雑誌休刊後のゲームライターたち
『PCやゲーム雑誌の創刊請負人』で少しだけ書いたゲームライターの話である。
今から39年前の1985年(昭和60年)、日本で初めてのゲームメディア(ゲーム雑誌)が誕生した。しばらくの間、ゲームライターというとほとんどが学生かフリーターだったが、1990年ごろになるとそうした人たちの中からスキルアップしたプロのライターが現われる。
プロのライターは、フリーランスとして業務委託で働く人たち。出版社によっては、アルバイトとして非正規雇用という立場で、原稿を書いたり、編集補助をする人たちもいた。
自分が関わっていた雑誌のライターには、例えば氷水芋吉(以下、ライター名はペンネーム)がいた。
当時彼は大学生だったが、原稿執筆ばかりではなく、雑誌企画の提案もしてくれる有能なライターだった。その後セガに就職し、アーケードゲーム『マイケル・ジャクソンズ ムーンウォーカー』の開発に関わり、退職後ソニー・コンピュータエンタテインメント(現SIE)で『クラッシュ・バンディクー』に関わった。今でもゲーム会社で働いているようだ。
氷水芋吉と同じくライター仲間だったガリは渋谷のレストランの経営者になっていたが、10年ぐらい前そこで3人で飲んだことがある。楽しい時間だった。
数年前。最初の雑誌とセガの雑誌の副編集長(後に編集長)が亡くなった。雑誌制作の要である進行管理を担当していた。彼にはずいぶん助けられた。葬儀会場には氷水芋吉がいたが、当時のライターだったSHOTANも参列していた。雑誌がなくなると編集者とライターの人間関係はだいたい消滅してしまうのだが。
プレイステーションの雑誌の編集時代、『鉄拳』が大人気のころ、このゲームが好きなライターが集まり昼夜問わずプレイしていた。その中にかなり若いライターがいた。あるとき担当編集者に年齢を聞いたことがある。答えは、中学生みたいですということだった。
1990年代は今のようなコンプライアンス意識のある社会ではなかった。複数の部署を兼任していたので、プレイステーションの雑誌の編集部にいつもいるわけではなかったが、ときどきそのライターというかライター見習いを見かけることがあった。自宅から連絡があったら対応するようにと編集スタッフに伝えた。
編集部に連絡はなかったようだった。学校や家庭等何か事情があって、ここにいるのだろう。ゲーム好きの仲間が大勢いる編集部が居心地いいのかもしれない。親から連絡があったら謝ればいいと思い、注意はしなかった。それから30年ほどの時間が流れた。
当時中学生だったライターは、eスポーツイベントを制作運営する会社の社長になっていた。『全国都道府県対抗eスポーツ選手権 2019 IBARAKI』で再会した。ときどき仕事がらみで連絡を取り合っている。これもゲームが作った縁だろう。
自分の知る範囲でいうと、あの当時のゲームライターたちは、自分なりに活躍の場を見つけて、それぞれ日々奮闘しながら人生を送っているようだ。
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