「介護booksセレクト」㉖『ケアってなんだろう』 小澤勲
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私は、臨床心理士/ 公認心理師の越智誠(おちまこと)と申します。
「介護books セレクト」
当初は、いろいろな環境や、様々な状況にいらっしゃる方々に向けて、「介護books」として、毎回、書籍を複数冊、紹介させていただいていました。
その後、自分の能力や情報力の不足を感じ、毎回、複数冊の書籍の紹介ができないと思い、いったんは終了しました。
それでも、広く紹介したいと思える本を読んだりすることもあり、今後は、一冊でも紹介したい本がある時は、お伝えしようと思い、このシリーズを「介護booksセレクト」として、復活し、継続することにしました。
今回は、認知症治療の発想を変えたと言われている精神科医の書籍ですが、さまざまな分野の人との対談集といってもいい本です。そのことで、著者の認知症への考え方が、かえって際立つような部分もあるようにも感じたので、紹介することにしました。
認知症治療薬と軽度認知障害
認知症に関する最近(といっても、すでに古くなっているかもしれませんが)の話題で印象に強かったのが、認知症治療薬に関してのことでした。
この〝年間で約300万円かかる〟ということも含めて、一般的には縁遠いことだと思いましたし、治療薬、という響きで期待されるほどには劇的に効くわけではないことも、少しずつ伝わってきたので、報道の大きさほどには、認知症の方々の現場には、影響がないように思っています。
さらには、軽度認知障害がMCIという略称とともに、それこそ認知が広がっているように感じています。
ただ、私自身は、以前に記事でも書いたのですが、こうして診断の精緻さを極めることは、医療者側にとってメリットがあることで、軽度認知障害と診断される当事者の人やその家族にとってのメリットはあるのだろうか、といった疑問が今でもあります。
さらにフレイル、という言葉が出てきたときは、衰えることも許されないのか。老化も認めらないのか。と反射的に怖くなりました。
もちろん、そうしたことを研究されている方から見れば、そういう思いは非科学的なのかもしれませんが、高齢者自身の方の視点から考えたら、そうした用語自体に、本当に意味はあるのだろうかと考えたりしています。
こうした医学や科学が優先され、人間の「機能」的な面に焦点が当てられる傾向は、これからも強くなっていきそうですが、それは例えば「佐藤さん(仮名です)が認知症になった」という見方よりも、「認知症の佐藤さん」に偏っていくことになり、それは、当事者の気持ちの面に関して、軽視するようにならないだろうか、といった不安もあります。
そうしたことを考えると、小澤勲という長く認知症治療に関わった精神科医は、すべての著作を読んだわけではないのですが、あくまでも「佐藤さんが認知症になった」という視点を重視している医師に思えていて、つまりは認知症になった人の気持ちに焦点を当てているように感じ、こうした医療の流れが、もっと太く強くならないだろうか、というようなことを考えたりします。
『ケアってなんだろう』 小澤勲
この著作は、小澤勲だけが書いているわけではなく、さまざまな認知症に関心がある人、研究で関わっている人、作家、などいろいろな人との対談集といっていい作品になっています。
書籍の内容はこのように紹介されています。
そして、読み進めると、さまざまな立場や思考に対して、小澤勲という人は、ずっと同じように認知症への理解、というよりは、認知症になった人へのより深い理解への試みをしている人としての言葉を、返しているように思えてきます。
作家・田口ランディとの対談での言葉。
これは、例えば家族がどこかに連れて行き、その時はとても楽しそうにしていたのに、帰ってきたら、すでに「行ってない」と言い張るときなどに思い出せれば、少しでも気持ちが楽になるようなことだと思います。
さらに、向谷地生良(べてるの家)との会話。
向谷地は統合失調症の治療に関して画期的な関わりを続け、小澤は認知症の患者のそばにいたから、こうして可能性が見えているのだろうと思うと、それは希望にもつながるのでは、というような思いにもなります。
