「箱男」と「純文学書き下ろし」の時代
安部公房の「箱男」が、永瀬正敏主演で映画化され、昨日(8月23日)公開された。
それを聞き、「箱男」を小遣いで買った51年前のことを思い出した。
51年前、安部公房による 傑作「箱男」が生まれた。 だがそこに描かれている世界は、 今、現代の我々の姿だったー!
(映画「箱男」公式アカウント)
それは、中学生になったわたしが初めて買った「純文学」の本だった。
初めて買った「大人の本」だった。
初めて買った、函に入った立派な本だった。
なんでまた、この本を買う気になったのか。
思い出せないが、「燃えつきた地図」(1967)以来の久々の安部の新作で、大いに話題になっていたのだろう。
安倍がノーベル文学賞を取る、という評判があったかもしれない。
わが家に知的雰囲気はなく、家には一冊も本がなかったが、わたしは本好きで、図書館に通ってよく本を読んでいた。
そんなわたしが、小遣いをはたいて、乾坤一擲の思い(?)で買ったのが「箱男」だった。
なにかそれが、「大人の読書人」になるため必要な儀式であるように。
「純文学書き下ろし」を買って読むことこそ、読書の醍醐味ではなかろーか。
雑誌や新聞に連載されたわけではない、大作家の初めて世に出る作品を、みんなが待ち望み、みんなと一斉に読む。
まあ、最近では村上春樹の新作がそういうイベントになっているだろうか。
「箱男」当時は、そういうイベントがもっと頻繁にあり、いわゆる名作がたくさん「書き下ろし」の形で世に出た。
それが人びとを書店に惹きつけ、出版界を盛り上げていた。
「箱男」を含む、新潮社の「純文学書き下ろし(書下ろし)特別作品」のシリーズは、そういう有名作家の「書き下ろし」プラットフォームだった。
1961年の石川達三「充たされた生活」から始まり、2000年の島田雅彦「彗星の住人」までの40年にわたり、60数冊が出版された。
以下は、小谷野敦氏が作った「新潮社純文学書下ろし特別作品」のリストだ(2番目の数字は文庫化の年。色名は函の色)。
充たされた生活 石川達三 1961(白) 1980
浮き灯台 庄野潤三 1961
砂の女 安部公房 1962(白) 1981
恋の泉 中村真一郎 1962
花祭 安岡章太郎 1962(緑・青) 1984
遠い海の声 菊村到 1963
個人的な体験 大江健三郎 1964(白) 1981
聖少女 倉橋由美子 1965(朱) 1981
白きたおやかな峰 北杜夫 1966(白) 1980
燃えつきた地図 安部公房 1967(黒) 1980
沈黙 遠藤周作 1966 (白) 1981
輝ける闇 開高健 1968 (黄土)1982
海市 福永武彦 1968(海青) 1981
懲役人の告発 椎名麟三 1969 (臙脂)
化石の森 石原慎太郎 1970 1982
回転扉 河野多恵子 1970(濃紫)
橋上幻像 堀田善衛 1970 (黒)
恍惚の人 有吉佐和子 1972(朱) 1982
酔いどれ船 北杜夫 1972 (水) 1982
箱男 安部公房 1973(濃赤) 1982
死海のほとり 遠藤周作 1973(白)1983
洪水はわが魂に及び 大江健三郎 1973(緑) 1983
四季 中村真一郎 1975(ピンク) 1982
ある愛 中村光夫 1976(黄)
火山の歌 丸山健二 1977(橙)
密会 安部公房 1977.12(黄土) 1983
夏 中村真一郎 1978(水) 1983
比叡 瀬戸内晴美 1979(朱) 1983
同時代ゲーム 大江健三郎 1979(黄土)1984
侍 遠藤周作 1980(水)1986
帰路 立原正秋 1980(装幀)1986
雪女 森万紀子 1980
秋 中村真一郎 1981
勇者は語らず 城山三郎 1982 1987
裏声で歌へ君が代 丸谷才一 1982 1990
装いせよ、わが魂よ 高橋たか子 1982
地の果て 至上の時 中上健次 1983 1993
方舟さくら丸 安部公房 1984 1990
虚航船団 筒井康隆 1984 1992
冷い夏、暑い夏 吉村昭 1984 1990
冬 中村真一郎 1984
路上の人 堀田善衛 1985 1995
太陽よ、怒りを照らせ 佐江衆一 1985
世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド 村上春樹 1985 1988
ぼくたちの好きな戦争 小林信彦 1986 1993
アマノン国往還記 倉橋由美子 1986 1989
スキャンダル 遠藤周作 1986 1989
仮釈放 吉村昭 1988 1991
時を青く染めて 高樹のぶ子 1990.4 1993
みいら採り猟奇譚 河野多恵子 1990 1995
世界でいちばん熱い島 小林信彦 1991 1995
冬の蜃気楼 山田太一 1992 1995
怪物がめざめる夜 小林信彦 1993 1997
マシアス・ギリの失脚 池澤夏樹 1994 1996
青春 林京子 1994
ムーン・リヴァーの向こう側 小林信彦 1995 1998
「吾輩は猫である」殺人事件 奥泉光 1996 1999
終りなき祝祭 辻井喬 1996 1999
争いの樹の下で 丸山健二 1996 1999
敵 筒井康隆 1998 2000
高らかな挽歌 高井有一 1999
虹よ、冒涜の虹よ 丸山健二 1999 2003
血の味 沢木耕太郎 2000.10 2003
彗星の住人 島田雅彦 2000.11 2007
同じような「純文学書き下ろし」は、河出書房なんかもやっていたが、やはり「名作率」は新潮が高かったのではなかろうか。
このリストをながめているだけでも、いろいろ思い出がよみがえってくる。
「箱男」以外では、1979年の大江健三郎「同時代ゲーム」も、書き下ろしで出たときに買った。高校生の頃だ。
「同時代ゲーム」はたしか年末に出た。お年玉で買ったことを覚えているからだ。
あとは、大学生になって買った丸谷才一「裏声で歌へ君が代」(1982)。
大江健三郎「個人的な体験」(1964)、遠藤周作「沈黙」(1966)、開高健「輝ける闇」(1968)、筒井康隆「虚航船団」(1984)、小林信彦「怪物がめざめる夜」(1993)などは、発売されて少したってから、単行本を図書館で読んだと思う。
小谷野敦が書いているとおり、この書き下ろしシリーズで出た本は、なかなか文庫化されなかったが、有吉佐和子の「恍惚の人」などは文庫になって読んだ。大江健三郎の他の作品も同様だ。
その他、読んだような気がするが、今となってははっきりしない作品も少なくない。中村真一郎も読んだはずだが、まったく覚えていない・・。
で、肝心の「箱男」の感想だが、
まったく意味がわからなかったw
文章は明快で、話は面白かったが、何を言いたいのかはさっぱりだった。
それでも、せっかく買った本だから、函に入ったまま、永らくわたしの本棚のいちばんいい席に鎮座していた。
今度の映画が、あの意味を教えてくれているのなら、大好きな永瀬正敏が出ていることでもあり、見てみたいと思う。
その後、わたしは編集者になり、小説もたくさん手がけたが、正直にいうと、いまだに「文学」というものはわからない。苦手である。
いま振り返ると、その苦手意識は、あの「箱男」から発している気がする。
でも、「純文学書き下ろし」のイベント感は懐かしい。
田舎の貧乏な家の子(わたし)さえ書店に走らせた。
あの興奮を失ったのが出版界が落ち込んでいる理由だなあ、と思う。
「箱男」予告編
<参考>