かわぐちようじ

元ゲーム雑誌の編集長をしていました。現在PC、スマートフォンゲームに関連した仕事に関わっています。ゲームビジネスのこれまで、いま、これからについて書いています。

かわぐちようじ

元ゲーム雑誌の編集長をしていました。現在PC、スマートフォンゲームに関連した仕事に関わっています。ゲームビジネスのこれまで、いま、これからについて書いています。

最近の記事

MSXと『HALNOTE』の思い出

ゲーム雑誌編集部の前にMSX雑誌の編集部にいたことがある。 編集長が退職したのでその代わりに一時期在籍していた。   MSXはパソコンなのだが、発売されたソフトにはゲームが多い。 1984年から1987年にかけて毎年100タイトル以上発売されていた。アスキーやポニカ(ポニーキャニオン)、コナミが発売タイトル数のトップ3だった。   ゲーム会社からサンプル版のゲームが届くと記事作成のためプレイしていた。ゲーム専用機ではないので、例えば『ドラゴンクエスト』は、ファミコンに比べると

    • ゲームの進化にチャレンジは必要

      この夏大学生に協力してもらったアンケートの中に、なぜ日本にはオープンワールド(プレイヤーが自由に行動できる空間)のゲームが少ないのか、という質問があった。   2001年北米で『グランド・セフト・オートⅢ』(ロックスター・ゲームス/2001年)がプレイステーション2のタイトルとして発売され海外で大ヒットした。 一方国内では海外ほど話題にならなかった。世界観の問題もあったと思う。   その後海外ではオープンワールドのタイトルが増えていく。 日本では 『シェンムー』(セガ/199

      • 雑誌休刊後のゲームライターたち

        『PCやゲーム雑誌の創刊請負人』で少しだけ書いたゲームライターの話である。   今から39年前の1985年(昭和60年)、日本で初めてのゲームメディア(ゲーム雑誌)が誕生した。しばらくの間、ゲームライターというとほとんどが学生かフリーターだったが、1990年ごろになるとそうした人たちの中からスキルアップしたプロのライターが現われる。 プロのライターは、フリーランスとして業務委託で働く人たち。出版社によっては、アルバイトとして非正規雇用という立場で、原稿を書いたり、編集補助をす

        • 輸出産業としてのゲームとアニメ

          日本経済団体連合会(経団連)は、基幹産業としてコンテンツ振興に向けた支援策の抜本的拡充を求める提言「Entertainment Contents ∞ 2024」を公表した。10月15日のことだ。   エンターテインメント・コンテンツ産業は、わが国のデジタル赤字が問題視される中で外貨を稼ぐ産業としての期待が高まっており、国内消費活性化の起爆剤にもなり得る日本経済を牽引する基幹産業の一つであるとともに、ソフトパワーとして日本への関心を高め理解の促進にも貢献することが期待されていま

          アニソンとゲームとサブカルチャーと

          「サブカルは日陰者文化だ」という書評家吉田豪氏にインタビューを行うYouTubeを観ていて、そういえばゲームもサブカルチャーだった時期があったなと思った。   サブカルチャーという言葉が、雑誌や新聞で目に付くようになった1970年代。テレビと並びこれらのメディアが世の中に与える影響力は大きかった。今のインターネットメディアやSNSのように。   サブカルチャーは社会において少数派の人たちが支持する文化で、メジャーなメディアで積極的に取り上げられる音楽、演劇、映画、出版等「文化

          アニソンとゲームとサブカルチャーと

          PCやゲーム雑誌の創刊請負人

          国内で初めてビデオゲーム専門雑誌、ゲームメディアが登場したのが1985年。『スーパーマリオブラザーズ』が人気になる半年以上前のこと。 『スーパーマリオブラザーズ』が爆発的な人気となって、大手や中堅の出版社、新興のPC関連の会社等様々な会社が続々とこのビジネスに参入したことは前にも書いた。   当時ゲームやPCに関する最新情報や知識をもっていたのは、大学生や専門学校生、同じような年齢のフリーランサーがほとんどだった。インターネットで情報の収集ができるようになる前の話。彼らの情報

          PCやゲーム雑誌の創刊請負人

          ネットメディアと紙メディアの深い関係

          ゲームやPCの雑誌が、ほとんど姿を消し、インターネットのメディアに変わってしまった。これは周知の事実である。とはいうものの、インターネットのメディアの経営者や創業者には、紙の時代を経験した人たちが結構いる。   例えば、ゲーム関係のメディア。『ファミ通.com』『電撃オンライン』はKADOKAWAグループなので言うまでもない。それぞれうまくインターネットメディアにシフトしている。   ゲームのインターネットメディアの老舗といえば『4Gamer.net』だろう。2000年から情

          ネットメディアと紙メディアの深い関係

          『サクラ大戦』と2.5次元ミュージカル

          『サクラ大戦』(セガサターン)は1996年9月27日にセガから発売された。 制作は、原作・広井王子さん、脚本・あかほりさとるさん、キャラクター原案・藤島康介さん、音楽・田中公平さん等著名なスタッフで、企画や設定はレッドカンパニー、ゲームのプログラム作業等はセガが担当している。   レッドカンパニーは、コンテンツの企画やプロデュースを行う会社だった。 『サクラ大戦』の前はPCエンジンの『天外魔境 ZIRIA』の制作に関わっている。PCエンジン CD-ROM2でこのタイトルをプレ

