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PCやゲーム雑誌の創刊請負人

国内で初めてビデオゲーム専門雑誌、ゲームメディアが登場したのが1985年。『スーパーマリオブラザーズ』が人気になる半年以上前のこと。
『スーパーマリオブラザーズ』が爆発的な人気となって、大手や中堅の出版社、新興のPC関連の会社等様々な会社が続々とこのビジネスに参入したことは前にも書いた。
 
当時ゲームやPCに関する最新情報や知識をもっていたのは、大学生や専門学校生、同じような年齢のフリーランサーがほとんどだった。インターネットで情報の収集ができるようになる前の話。彼らの情報は貴重だった。彼らに頼らなくては雑誌が成り立たなかった。ゲームやPCは、世間から一部の若年層の趣味嗜好として認識されていた時代だ。
 
彼らの多くは、編集業務の経験も商業誌に原稿を書いた経験もなかった。1980年代半ばPCやゲームの専門職的な編集者やライターという職業は生まれたばかりだった。
一方PCやゲームのユーザーは増加し、広告を出稿する会社も増え、ビジネスになりそうだと判断した出版社は、雑誌の出版に積極的になった。
 
そこで、各出版社は社内に編集部をつくるため、出版社や編集プロダクションで働いていた編集経験者を採用した。ある程度編集業務にキャリアのある30代の人が多かった。PCやゲームという専門の新興雑誌の編集経験者はほとんどいないので、だいたい一般誌やほかの専門誌の雑誌経験者だった。彼らの多くは、入社後編集長になった。
 
新卒やアルバイト、フリーランサーの編集スタッフは、編集長の下編集業務の経験を通して編集技術、ライターは、商業誌レベルの文章作成を習得していった。どの出版社もそうだったとはいわないが、似たような状況だったと思う。
小学館のPC誌は、社内ではなく編集プロダクションで制作していたという記憶がある。こういうやり方もあった。
 
自分のデスク周辺の編集部は、シャープ(MZ)、富士通(FM)、NEC PC専門誌の編集部だったが、ほぼ編集業務を通して人材育成をしていた。昔ながらの「習うより慣れろ」というやり方だ。
 
1990年代になり、会社の規模は大きくなり、社員が増え、職場の環境整備が進んだ。各編集部は小さな雑居ビルから新築の大きなビルに引っ越した。それまでの雑然として不合理なところもあったが、そういうところも含めて仕事の環境は居心地よかった、そうと思っている社員は、少数派だったがいたはずだ。自分も含めて。
 
編集部にいた編集未経験者たちが経験を積み独り立ちしたころ、彼らを教育した人たちは、半分ぐらい社内から姿を消した。自分の役目が終わったというわけではないが。シャープ、富士通等専門誌の編集長たちは会社を去っていった。合理化した会社が窮屈になったのかもしれない。
二代目の編集長が、その後引き継いでいくことになる。最初の時代が終わり次の時代が始まる。
 
こうした創刊請負人のような人たちが、雑誌の創刊に寄与した功績は、あまり語られることはない。だからこそ、あえて書き残しておきたいと思う。

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