68歳、柳田国男の武蔵野ウォーキング 平気で10キロ歩いていた
毎週水曜の「長い散歩」
「遠野物語」で知られる民俗学者、柳田国男(1875‐1961)は、公務や大学講師を引退したあとも、山野を歩き回るのを趣味とした。
柳田 國男(やなぎた くにお、1875年(明治8年)7月31日 - 1962年(昭和37年)8月8日)は、日本の民俗学者・官僚。大日本帝国憲法下で農務官僚、貴族院書記官長、終戦後から廃止になるまで最後の枢密顧問官などを務めた。1949年日本学士院会員、1951年文化勲章受章。1962年勲一等旭日大綬章(Wikipediaより)
戦後出版された「炭焼日記」は、彼の1944、45(昭和19、20)年の日記である(戦中、自宅で炭を焼いていたから、その名をつけたのだろう)。
その日記でも、柳田の「長い散歩」が多く記されている。柳田は68‐70歳だった。
ある解説者は、こう書いている。
雪や雨になったり、かぜをひいたりしないかぎり、毎週水曜日に郊外に出て、長い散歩をする習慣は変わらなかった。1月から6月にかけては、生田、登戸、長沼、柿生、調布、三輪村(三輪緑山)、南多摩、国立、仙川、蘆花公園、狛江、向丘などの周辺をよく歩いた。武蔵野をめぐったのである。
柳田は、いまの世田谷区成城に住んでいた。駅で言えば「成城学園前」である。(成城学園は小田急線がとおる前からあった。成城学園が駅を誘致したのだ)
柳田が昭和の初めに引っ越してきたとき、そこは「東京市外 砧村」だった。
そこから小田急線を使って、いま私が住んでいる柿生(川崎市麻生区、旧柿生村)などに来ていたのである。
上の引用の記述では、柿生を「郊外」としているが、当時は成城も郊外である。都心への通勤客が住んでいたのは、せいぜい経堂までだった。(小田急線は、通勤客用というより、箱根、江の島への観光用だった)
引退しても来客は多かったが、柳田自身が東京に出ることは少ない。むしろ、多摩川を越えたところにある武蔵野、多摩丘陵の風情が、柳田にとって魅力だった。
10キロ近いウォーキング
典型的な「水曜日の長い散歩」の日記を引用する。
(昭和十九年)二月十六日 水よう 好日 午後曇
九時の江の島行にて柿生まで、多摩郡の一方の端、平尾の杉山社に詣で、坂濱に出て長沼よりかへる。ここにても新たに合祀せられたる天神社を拝す。寒紅梅小一株、片平にてよく花咲くを見る。土鳩多く又画眉鳥も飛びかわす、何の鳥かよく囀るをきく。長沼にて電車を待つこと一時間、けふの行程二里を超ゆるか。
(定本柳田国男集 別巻4 p23 筑摩書房1971)
柿生駅から、当時の東京都南多摩郡稲城村、現・稲城市平尾の杉山神社に行き、つづいて坂浜(旧坂浜村)の天満神社に寄って、南武線の稲城長沼駅から帰っている。(なお、「炭焼日記」の直前、昭和18年に東京府から東京都になった)
「行程二里(約8キロ)を超ゆるか」と書いているが、実際どのくらい歩いたのだろうか。
グーグルマップで「経路」を検索し、距離と歩行時間を出してみる。
以下は現在の地図だが、当時は小田急多摩線(「五月台」「栗平」など)がなかったのはもちろん、新百合ヶ丘駅(1974年開業)も百合ヶ丘駅(1960年開業)もなかった。また、現在の京王相模原線も調布から京王多摩川駅までで、多摩川を越えておらず、稲城駅、若葉台駅(ともに1974年開業)などはなかった。
まず、柿生駅から、稲城市平尾の杉山神社まで。上述のとおり「南多摩郡稲城村」で、柳田が書いているとおり、多摩郡の南端だった。
