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2019年10月27日 23:54
【たべるのがおそい】の西崎憲編纂のアンソロジー、【kaze no tanbun 特別ではない一日】所収。なぜ「風の短文」ではなくローマ字表記なのか? という疑問は残るが、執筆陣の豪華さというか私の琴線への触れ度合いが中々凄かったので購入。第一の目当てはやはり滝口悠生だが、やはり大層面白かった。この店には、近年人気で専門店も増えつつあるいわゆるハード系のパンは多くなかったが、バゲットの横には、ず
2019年8月2日 18:10
ウティット・ヘーマムーン×岡田利規の『プラータナー:憑依のポートレート』を最終日に観てきました。休憩時間を含めて四時間という長丁場、当日券の滑り込みだったので観客席の階段にお座布団を敷いてという尻の拷問だったが身体的な苦痛を上回る静かな興奮がありました。 タイの芸術家の人生・性愛の遍歴が、タイの政治的な変動とともに描かれる本作には、『「あなた」の人生の物語』というキャッチコピーが付されている。
2019年4月24日 21:05
「ムンガスジーホコ症候群」という病気をご存知だろうか。というと、恐らくは誰も知らないと思われる。何故ならこれは私が今適当に作った症候群、言葉であり、そんなものはこの世に存在しないのである。少なくとも現時点では。 だが三島芳治【児玉まりあ文学集成】の児玉まりあは、笛田くんとのしりとりの中で咄嗟に「リタタリウム」なる存在しない言葉を創り出し、言葉に追随するように、その三日後に遠い国で「リタタリ
2019年4月10日 18:40
離婚(別居?)のため母親は家を出、残されたのは気落ちする父親&思考する小学3年生・花さん。そんな花さんが、家族とは友達とは人生とはと、割り切れない悩みについて(重苦しくなく)思考していく。この花さんの絶妙な達観というか、子供であることを自覚しつつ妙に冷めた目で分析的になると同時に、友達と旅行に行く算段を立ててはしゃいだ表情を浮かべる無邪気さがある。そのシームレスさがいい。フィクションにおける小
2019年3月27日 21:04
今更だが夏目漱石の【草枕】を読んでいる。芸術論・創作論の開陳が多いのだが、それが単に説明的なものに堕さず辟易しないのは、画工である「余」がじっさいに歩く外界の風景や目にする骨董の描写が的確で、説得力があるからだろうか。 「俗塵を離れた山奥の桃源郷を舞台に、絢爛豊富な語彙と多彩な文章を駆使して絵画的感覚美の世界を描き、自然主義や西欧文学現実主義への批判を込めて、その対極に位置する東洋趣味を高唱
2019年3月17日 20:22
週刊文春で連載されていた漫画評集の、シリーズ三冊目。着眼点がいい意味でズレているのは健在で、作品の、大袈裟に言えば世界の見方を180度回転させられる気分になる。それをぴたりと言語化する筆力もすごい。「(作者に煙たがられこともしばしばある)にも関わらず、この世に評の言葉がなくては、と思う」「そして、その評はなるたけ、ふざけていないといけない」あとがきにあるこの言葉の通り、遊びのある評が繰り広げられて
2019年3月10日 21:31
『制服ぬすまれた』で俄かに(?)認知度が高まっている著者の連作短編集で、とある女子高、とあるクラス、とある瞬間を切り取った群像劇。別段事件らしい事件も起こらない、はっきりとした起承転結もない。分類としては「日常系」になるのかもしれないが、そう分類してしまうのも憚られるような手触りの作品で、じゃあこの手触りはどこから来るのか。他の漫画やアニメでは〇〇回というのがあって、この作品もある意味では同じ
2019年2月28日 21:56
初台でfuzkue(フヅクエ)というブックカフェを営む店主の日記を一冊に纏めたもの。分厚い。読書に関する話題も多いがそれだけでなく、店主の店作りに対する葛藤とか何かを閃いた時の明るい気分、阿久津さんが生活で推し進める無軌道に見えて一貫している思考の垂れ流しもある。 え、ちょっとこんなに影響を受けちゃっていいのか自分、というくらいに、意識の有無は別にして影響を受けている気がする。言及されている本
2019年2月23日 20:24
小説家の槇生が、交通事故で両親を亡くした姪の朝を引き取るところから始まる話。槇生は、朝の母親=槇生の姉とかなり折合いが悪い様子。槇生も朝も女性。類型的にも思える粗筋だが、この作品の魅力は単純な筋にはない。 タイトルがまず不穏である。「異」国ではなく「違」国。前者より後者のほうが、その「国」が自分とはっきり隔たっている手触りがある。 が、内容は不穏一辺倒ではない。二人とも不器用ながら歩み寄ろ
2019年2月22日 18:09
日経新聞に連載されていた書評を一冊にまとめた書評集。仏文学の印象も強い著者だが、語られるのは日本の古典である。日経新聞という相当に実利を重視するはずの新聞の片隅に、この生産性という概念から遠く離れた緩やかな散文が載せられていたということ自体が、何というか嬉しい。「解釈の誘惑から離れて」「全体の流れや構造とは関係ない細部につまづくこと」を掲げ、要約すれば零れ落ちてしまう「傍ら」の描写に着目して丹