【分野別音楽史】#05-3「ラテン音楽史」(キューバ・カリブ海編)
『分野別音楽史』のシリーズです。
良ければ是非シリーズ通してお読みください。
前回はアルゼンチン音楽の流れを見ていきましたが、今回はキューバン音楽を中心に見ていきます。どちらもスペイン語圏で〈ヨーロッパ音楽とアフリカ音楽の融合〉という発生過程も似ており、ハバネラからの流れを持っているなど共通する要素が多いですが、キューバの音楽は、よりその後のアメリカのポピュラー音楽に影響を与えたルーツとして重要になってきます。
またキューバに限らず、カリブ海諸国のラテン音楽についても触れていこうと思います。それでは参りましょう。
◉基幹音楽「ソン」と、舞踏「ダンソン」
キューバでは19世紀後半、南東部のオリエンテ地方にて土着の音楽やスペイン音楽、トローバ(吟遊詩人の歌)などが融合して「ソン」というジャンルが誕生します。起源については諸説分かれていますが1850年代にサンティアーゴ・デ・クーバで唄われていた『マ・テオドーラ』が最初であるとされます。
もともと、土地の名家が開くパーティー用に演奏されていた音楽に吟遊詩人のトロバドールらがアイデアを付加していくことで形式が成立していったとされます。
さらにキューバには18世紀から、スペインのコントラダンサが伝わり流行していました。これは、古くはイギリスのカントリーダンス、そしてそれが伝わりバロック期のフランス宮廷でも流行・発展したコントラダンスといった舞踏がルーツで、これがスペイン語圏のキューバで「コントラダンサ」となったのです。キューバ・ハバナで発達した「ハバネラ」も、正しくは「コントラダンサ・ハバネラ(ハバナの舞踏)」が省略されたものでした。
前回アルゼンチン編で見たようにこのハバネラが発展して南米で成立したミロンガが、キューバにも再び逆輸入されます。19世紀末ごろには、これがコントラダンサの発展形として「ダンソン」と呼ばれるようになり流行します。言葉としては「ダンソン」は「ダンサ」の強調系で、要はダンサよりダイナミックだったことから「ダンソン」と呼ばれたということのようです。
こうしたダンソンの踊りの場で演奏された音楽やアフリカ音楽の要素もさらに吸収しながら、「ソン」は発展していきます。
こうして成立していった「ソン」の特徴は「クラーベ」というリズムです。もともと西アフリカをルーツとする、鍬(くわ)を打ち付けて演奏されていた3連符のリズムがカリブ海諸国で3連符でないものと合体し、「ルンバ・クラーベ」「ソン・クラーベ」が誕生しました。
これがのちにルンバやマンボなど、20世紀の多様なラテン・キューバン音楽に発展するキューバの基幹音楽となります。ボンゴやギロなどの楽器が追加されていき、20世紀にはついにアメリカ全土へ広まっていきました。
初期キューバ音楽を代表するトロバドールとしては、シンド・ガライ(1867~1968)、ロセンド・ルイス(1885~1983)、マリア・テレサ・ベラ(1895~1965)、アルベルト・ビジャロン(1882~1955)らが居ます。
◉1930年代、「ルンバ」として輸出へ
こうして発展した「ソン」ですが、1920~30年代にその変形スタイルの社交ダンスが「ルンバ」というジャンル名でアメリカで売り出されました。
Songに混同されないようマーケティング上の理由で「ソン」ではなく「ルンバ」となったようです。
ルンバは一大ブームとなり、特に「南京豆売り」という曲が欧米で一大ヒットとなりました。
このころ、トランペットも加えられて「ソン」の基本編成となりました。さらに「コンフント」と呼ばれた大人数のグループでは、ホーンセクション、ギター、ベース、シンガー、ピアノ、ボンゴにコンガと、現在のラテンバンドに近い形で演奏されるようになっていったそうです。
「ソン」が「ルンバ」として広まってしまいましたが、もともとキューバ本国において「ルンバ」というと、もっとアフリカ色の強い打楽器音楽を意味するようなので注意が必要です。
ところで、この時期カリブ海ではキューバ以外でも新たなラテンジャンルが発生・伝播し、知られるようになりました。トリニダード・トバゴではカリプソというジャンルが誕生。スチールドラムという楽器も発達し、ジャンルを特徴づけました。