徒歩53分、3.7キロ 全体として54メートルの上り坂である
次に、杉山神社から坂浜まで(いずれも稲城市内)
徒歩31分、2.1キロ 高低差なし
最後に、坂浜から、南武線稲城長沼駅まで。
徒歩47分、3.5キロ 高低差なし
以上、計131分、9.3キロである。
2里は約8キロだから、たしかに超えている。グーグルマップが示しているのは現在の「最短距離」であり、当然それより長いだろう。「片平にてよく花咲くを見る」といった寄り道や、自宅から駅までの距離などくわえると、10キロ前後ではないか。
朝9時に成城学園から小田急に乗り、柿生で降りて2時間超歩いた。もちろん、いまより道も地形も凹凸があっただろう。ウォーキングシューズなんてしゃれたものはないし。昼飯には戻れたのだろうか。
それにしても、柳田の記述から、柿生や稲城市のあたり、武蔵野の自然の美しさが感じられる。
「土鳩多く又画眉鳥も飛びかわす、何の鳥かよく囀るをきく」
「画眉鳥」はホオジロ。柿生は今も鳥が多く、たしかにドバトが多い。「野鳥の王国」と地元の人は言う。私も鳥の声でよく目が覚める。昔から変わってないのがわかる。
柿生離宮計画と柳田
昭和16年頃、宮内省で、柿生・鶴川あたりに、皇居の離宮を作る構想があった(柿生離宮計画)。
離宮と呼ばれたが、実際は戦時にあたり、皇居の疎開(移転)を考えたと言われている。
政治学者の原武史は、やはり「炭焼日記」を引用しながら、柿生を中心とした柳田国男の散策は、計画の密命をおびていたかも、とにおわせる文章を朝日新聞に書いている。(原武史「柿生の『離宮』と柳田国男」朝日新聞2020年5月23日)。
柳田の官界での高い地位を考えれば大いにありうる。計画を諮問されたかもしれない。だが、計画そのものは早々についえたとされるから、それ以後の散策は計画と関係なかっただろう。
ちなみに、朝日新聞客員を務めた柳田国男は、「炭焼日記」でも、しょっちゅう朝日(とくに出版局)の記者・編集者と会っている。
「柿生離宮」構想の当時、空襲の危険をどれほどリアルに考えていたのだろうか。昭和16年時点では、日本は本土空襲を経験したことがない。
当時、厚木に海軍航空隊基地が建設中だった(昭和17年完成)し、相模原にはすでに陸軍士官学校などがあった。柿生は、こうした軍事施設に近すぎて空襲の巻き添えをくうかもしれず、「柿生離宮」はあまりいい案ではなかった、と私は思う。(柿生に近い現横浜市青葉区の「こどもの国」は、かつての弾薬庫である)
元小田急部長などが、2007年「小田急開通80周年」の座談会で、当時のことを振り返っている。
(昭和)12年に、当時の座間駅のそばに陸軍士官学校ができて、士官学校前という駅名になりました。士官学校のことを相武台と呼んだので、やがて相武台前と駅名が変わり、12年から15年にかけて陸軍の病院や通信学校なども集まってきます。
それに合わせて小田急の駅名も変わります。信号所だった相模大野は、近くに陸軍の通信学校ができて、13年に通信学校という駅になりましたが、その名前では防諜上問題があるため相模大野に変更され、現在に至っています。
(中略)施設の被害は割合少なかったんです。ただ、列車を運転していると、グラマン戦闘機が狙って、銃撃は盛んにやられました。そういう被害はありましたが、井の頭線の車庫が焼けるとか、京浜急行のように沿線が焼けたとかいう壊滅的な被害はありませんでした。
(上掲 情報誌「有隣」472号)
それはともかく、今度、この柳田の歩いた行程を、私も実際に歩いてみようと思う。(できれば、柳田と同じ、早春がいい)
