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#12 音楽史⑦ 18世紀 - ロココと後期バロック

ポピュラーまで見据えて西洋音楽史を描きなおすシリーズの続きです。
このシリーズはこちらにまとめてありますので是非フォローしてください。
今回はようやく、従来の音楽史で有名な人物も、登場し始めます。


ここまでの流れ

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ざっくりと流れを復習しますと、

・グレゴリオ聖歌を軸に展開したヨーロッパの中世音楽
ポリフォニー(複数声部の重なり)の音楽であり、
その手法が15世紀ルネサンス頃に全盛期を迎える。

・しかし16世紀には、ポリフォニーは保守的なものだ、とされ始め、イタリア・ヴェネチアを中心に器楽と声楽の融合が起こる。16世紀末にはフィレンチェではカメラータというグループが「和音の伴奏の上に、歌がかぶさる」というモノディ方式を発明し、その手法を生かした音楽演劇をつくりあげ、1600年頃にオペラが誕生。

17世紀、オペラはヴェネチア楽派のモンテヴェルディが発展させる。
・フランスでは絶対王政が確立し、「太陽王」ルイ14世のもと、ヴェルサイユ宮殿にて食事や舞踏会でのBGM、バレエやオペラなど、貴族の生活を彩る形で華やかなバロック音楽が展開された。宮廷楽長リュリの独壇場だった。

ドイツ地域は「三十年戦争」により荒廃し、ドイツの諸地域を総じて統べていた「神聖ローマ帝国」は形骸化、ただただ中世由来の諸侯(地方貴族)の支配が乱立する状態に。音楽的にも後進地域とされる状態が続く。オーストリア・ハプスブルク家の権威も落ちていく。

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18世紀はロココの時代

美術や建築など他の文化史では、バロックに続く潮流としてロココと呼ばれる時代に入ります。バロックが王の権威を彩るダイナミズムだとすれば、ロココは軽やかさ・洗練の傾向といえます。

しかし、音楽史ではなぜか、ここからの時代の音楽のほうが多く「バロック音楽」として知られているため、時代感の把握がややこしくなっています。実際はロココ的な音楽もありますし、バロックの傾向を引き継いでいる音楽もあるので、ここでは18世紀音楽を「ロココ・後期バロック」としておきます。(日本は江戸時代の中期に入るころですね。)

それでは順番に見ていきましょう。



イタリア音楽

フィレンツェで生まれ、ヴェネチアを中心に広まっていったオペラは、やがてナポリでさらに発展していきます。

その中心人物はアレッサンドロスカルラッティ(1660~1725)です。

また、ヴェネチアではヴィヴァルディ(1678~1741) が活躍します。
ようやく聞きなじみのある名前が登場したのではないでしょうか。

さらに、ドイツ人のヘンデル(1685~1759)も、イタリアに出て成功(後にイギリス人に帰化したので、本来はハンデルと呼ぶのが正しいようです)。

このあたりが「後期バロック」と呼ぶべきグループになりますかね。



フランス宮廷音楽

フランスでは、リュリに続いて、

クープラン(1668~1733)
ラモー(1683~1764) が活躍。

こちらはロココと言えるグループになるでしょうか。



ドイツでは

ルターの宗教改革以降プロテスタントの牙城になったドイツ諸地域では、神との結びつきを大切にし、コラールカンタータといった敬虔な雰囲気での教会音楽が捧げられていました。ペスト流行も続いており、さらに長年の戦争が続いたため、随分と長いあいだ混乱が続いている状態ですので、神へすがる気持ちが高まっていくのはある種、納得です。

17世紀後半にはオルガン音楽を中心に
ブクステフーデ (1637頃~1707) や パッヘルベル(1653~1706) が活動。

そして、それに続いてバッハ(1685~1750) が活動します。バッハの作品は対位法を駆使した綿密なパズルのような作風。

縦の線や華やかさを重視するバロックやロココの流行から比べてその技法は実にマニアックで、質実剛健な中世由来のポリフォニックな様式にもとづくものでした。同い年生まれで国際的に活躍したヘンデルに対し、バッハは生涯ドイツ圏内にとどまっており、死後もしばらくのあいだマイナーな存在のままでした。19世紀にドイツ人の手によって「発見」されるまで…。

今日我々が教わる音楽史ではその「発見された」視点で語られているため、バロック音楽の代表として「音楽の父・バッハ」が真っ先に登場しますが、それがバロックのイメージを混乱させる一因になっています。ここでは一歩引いた視点で、イタリアやフランスから外れたドイツ音楽ということをしっかり押さえておきます。そして、どのように19世紀に復活するのか、という点を頭の片隅に持っておきましょう。(一応、今日の音楽史上では、1750年のバッハの死をもってバロック時代の終結、とされています。)