また、マルティニーク島で発生していたビギンというジャンルは、コール・ポーターのミュージカル『ジュビリー』の中で歌われるビギンのリズムを使用した曲『ビギン・ザ・ビギン』が大ヒットしたことにより世界中に認知されました。
◉1940~50年代、「マンボ」の誕生
キューバ本国の重要な基幹音楽となったソン/ダンソンが1920~30年代に「ルンバ」としてアメリカへも入ってきた後、さらにキューバン音楽は発展していきました。1930年代末、ルンバ(ダンソン)にジャズを加える形でマンボが誕生します。オルケスト・アルカーニョ・イ・スス・マラビージャスというバンドが最初にマンボのスタイルを作ったとされています。ソン・モントゥーノのテンポが速くなり、アンサンブルセクションやティンバレスが加わり、華やかになりました。
その後マンボは1940~50年代にペレス・プラード楽団によって世界的に大流行しました。ホーン・セクションの強力さによってマンボNo.5などのヒット曲を数多く残しました。
ちなみに、ジャズ界でも、スウィングのリズムだけでなく、ラテン的なリズムの楽曲がしばしば演奏されていました。これはアフロ・キューバン・ジャズと呼ばれます。
ジャズ史とラテン史を別々に捉えていると、「ラテンジャズ」というのは2つの異ジャンルのコラボレーションのように捉えがちですが、ラテン史のはじめのほうでも触れたように、アメリカ南部のニューオーリンズは「ラテン圏の北部」でもあり、ハバナのキューバン音楽とは関連が深かったため、アフロキューバン・ジャズというのも、ラテンとジャズの相互作用でごく自然に産まれたものであると考えたほうが良いでしょう。
◉1950年代、「チャチャチャ」の誕生
キューバン・ミュージックとしては40年代~50年代にかけてマンボが欧米に輸出されて人気となっていましたが、50年代にはキューバ本国で、ソン/ダンソンをベースとしてマンボよりもテンポを落としたチャチャチャというスタイルが流行しました。エンリケ・ホリンが代表的です。
この「チャチャチャ」というジャンルは、日本では童謡「おもちゃのチャチャチャ」によって用いられ、広く認知されていますね。
◉60~70年代、NYの「サルサ」へ
もともとキューバなどのスペイン語圏では、ブルジョワ層による主導によって、土着文化と西欧近代的美学との折り合いをつけ、エリート的判断で様式を落ち着けていました。しかし、次第にマイノリティの政治参加の声が上がる時代になり、旧来の社交ダンス的な「国民音楽・舞踊」というステレオタイプに反抗する若者文化が発生していきます。これは『ヌエバ・カンシオン(新しい音楽)』や『カント・ポプラール(民衆の歌)』といったジャンル名とともにスペイン語圏全域に影響を与えました。
さて、キューバでは1953年~1959年、フィデル・カストロ、チェ・ゲバラらの主導によってキューバ革命が発生します。それまでキューバはアメリカ合衆国の実質的な植民地状態であり、親アメリカ派の軍事政権への反発から革命が起きたのでした。アメリカのケネディ大統領らはキューバ新政権を攻撃し新政権打倒を試みましたが、それによりキューバは逆にソ連への接近を鮮明にし、1961年に社会主義国化。核兵器が持ち込まれ、核戦争手前の「キューバ危機」へと繋がっていきます。
こうした情勢によって、アメリカ・ニューヨークに多く住んでいたラテン系移民、スペイン語話者たちはキューバとの国交を絶たれてしまいました。おりしも対抗文化運動の盛り上がる1960年代ニューヨークにおいて、ラテン系移民たちは、当時登場してきたロックやソウルに触発されつつ、アフロ・キューバン音楽を継承・発展させた新しいスタイルを実験し始めます。
特にプエルトリカンを中心とした、ニューヨークのラテン系移民たちによる音楽を総称してサルサと言います。サルサは1960年代に発生し、70年代にブレイクとなりました。