だけど、片道2時間越えとなると、歩くのが好きな私ですら、ちょっと勇気がいる。
まして柳田の時代はスマホもコンビニもない。歩けなくなったらどうするつもりだったのか。いまでも、70近い老人が片道2時間歩くと言えば、「おじいちゃん、やめなさい」となるのでは。
たまの山歩きでそれくらい歩く人はいるかもしれないが、柳田はほぼ毎週の習慣である。
私も、これまで「街登山」という街歩き企画をやってきたが、だいたい5キロまで、片道1時間くらいまでだ。私は神経痛もちだから、長く歩くと足や腰が痛くなることがある(少し休むと回復するが)。
でも、考えてみれば、もっと昔の人類は、生存のために、いちにち何十キロも歩いていた。
昔の人が痩せてた理由
柳田はとくべつ健脚だったかもしれないが、昔の人がよく歩いていたのは確かだ。
いまより駅は少なく、路線は少なく、バスも車も少ない。
戦前の小説を読めば、とにかく登場人物がよく歩いていることに気づく。そりゃメタボは少ない。
戦後も、たぶん高度成長に入るまで、状況は同じだった。
文芸批評家の河上徹太郎は、戦時、鶴川の白洲次郎邸(現・武相荘)に疎開し、東京の家が焼けたので、戦後は近くの柿生に移り住んだ。
住所は、現在の片平、白鳥神社の近くだ。
柿生駅から、白鳥神社までの距離を、グーグルマップで経路検索すると、2.1キロ、徒歩32分、と出る。
いまでは多摩線の栗平駅から近いが、河上が72歳になる1974年まで、多摩線が存在しない。柿生駅から行くしかなかった。
駅から徒歩30分は、現在の感覚ではかなり遠い感じだ。でも、それは現代のほうがおかしいのかもしれない。
河上は柿生の風物について多くのエッセーを残している。柿生は田舎だ、という記述は多いが、「自宅が駅から遠い」という不満は読んだことがない。
河上は狩猟が趣味だった。当時は狩猟区であった自宅近辺で、主に小綬鶏(狩猟用に放たれたキジの一種)を撃っていた。猟銃を抱え、起伏ある地形を猟犬と走り回っていたほどの健脚だから、30分くらい歩くのはなんでもなかっただろう。
また、河上の家には作家や編集者がよく訪れたが、彼らにとっても、とくべつに遠い感じはしなかったのではないか。
もちろん、駅からタクシーくらいはあったかもしれないが、誰の家に行くにも、駅からそれくらいの距離は普通だったのではなかろうか。
柳田や河上に限らず、昔の文化人は「長い散歩」を好んだ。
労働者は日常の中で体を使っていただろうが、文化人は運動不足になりがちだ。昔はジムなどない。「長い散歩」でそれを補っていたのではないか。
私は編集者だったので、作家や学者と知り合ったが、彼らずっと「文化部系」の人が多く、スポーツをしたりジムにかよったりする習慣がない。なんとなく運動をバカにして、体を動かす快感を知らない。それで、高齢になって高血圧など健康問題をかかえる人がいる。せめて「長い散歩」を習慣にしてほしい。
長い散歩のためには、ふさわしい環境が必要だ。いまはどこの自治体も「自然」や「緑」を売り物にするが、たんに木がきれいに植えてあるだけでなく、「長い散歩」に耐えられる環境でなければいけない。
広義の武蔵野、私の住む多摩丘陵は、昔も今も、「長い散歩」に向いているのはありがたい。
皇居を観光した人は、二の丸に、昭和天皇の発案で、武蔵野を再現した「武蔵野林」があるのを知っているだろう。その近くに勤めていたころ、皇居の開放日、昼休みによくそこを歩いた。
ウォーキングに向いていれば、ジョギングにも向いている。