18世紀中頃の展開

舞台はイタリアに戻り。

ナポリやミラノでは音楽学校や宮廷劇場が多く設立され、引き続きオペラが発展。オペラ・セリア(正歌劇)から、オペラ・ブッファ(幕間から独立・発展したもの) への分化が起こります。ペルゴレージ(1710- 1736)が有名です。また、1750年頃にはフランスオペラとイタリアオペラのあいだでちょっとした論争も起こったりします。(=ブフォン論争)

楽器面では、バロック期に主流となった弦楽器につづいて、木管楽器も改良されていきます。(新しいフルート、クラリネット、オーボエ、ファゴットなどが台頭)。

また、オスマントルコの軍隊は、たびたびヨーロッパと衝突していましたが、それによって、トルコ軍楽のメフテルからシンバル、トライアングル、タンバリンなどの各種打楽器が入ってくるようになり、ヨーロッパ各地の軍楽隊に取り入れられるようになります。

これらの材料が、交響曲(シンフォニー)の発達の布石となりました。

イタリア語のオペラを十分に理解するには少しハードルがあったフランスのパリやイギリスのロンドンにおいて、オーケストラ伴奏のほうへ興味が高まりつつあり、“前座”としてシンフォニーが発達していきます。


各都市の宮廷で活動するドイツ人音楽家

ドイツ寄りな音楽史では、この時期「マンハイム楽派」なる一派が、交響曲につながる強弱交替や問答型の形式を発展させた、としているものがあります。しかし、当時のドイツの諸宮廷ではフランスに対するコンプレックスが強く、状況証拠的に考えると、マンハイム楽派は「フランス風の訓練を受けたマンハイム地方の宮廷楽団」程度にとらえるほうが妥当のようです。

当時のドイツ人のアイデンティティとして、独自の文化の不在を「フランスやイタリアの混合趣味=より“普遍的な”音楽の追求」というロジックで埋め合わせることにより、ドイツ独自の文化と思おうとする風潮があったようです。

同じころハンガリーの貴族の宮廷学長として出世し、のちに"交響曲の父"という異名がつけられるハイドン(1732~1809)も、実はパリやロンドンでの勉強の影響によって、交響曲の作品を数多く残した、ということのようです。

神聖ローマ皇帝位を失ったハプスブルク家が治めるオーストリア地域には、モーツァルト(1756~1791)が登場します。(マリーアントワネットと同年代)。英才教育を受けたモーツァルトは幼少期から演奏旅行をさせられ、「神童」としてもてはやされました。その後、宮廷音楽家として働きながら各都市を演奏旅行して活動しました。

ハイドンやモーツァルトの音楽を、今では「古典派」と呼びます。
古典派とはつまり「クラシック」という意味です。つまり、このあと登場する世代から見て、この時代が「古典=クラシック」と認定され、「クラシック音楽」の概念が誕生することになるのです。


トルコ音楽の影響

トルコ軍楽の影響は、打楽器の流入だけではなく、曲調としてのブームにもなりました。中世のころに紹介しましたが、もう一度メフテルの音楽を貼っておきます。

さて、こういった曲調の影響を受けたヨーロッパ音楽とはどういうことなのか。

モーツァルトの「トルコ行進曲」は有名ですが、本家メフテルが演奏したらどうなるのか、というおもしろい動画を発見したので、貼っておきます。





アメリカでは

イギリスの植民地だったアメリカにも、オペラなどヨーロッパ音楽は流入。
その一方で、スコットランド民謡を基調とした作品も親しまれていました。
フィドル(バイオリン)が輸入され広まっていました。

1775年~1783年、アメリカ独立戦争が起きます。
1776年 アメリカ独立宣言。

この前後には、愛国歌が人気になります。
ヤンキー・ドゥードゥル」が代表的で、200種に及ぶ替え歌があるといわれています。日本では「アルプス一万尺」として知られている曲です。

独立後にも多くの愛国的ソングがつくられたほか、イギリスの奴隷船の船長が歌ったとされる「アメイジング・グレース」もヒム(宗教歌)として白人・黒人それぞれの間に広がっていきました。

吹奏楽史的には、
1783年に「マサチューセッツ・バンド」
1798年に「海兵隊バンド」が創設され、
この2バンドを軸に発展していきます。

ちなみにこのころの欧米の軍楽隊は、
金管楽器
⇒細かい音が吹けないのでファンファーレ用。
木管楽器
⇒ 音量が小さい。

という楽器的な限界が存在し、「鼓笛隊」と呼ばれる状態だったようです。



次回はいよいよ、
18世紀末~19世紀初頭のフランス革命期に入っていきます。


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