そして、滝川一廣(精神科医)との対話は、現場にいる人同士の緊張感があるような気がしました。
確かに、特に認知症の人は、すごく敏感で繊細だと思うことも少なくないのですが、その感覚を後押ししてくれるような小澤医師の言葉だと感じました。
ここだけを読むと、厳しい批判をしているように受け取られかねませんが、認知症の人を一生懸命、介護をしたとしても、認知症が治るわけではありません。
ただ、症状が悪くなる下り坂がゆるやかになる、という程度ではないかと思います。そうなると、その場の一瞬に近い時間をいかに充実させるか。といった感覚にならないと、回復という成果を求めてしまう人は、それが悪いわけではなく、本人の消耗が激しすぎるのではないか、といった思いは、私も以前から感じていました。
現場での具体性
瀬戸内寂聴(作家)との対談では、改めて世間への見方にも触れています。
出口泰靖(社会学)は、小澤医師への敬意と興味が強いせいか、その対談の中で、小澤医師からも、かなり現場の言葉が発せられているように思いました。
心がけや、優しさを柔らかく強要されるのは、おそらく辛いことではないでしょうか。そうした気持ちの持ちようの前に、具体的なこと、というのは、確かにその通りだと思います。
確かにそうだと思います。ただ、実際に事故が起こったとき「世間」の反応を考えると、怖いような気もします。事故も覚悟する、といったことを書面で書いて、専門家が認定するといった手続きが必要かもしれません。
このことも本当にそうだと思いますし、小澤勲医師が、一部の専門家がするように、「介護の理想」を押し付けないのは、認知症の人のことを、よく知っているからなのかもしれません。
かなり思い切ったことを言っているのですが、もちろん介護の専門家すべてにむけているわけではないと考えられます。
この場合の問題は「明解」の部分ではないでしょうか。
認知症の人といっても、当然ですが、人それぞれですし、そういう人たちに対して、「たった一つのやり方」で対応できるわけがなく、本当に考えようとする人ほど、さらに詳細に情報を得るために、質問する人に対してさらに聞いたりして、とても「明解」に答えられるわけもなく、だから「明解」に答える人に対してうさんくさいと指摘しているように思います。
そして、この書籍での最後の対談相手の天田城介(社会学)の質問によって、小澤医師の実践的な言葉が聞けています。
天田は、この勘について、さらに、どうやって身につけるのか?といったことまで小澤医師に聞いています。
認知症を生きるということ
これは、この書籍の最後の章で、小澤勲医師が、公開講座を行った時の内容をまとめたものです。
認知症を生きる。
考えたら、少し不思議な言葉ですが、このことを本当に考え、尊重することが、認知症をケアすることではないか。安直かもしれませんが、小澤医師の書籍を読んでいると、そんなふうにも考えるようになりました。
そして、この講座の中では、2020年代の今でも重要だと思えることを、話してくれています。
この予防の話に対して、嫌いと言えるのは潔いし、覚悟もいるし、何よりその言葉に説得力を持たせる実績もあることがすごいですが、でも、こうした予防に関しての感覚は、不遜ですが、個人的にはほぼ全面的に賛同できるとも思っています。
認知症の人たちと、正面から、ずっと向き合っていないと、ここまでのことは言えないのではないでしょうか。
最近になって、認知症は、記憶の検索部分に支障が生じていて、記憶そのものは損なわれていないのでは、といった脳科学の分野からの見方も知られるようになったように思います。
ただ、そうした科学的な分析ではなく、2000年代で、認知症の人と一緒にいることで、そうした希望的なことをすでに語っているのではと想像すると、それは私のようなまだ経験が短い人間が言うのは生意気ですが、やはりすごい臨床家だと改めて思います。
認知症のケアに関わっている人であれば、できたら、どなたにでも読んでいただきたい書籍だと思いました。
(他にもいろいろと介護のことを書いています↓。よろしかったら、読んでもらえたら、うれしいです)。
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