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クラシックの「新しさ」をジャズやロックは壊せていない

主に音楽ジャンルや音楽史について書いてきた僕のnoteでは、言及する対象のジャンルは多岐に渡っていますが、傾向としては基本的にどちらかというと、ポピュラー音楽の立場から既存のクラシック正史の視点を批判する方向性の記事のほうが多かったとは思います。

ただそれは、一般教養・常識としての「クラシック正史」が既に共有されていることを前提としてからその枠組みを相対化しているのであり、クラシック音楽そのものを無下にして否定しているわけでは全くありません。だからこそ、クラシック史を単にポピュラー音楽史のマエフリとして簡単に済ませるようなことはせずに、むしろきちんとクラシック段階からわりと詳しめに書いてきたつもりではあります。

しかし、まだまだ一般にジャズやロックの畑の人が捉える"クラシックについての認識"は不十分で、巷でジャズやロックの立場から既存のクラシックの権威を批判したり、既存のクラシックに対してジャズやロックの新規性を唱えるにしてもその前提がずれていて、芸術音楽学者やクラシック論者に対してまったく有効ではない的外れなものになっているように感じることも多いので、今回はそのあたりについて書いてみます。


まずはジャズ系の音楽理論での言及についてです。ちょっとしたジャズの音楽理論講座や、ジャズ史の入門書籍などにおいて、クラシックとの対比をしばしば目にしてきました。

「既存の"クラシック"の理論ではこう捉えていたが、ジャズではそれを拡張・否定してこのように考えるようになった」というふうな記述です。

つまり、クラシックの理論は古く、ジャズの理論のほうが革新的である、というような認識ですが、これはクラシックの理論についてかなり理解が甘いと言わざるをえません。

そもそも正当な「クラシック史」は音楽理論の発展史観であり、芸術音楽界は常に「新しい音楽」を求め続けてきました。和声や音階的にありとあらゆる可能性が試され、拡張や否定が進み、行くところまで行ったその末路が「占いによって演奏する音を決める」「4分33秒間休符」「ヘリコプターを4台飛ばして中継して演奏しろ」「ティンパニに頭を突っ込んで壊せ」「火を放て」「ピアノを壁まで押し続け、疲れたら休んで放尿しろ」といった前衛的な「現代音楽」になってしまったほどです。

ジャズ理論の根本であり、ジャズの名門であるバークリー音楽大学などで教えられているバークリーメソッドなどは、基本的には既存のクラシック理論を追っかけながら細部をジャズ用にカスタマイズされていったものであり、クラシックの立場からしてみると、その理論を以てしたところでクラシックの理論に対する革新性が示されるわけでは全くありません

(ただ、深い部分では結局ジャズ理論の新規性を示すことはできるという見解も僕の中にあるので、それは別の記事に書こうとは思いますが、今回の論旨とはズレるので割愛。)


さらには、1950年代末~1960年代に登場した「モードジャズ」についてです。

1940年代~50年代のジャズは「ビバップ」というアドリブソロの競争的な側面が強調されていきましたが、コード進行をもとにしたソロの組み立てが徐々に限界を迎えた末に、コード(和音)ではなくモードというスケール(音階)によって音楽やソロを進めるという発明がなされたのです。

このモード理論について詳しくは 「ジャズの歴史」の記事内のこちらのリンクの項目 にて解説していますが、このモードジャズはジャズ史上の転換点とされ、これを以てして「クラシック的理論の呪縛からの解放」「黒人性の獲得」「同時代の公民権運動にも関連する、自由性の出現」などと捉える記述を多く目にします。

しかし、「既存の音楽理論が限界を迎えた末にコード(和声)ではなくモード(教会旋法)を取り入れた」という道のり自体が既にクラシックが19世紀末に辿った過程と全く同じであり、デジャヴしまくりの流れなのです。響きとしてモードジャズは、ドビュッシー、ラヴェル、バルトークといった20世紀前半のクラシック作曲家が開発していったものと類似しており、むしろモードジャズは黒人性・自由の獲得ではなく、クラシック性・白人性の強化であるとまでいえると思います。

