ヤマシタトモコ【違国日記】
小説家の槇生が、交通事故で両親を亡くした姪の朝を引き取るところから始まる話。槇生は、朝の母親=槇生の姉とかなり折合いが悪い様子。槇生も朝も女性。類型的にも思える粗筋だが、この作品の魅力は単純な筋にはない。
タイトルがまず不穏である。「異」国ではなく「違」国。前者より後者のほうが、その「国」が自分とはっきり隔たっている手触りがある。
が、内容は不穏一辺倒ではない。二人とも不器用ながら歩み寄ろうとする様子が伺える。無論この二人以外にも「違国」という言葉の射程内と思しき登場人物は何人もいるけれど、彼ら彼女らも含めて、この作品の美徳は、そういう歩み寄ろうとしている描写が違和感なく描き出されているところというか、かなり細やかに丁寧に「(共同)生活」を描いているところにある。単なる心情の説明だけで済まさない。だから説得力があるし、また生活の描写それ自体も心地よい。
例えば第四話の餃子回である。槇生の旧友・醍醐奈々の指導の下、二人は一緒に餃子を作る。作家の長嶋有がかつてエッセイで主張していたが、餃子「パーティ」は一種の詐欺である。パーティという甘言で人々を騙し、餃子調理の大部分を占める、手を汚してタネを捏ねて皮に包むという地道な工程を隠蔽している。あれは餃子「作業」だ。この作品でもパーティという言葉は使われない。地道な「作業」に六ページ割かれているのに対し、(華やかな「パーティ」を担うであろう)焼いて食べるシーンはわずか二ページに収まっている。餃子の何たるかを心得ているという以上に、ぎこちない共同生活を送る二人が距離感を縮めるエピソードとして餃子「作業」を選択した作者の目の良さが光る。
こうした作者の眼力に支えられた生活の細やかな描写が、各所に配されて積み重なっている。そうして油断していると、不意打ちのように感情の爆発や鋭い台詞、寂しさを纏った心象が暗転大ゴマで挿入されるのも魅力だ。件の餃子回でも、去り際に奈々が魅せる。また内面描写も単純な図式に回収されない。
タイトルのうち「日記」のほうはどうか。朝は槇生に引き取られた(=両親の死亡)直後から、槇生の勧めで日記を書き始める。日記は記憶を補強する装置のようでいて、記述する事象を恣意的に切り捨てることもできる。一度は書いた日記を、朝は消してしまうこともある(もちろん私にも身に覚えがある)。その行いは吉と出るか凶と出るか。
ところで第一話で描かれているのは、朝が引き取られてから二年後の、夕方から夜にかけての光景だ。第二話以降の現在軸と比べ、この少しだけ未来の時間では、ぎこちなさなど微塵もない、すべての問題が解決されたかのような日々を送っている。この穏やかな光景が物語の着地点なのか、それとも通過点にすぎず、その先に別の問題が口を開けて待っているのか、それはわからない。現在三巻、続刊が非常に楽しみです。