズムにもとづいたイデオロギーでもテクノロジーが画する新しい歴史でも、結局のところ、形而上学的ファシズムに囚われてしまうのではないか。大文字で書かれた正当性の復活は、そこから決して逃れられないだろう。
わたしたちが目指すのは歴史ではなく、多様性に満ちて遍在する生活ではないのか。個々の言語ゲームをどこまでも共有しうる生活の巨大な広がりこそ目指すべきではないか。生活の巨大な広がりのためにテクノロジーを使うべきなのではないか。わたしはそんなことを考えてはじめている。
新たな歴史ではなく、新たな生活によってしか近代を超克できない。そうできるだけのテクノロジーを個々が手にすることが重要なのだ。遍在こそを求めている。
わたしはこの記事を通じて以前から教養ブームを批判してきた。ビジネスパーソンにリベラルアーツの重要性を説いたり、古典の読み込みを薦めたりする似非インテリたちへの違和感とはつまり彼らが大文字で書かれた教養を見せかけの正当化のために用いているように見えることにある。教養というのは、過去の偉人のお墨付きのことだろうか。わたしにはわからない。そんな教養より個々の生活のなかにこそ救いの種はあると思いたい。
そうはいったところで、古今東西、誰しもが追い求めるのは大きな物語だ。自分という存在に正当性が欲しい。安心したいのだから。今も「ビッグヒストリー」がブームだ。わたしも数回前(No.38)で、ヒューマニズムを更新するために新しい「大きな物語」が必要だと書いた。
おそらくは大きな物語と多様な価値観は互いを否定し合うものではないのだろう。これも前々回(No.40)で述べたが偏在と遍在がある種のアンチノミーとして併存するように、大きな物語と多様な価値観も併存するのだろう。わたしたちがしなければならないのは、こうしたアンチノミーに向き合って知的な土壌を耕していくことだ。
──さらに蛇足的追記。
西田幾多郎ふうに、このアンチノミーは“絶対矛盾的自己同一”といえるかもしれないし、この大きな物語と多様な価値観の関係は大きな“主語”と多様な“述語”の関係といえるかもしれない。
わたしは考えている。そんなところに近代を乗り越える思想を掘り起こすきっかけをもう一度、探ることはできないのだろうか?と。