新百合ヶ丘や柿生のあたりは、早朝、ウォーキングやジョギングする人が多い。年寄りも、若者も、坂が多い地勢で、足を使っている。それが、この地の住人を「長寿日本一」にした、という指摘は多い。
「田舎では車は必需品」とよく言われるが、本当にそうなのだろうか。「必需」ではない場所でも、そう言われている気がする(「それなら、昔の人はどうしていたのか」と疑問に思うところなど)。
現代人は歩かなくなった。
近くに「武蔵野」がなくても、昔の人と同じくらい歩くのが当たり前になれば、とくべつに運動をしなくても、もっと健康になると思う。
日記から
ついでに、以下に「水曜日」に限らず、柿生が出てくる「炭焼日記」の記述を抜き書きしておく。(いつか詳しく解読したい)
「炭焼日記」は昭和20年まで記されているが、「長い散歩」の記述はだいたい昭和19年前半までだ。
それ以降は、戦争の敗色濃くなり、毎日空襲警報が鳴り、電車も止まるから、「長い散歩」もなくなるのである。
昭和20年になっても柳田は疎開せず、戦死者の魂のゆくえに思いをはせ、自宅にこもって傑作「先祖の話」を書き続けた。
柳田国男は87歳まで生きた。武蔵野を愛した彼の墓は、生田の春秋苑にある。
(昭和十九年)三月九日 木よう 好晴 朝うぐいす 枕元に来てなく
三輪村に遊ぶ。熊野社と杉山社に詣づ、川を隔てて都築郡麻生村、今は横濱市、鳩多し、処々の梅、月読社に詣で岡を越えて柿生まで。東京に出づ。
(同上 p31)
*たぶん小田急線鶴川で降り、現町田市三輪の椙山神社、熊野神社に詣でて、麻生川をわたって現川崎市麻生区の月読神社に行き、王禅寺の丘を越えて柿生駅にいたっている。「都築郡麻生村、今は横濱市」はやや混乱した記述。旧武蔵国都築郡は、昭和14年に横浜市に編入された。しかし、都築郡のなかでも旧上麻生村などの「柿生村」は、川崎市に編入され、現在の川崎市麻生区にいたる。だから、「都築郡柿生村、今は川崎市」が正しい。
(昭和十九年)三月二十七日 月よう 和日 風やや冷かなり
小田急にて柿生まで、あまり混んだので鶴川まで乗越し引きかへす、能ヶ谷の灸點の話をきく。岡を越えて真福寺へ。ヤトをまちがへて王禅寺の梅へは行けず、丘を越えて高石に出で、西生田よりかへる。
(同上 p37)
*「能ヶ谷の灸點(灸点)の話」・・「お灸殿」と言われた町田市の香山園(かごやまえん)のことと思われる(下の資料参照)。庭園があるお屋敷で、神経痛に効く灸を売り物にした。「真福寺」は真福寺跡のことか。明治時代に廃仏毀釈で廃寺になり、史跡が残っている。一帯は「真福寺」という地名になっているから、地名として記したのかもしれない。「王禅寺」も地名ではあるが、もちろん王禅寺という寺が今もある。また、「ヤト(谷戸)」は、谷状の耕作できる場所で、集落の単位となった。多摩丘陵では狭いが貴重な地勢だった。「谷戸」は東日本の言い方で、西日本の「迫(サコ)」にあたる。香山園→真福寺跡→高石→西生田は、そうとうの距離であり、起伏もある。西生田は今の読売ランド前駅だから、少なくとも鶴川から読売ランド前駅まで、現在で4駅分の距離を歩いている
(昭和十九年)四月十二日 水よう 好晴 風あれど暖なり
電車柿生まで、五反田大澤を通りて平尾から金程、此上に天理教の会堂あり。眺望尤もよし。細山の岡の上を通る。もと笹谷、堀二人などと来たところ、二年前の初夏か。彼岸白桃連翅など多し。山づたひに下れば矢の口の谷戸、妙覚寺の前に出る。南武線にて帰る。
(同上 p43)