          『サクラ大戦』と2.5次元ミュージカル

          ゲーム音楽がビジネスになったとき

          ムーンライダーズの映画『マニアの受難』をCSテレビで放映していた。映像の中にキーボード担当岡田徹さんの姿があった。1980年代末岡田さんを取材に行ったことを思い出した。『ソーサリアン・スーパー・アレンジ・バージョンIII』(CD)発売前キングレコードから依頼があったからだ。場所は同社近くのレコーディングスタジオだったと思う。 このCDは、PCゲーム『ソーサリアン』の追加シナリオ『戦国ソーサリアン』『ピラミッドソーサリアン』のゲーム音楽集だったが、難波弘之さんと岡田さんがそれぞ

          ゲーム音楽がビジネスになったとき

          「予測できない」から「有望な」ビジネスへの転換

          1980年代PCは「予測できない」ビジネスから、次第に将来「有望な」ビジネスへとシフトしつつあった。 そうした時期に国内初のPC専門誌が刊行された。発行元の工学社は代々木にあった。駅の近くにあった書店にときどき行っていたが、付近にぜんらくビルがあり、その中に工学社があった。ここが工学社かと近くまで行って意味もなく確認した覚えがある。   話がそれてしまった。 工学社は、1970年代後半にPC専門誌という新しいジャンルの雑誌を創刊した。その後いろいろな出版社からPC雑誌が創刊さ

          「予測できない」から「有望な」ビジネスへの転換

          20年前に何があって何が変わったのか?

          この20年間にゲーム業界で何が起こり、何が変わったのか? というキャッチコピーは、公式サイトでの『ファミ通ゲーム白書2024』発売(8月22日)の告知記事のものだ。 紹介記事の中で、業界の変遷から見る『ファミ通ゲーム白書』の20年、という箇所があった。2004年は、ニンテンドーDS、PlayStation Portableが発売され、セガサミーホールディングスが設立されている。   この記事は、当時のことを思い起こすいい機会になった。 インターネット時代の新しいコンテンツビジ

          20年前に何があって何が変わったのか?

          『マンホール』から始まりeスポーツにつながる話

          『マンホール』(Mac)というタイトルを大谷和利さんに紹介してもらった。1980年代後半のこと。 大谷さんは、1980年代から現在に至るまでApple関連のテクノロジーライターとして活躍している人だ。彼には、このゲーム以外にも『HyperCard』 (ゲームの制作等に利用されたソフト)など当時Appleに関する様々なことを教えてもらった。 『マンホール』は、画面をクリックすると次の展開につながる、独自の世界観をもったゲームだったが、アドベンチャーゲームのスタイルがないところが

          『マンホール』から始まりeスポーツにつながる話

          PCゲームの時代は再来するか

          今年の1月元システムソフト・アルファーの宮迫社長に業界団体の懇親会で久しぶりに会った。かつてシステムソフトで『大戦略』に関わっていた人だ。家庭用ゲーム機のゲーム会社の人たちと会うことはあるが、PCゲームの会社の人に会うことはほとんどない。   ゲームを開発・販売していたシステムソフトは福岡市にあった。 同市内にはPCゲーム会社リバーヒルソフトもあった。『マンハッタンレクイエム』や『琥珀色の遺言』などアドベンチャーゲームが人気だった。 一度取材で同社を訪問したことがある。なかな

          PCゲームの時代は再来するか

          ゲームの歴史で残るもの、残らないもの

          ファミコンの開発責任者である上村さんと、久しぶりに話す機会があった。15年ほど前。当時上村さんは、任天堂の開発アドバイザーだったが、立命館大学の教授もされていた。 ユーザーが実際にファミコンをどのようにプレイしていたのか興味があるので研究している、と話してくれた。   それから話はゲームの歴史に移った。ゲーム開発者のインタビューや業績はアーカイブとして残っていくが、ファミコンのゲームを買ってくれたユーザーが、どういうふうにゲームに関わっていたのか、どのように情報を集めてゲーム

          ゲームの歴史で残るもの、残らないもの

          ファミコンの発売日にゲームデバイス(ゲーム機)の変遷を考えてみる

          1983年7月15日ファミリーコンピュータ(ファミコン)が発売された。 1985年『スーパーマリオブラザーズ』の大ヒットでファミコンは急速に普及していくが、ゲーム機というゲーム専用デバイスと専用デバイス用ゲームソフト(アプリ)製造・流通システムが連動したゲームプラットフォームビジネスも確立されていく。   その後任天堂とソニー(SCE→SIE)はゲーム市場におけるプラットフォームのシェアを争い、独自OS(Operating System)を搭載したゲーム機を次々にバージョンア

          ファミコンの発売日にゲームデバイス(ゲーム機)の変遷を考えてみる

          ゲーム業界40年の変遷

          この業界に入った1980年代中ごろ。アーケード、PC、ゲーム機といったゲームビジネスそれぞれに業界があった。   アーケードゲーム業界が最も古いが、アーケードゲームビジネスはゲビデオームだけを扱っていただけではなく、ピンボールゲーム機、輸入したスロットマシンやジュークボックス等も取り扱っていた。 一方PCゲーム業界は、PCの普及とともに参入してきた比較的若い人たちの業界だった。自社でカセットやフロッピーディスクにゲームを収録し、ソフトバンクやソフトウィングといった流通会社に販

          ゲーム業界40年の変遷