実際、モードジャズの起点とされるマイルス・デイヴィスの『カインド・オブ・ブルー』というアルバムでは、クラシックの知識を持った白人ピアニストのビル・エヴァンスの起用が大きな役割を果たしており、ジャズは黒人の魂だとされていた当時、黒人トランペッターのマイルスが白人ピアニストを雇ったことについて激しい批判が浴びせられ、マイルスは「いいプレイをする奴なら、肌の色が緑色の奴でも雇うぜ」と返したというエピソードは有名です。


さらに、ロックミュージックとクラシックの立場関係についてです。

一般に、ロックの登場によって「クラシック音楽」が古くなってしまった、ロックとは既存の「クラシック音楽」という古い権威を壊す新しいものだ、というような見解はよくありますが、現代音楽まで視野に入れてクラシック正史をきちんと勉強してみれば、このような見解も少々的外れであるとわかるはずです。

僕は以前、「ロックは“アンサンブル的なサウンド”を古くし、ギターサウンドがカッコイイという価値観の転倒をもたらした」というようなことは書きましたが、その論旨を「ロックはオーケストラ中心の"クラシック"を古くした」というふうに誤読されてしまい、「ありがちな結論だ」と批判されたこともありました。でも、そういうことではないんですよ。

芸術音楽の立場からしてみれば、ジャズであろうがロックであろうが、ポピュラー音楽自体がすべて「古い」枠組みから抜け出せていない下級なものであり、クラシックの流れにある「現代音楽」のほうこそが一番新しい音楽である、という論理になるのです。

このように、音楽をめぐる「古い」「新しい」という物差しをどのように当てはめるか、という部分で既に齟齬をきたしているのです。

ロックミュージックが「古くした」と思っている音楽 = ロックの立場から「クラシック」と括られてしまった音楽とは本来は何なのかというと、それこそが「クラシックの系譜にあるアンサンブル的なポップス」としか言いようがない分野です。ニューヨークのブロードウェイから発祥し、20世紀前半にアメリカンポップスのスタンダードを創り上げたのがティン・パン・アレーと呼ばれる音楽出版社の集合体であり、ポピュラーソングに加えて、映画音楽、ダンス音楽なども生産されていきました。

これらの音楽は現在の我々の耳で聴くと比較的クラシカルに感じるかもしれませんが、あくまでも非クラシックの「ポップソング」「ヒットソング」であり、そのような音楽に対して"ホンモノ"のクラシック音楽界からはむしろ当初から「下級な音楽である」というふうに痛烈に叩かれ続けています。

つまり、「新しさ」を求めるロック側からもクラシック側からも「価値の無い音楽」だとされて板挟みになってしまったのが、当時の「都市の流行音楽」なのです。

以下はこれまで何度も貼っている図ですが、今回の文を踏まえてもう一度示しておきます。

ポップ・大衆性・権威性を否定して「新しさ」を求め、自分たちの立場を優位にするという姿勢は、クラシック的な「現代音楽」と「ロック」で非常に近しいものがあり、むしろロックはクラシックを否定しておらず共鳴しているとさえ言うことができるのではないでしょうか。

ビートルズは前衛芸術家のオノ・ヨーコの影響により現代音楽へ接近していくことになりました。70年代、クラウトロックと呼ばれるドイツの電子音楽的ロックバンド群から台頭したクラフトワークに端を発するテクノも、ドイツのクラシックルーツの現代実験音楽・電子音楽からの流れがあります。ミニマル・ミュージックやアンビエント音楽なども現代音楽的発想があります。


延々とここまで何度も何度もこのようなことを記事にしていてコイツは一体何を主張したいの?何の意味があるの?とお思いの方もいるかと思いますが、結局のところ僕は、クラシックのハイカルチャー気質とロックのサブカルチャー気質の双方に、別の場所から切れ込みを入れたいだけなのだと思います。

ここまでやってようやく、「みんな違って、みんな良い」の片鱗が見えてくるというか、逆にますます見えなくなってくるというか、そのような段階な気がしています。

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