*「天理教の会堂」・・千代ヶ丘の「天理教 生代分教会」のことと思われる(今もある)。柿生駅から、今のよみうりランドあたりを経て、南武線の矢ノ口駅に下りる。これもそうとうの距離で、グーグル検索すると7.5キロ、徒歩1時間50分。しかも「山」越え、現在の地図でも100メートルの上り下りがある。まさに「街登山」の王道コースで、今度挑戦してみたい。
<資料>
*香山園について(町田市資料より 住民からの聞き取り)
香山園は、子供の頃遊んだ記憶がある。 昭和 40 年前後くらいまで香山園でお灸をやっており、「お灸殿」と呼ばれていた。 昭和 11 年の小田急の沿線図には、香山園のところに「灸」と記載されている。お灸のイベントは年に 1 回 6 月 1 日か 2 日にやっていた。 お灸の治療は神経痛がメインで、昔の書籍に三代目神林司(かんばやし)という名で載っている。昔のNHK のお昼前の 5 分の番組で小さなニュースを放映していた。(BS のアーカイブで放映していた。)写真は縁台に向かって 3 人くらい並んでお灸をしていたシーンだった。 当時は宣伝方法が限られており不十分だったので、全国の温泉地へ行って鶴川のお灸を宣伝してまわっていたそうだ。 お灸に訪れた人に必ずうちわを渡して帰していたので、地方でも話が広まったらしい。 膏薬(赤い薬)を貼る。ハマグリの殻を練って伸ばして、膿を出す。何も付いてこなくなったら治ったということだった。大変熱かった。 岡上に歴史に詳しい人がいて、その方の書いた広報誌に記載していた話で、江戸時代の神蔵嘉一郎の頃に香山園を寺子屋に利用していたらしい。 一代目神蔵太兵衛が引退して、次男の神蔵甚右衛門を連れて代官屋敷に移り、長男は香山園に残った。太兵衛があみ出したと言われていたのは、八幡神社の獅子舞である。 以前、香山園で配布していたパンフレットが建物のことを分かり易く解説してある。文化的伝承で何があるのかは、パンフレットの解説を読めば分かると思う。 神蔵ひろし氏の自宅の骨組みは 200 年以上前に建てられたもので、香山園の建物の隠居部屋だったと思われる。 神蔵盛清の時代(元禄)に香山園に建物を建てているが、壊されている。神蔵太兵衛又は忠助の時代に新たに建物を建てて、明治になってから今の建物が建てられており、少なくとも 3 回は別の建物が建てられているはずだ。 香山園と周辺の建物は全て南向きに建てられているのに、蓮清寺は向きが違う。神蔵盛清の法名が蓮清居士である。蓮清寺から真っ直ぐ線を引いていくと横浜市の 「小机城」にぶつかる。 神蔵盛清の時代からの歴史を追っていくと香山園だけではなく、代官屋敷もセットになると思う。 昭和 30 年代の香山園周辺の写真では、既に取り壊された駐在所も確認できる。また、香山園の敷地内には防空壕が残っている。 「香山」の由来は、籠のように穴ぼこだらけだったからで、訛って「おりごめ」と 呼ばれたこともある。
香山園は、2015年に閉園したが、町田市が買い取り、2024年に再オープンの予定
<街登山・街歩きシリーズ>
街登山のすすめ「細山 香林寺」1月21日
「王禅寺見晴し公園」2月15日
「弘法松公園」2月25日
「さくら公園」「化粧面谷公園」3月30日
川崎市麻生区「長寿日本一」と坂・公園の多さ5月28日
「向原の森公園」6月1日
「美山台公園」6月3日
「むじなが池公園」6月7日
「鶴亀松公園」6月10日
「片平中町遺跡公園」6月18日
「百合丘公園」7月3日
「狩野英孝」の足跡をたどる9月12日
「よみうりランド」9月27日
「桐蔭学園」10月18日
「椙山神社」10月28日