キューバの基幹音楽「ソン」やそこから発展した「マンボ」を基調にしながら、ティンバレスや「モントゥーノ(トゥンバオ)」(=ピアノのバッキングパターン)が強調されたピアノが発展し、ジャズ・R&B・ロックにも関心を寄せており、同時期の英語圏のロックに対する、スペイン語圏の応答だともされています。ジョニー・パチェーコが設立したファニア・レコードが「サルサのモータウン」と呼ばれるほどのレーベルとなり、サルサ・ミュージックが生産されていきました。他に、ティト・プエンテ、ボビー・バレンティンらが影響力を持ちました。
一方、国交断絶したキューバは独自の道を歩み、サルサとは別の、ロックドラムが加わったティンバというスタイルが発展していくことになります。
◉80~90年代、クラブミュージック化
1980年代以降、世界全体でデジタルサウンドが発達し、リズムマシンの普及とともにハウスやテクノなどのクラブミュージックも誕生していった中、ラテン語圏でもそれまでの多くのジャンルが電子化・または大衆化していきました。
ドミニカ共和国のリズムスタイルであるメレンゲは、ロマンティックなラテン歌謡をダンスサウンドでカバーするなどの形で発展し、人気となりました。
サルサも衰退していき、バラード風サルサ、ハウスやヒップホップを取り入れたものなど多様化し、こうしたものがスペイン語圏カリブのダンス音楽の主流のサウンドになります。
もともとダンスミュージックであったラテンの各ジャンルは、踊りやすいリズムがヒップホップやハウスミュージックとの親和性も高く、クラブミュージックの一部としても発展を遂げていくことになります。
◉21世紀~ 「レゲトン」の人気へ
70年代にジャマイカで発生したレゲエは、世紀末には同じように電子化して発展し、ダンスホールレゲエと呼ばれていました。(レゲエの系譜はまた別途まとめなおす予定です。)
80年代から90年代にかけて、アメリカのヒップホップやクラブミュージックの影響を受けながらプエルトリコでレゲエやサルサを融合する形で「レゲトン」というジャンルが産まれます。
レゲトンは1990年以降、プエルトリコ首都のクラブ等で若者がスペイン語でラップし始めてから人気が出始め、スペイン語圏の各国にまで広まっていきます。
そして、プエルトリコ人の母を持つヒップホップアーティスト、N.O.R.E.(ノリエガ)がレゲトン楽曲『Oye Mi Canto』を大ヒットさせ、このジャンルが一躍世間的な認知を得ます。彼は元々ヒップホップサイドの人間でしたが、自身のルーツに関わりのあるレゲトンにいち早く興味を抱いていたのです。
さらに『Oye Mi Canto』にもフィーチャリング参加していたレゲトンアーティストのダディー・ヤンキーが『Gasolina』をヒットさせたことで、その人気や影響は世界中に広がることとなりました。
その後も、多くのヒップホップ・R&Bアーティストが自身の楽曲でレゲトンリミックスを収録したりプエルトリコからレゲトンアーティストを迎え入れたりするなどして、影響が広がっていきます。
そして2010年代に入り、ルイス・フォンシとダディ・ヤンキーによる『Despacito』が大ヒットし、一種の社会現象にまでなり、「レゲトン」や「ラテン・ポップ」の再メジャー化の動きに一気に火が付きました。
ここから、アメリカやヨーロッパのヒットシーン・クラブミュージックシーンでもレゲトンのリズムを取り入れた楽曲が多く登場し始めます。様々な有名アーティストに楽曲を提供していたシーアも、レゲトンの楽曲「Cheap Thrills」で初めてのビルボード一位となりました。
トップ・スターのジャスティン・ビーバーも、EDMのDJのスクリレックスのプロデュースによってレゲトン調の楽曲をリリースし、大ヒットとなっています。
レゲトンのリズムが浸透していった動きが一番顕著にわかる例が、エド・シーランの「Shape Of You」のヒットです。レゲトンがわからない人でも「この曲のリフのリズム」と言えばすぐに通じるでしょう。それほどの浸透度を持ったのです。
非レゲトンの楽曲としても、キューバ出身のカミラ・カベロの『ハバナ』やラッパーのカーディ・Bによる『I Like It』など、ラテン系のヒップホップのヒット曲が多く出現し始め、現在ラテンミュージックは過去最大の注目が集まっているとも言えるでしょう。
こうして2020年代に突入した現在。これ以降のラテンミュージックシーンもどう変化していくのか、要注目です。