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塩と人類、その歴史と宗教意識
古代ローマでは、兵士や役人、教師などへの労働の対価としてサラーリウム(salarium)が与えられていた。この言葉には塩(sal)という言葉が含まれており、「塩を買うためのお金」という意味があるようだ。これが、給料を意味する「サラリー(salary)」の語源なのだそうだ。ただ、和製英語のサラリーマン(salary man)という意味を訳すと、「塩漬け人」ということになるらしい(笑)(参照※1)。
塩漬け人とはよく言ったもので、われわれ現代人は、ストレスから暴飲暴食をしてしまう。塩分多めの食生活にも漬けられているし、サラリー(お金)にも依存し、腐らないように企業にどっぷりと漬けられ保存食のごとく会社勤めを行うことになる(腐ってしまう人もいるかもしれない)。
それはともかく、塩(塩化ナトリウム)が、生活に欠かせない貴重な物資であったというのは、世界各地で共通であったようだ。塩は価値の高い交換媒介物として、貨幣としても扱われていたようだし、塩をめぐって戦争が起きたことさえあったようだ。フランス革命が生じた原因の一つは、ルイ16世が塩に高い税を課したことにあると言われている(参照※2)。
人類にとって、塩は生命維持に欠かせないものである。塩にはナトリウムイオンや塩化物イオンが含まれており、細胞の維持や消化、神経の働きなど、さまざまな役割を担っている。塩は、酸素や、水、光と同様に生命にとって必要不可欠な要素なのである。
生命はそもそも海から誕生し、海の中で命を育み、進化してきた。海によってつくられたといってもよい生命が、塩分が含まれた体液で自身の身体を満たすことで、淡水や陸の上でも生きることができるようになったと考えられている。私たちの身体は体重の6~70%が水分とされるが、この水分には、細胞内液や血液のほかに、細胞間を満たしている細胞外体液というものでできている。この細胞外体液には、海水にとてもよく似た構成比の成分が含まれており(塩は約0.9%)、細胞は、細胞外液という海に浮かぶようして維持されているのだという(参照※3)。
人類がまだ、野生の動物を狩猟したり植物を採取したりして生活していた頃は、動物の肉や血に含まれている塩分で足りていたため、あえて意識して塩を摂取する必要はなかった。だが、やがて人類は農耕とともに定住生活へと転換し、社会を形成するようになってから(定住革命)、野菜や穀物からでは十分に塩は摂れず、別で採取する必要が出てきた(参照※4)。
そして何より、人類は、塩をかけることで食べ物が格段と美味くなることを発見したのだろう。また、塩が肉や魚を腐らせず、長期的に保存させるということも発見した。この保存食により、定住生活の安定性は飛躍的に変化したのではないだろうか。
かくて塩は、人類にとってますます必要不可欠なものとなった。だが、塩は容易には手に入らない。岩塩などの塩資源はどこにでもあるというわけではないのだ。日本なんかは塩資源がなく、海水から生産していたということだが、岩塩での採掘にしろ、海塩の生産にしても、その技術と工程の複雑さ規模感は、とても個人で手を出せるものでない。
よってそれらは資本が必要とされる。そんな資本を出せるのは国家権力しかないということで、国家事業になる。塩が世界各地で高価なものであったというのは、このような塩の生産の難しさにあった。この資源の生産とマネタイズが、国力に関わるとなれば、国家間での戦争も起きるというわけだ。
わが国、日本でも、塩の生産は一大産業であった。塩づくりの歴史としては縄文時代からあり、奈良時代には人工的に海砂に海水をまき、砂に塩を付着させる「塩田」が出現した。江戸時代には「入浜塩田」という形で、製塩は大規模化、効率化されたようだ。その作業工程がどのようなものであるかは、『赤穂の塩づくりの記録』(参照※5)に詳しく記されている。
私の母方の祖父母が住んでいた「行徳」(千葉県市川市)という地がある。この地は、かつて「行徳塩田」と呼ばれていて、下総国行徳(現在の千葉県市川市行徳地区および浦安市)とその周辺一帯に塩田が作られ、江戸から近代を通じて、関東地方で最も盛んに製塩が行なわれていた地として栄えていた。
行徳は戦国時代において、江戸湾岸における最大の塩の産地になっていたが、これが更に発展して、東国第一の「行徳塩業」としての特色を発揮するようになった。その背景には、徳川家康が行徳を幕府直属の天領とし、「塩は軍用第一の品、領内一番の宝である」といって、塩業を保護、奨励したからなのだという。(参照※6)。塩が国家権力による産業であることは日本でも同様だったようだ。
この行徳と、江戸城を直接結ぶ水路も整備されたということで、行徳はこの航路の独占権を得て、船着場が作られ、塩だけでなく、多くの物資の運搬、そして人の行き来が盛んになったようだ。
行徳船を利用した著名人も多く、芭蕉、十返舎一九、一茶、渡辺華山、大原幽学などの記録がある。また、文化・文政のころからは、江戸で成田山詣でが流行し、行徳は船場、宿場として活況を呈した。日本橋小網町と下総行徳村を結んだこの船便は、明治に入ると蒸気船が登場し、水上交通は新しい時代を迎えた。
行徳は江戸の勝手口として繁栄し、塩田の近くにいくつもの寺が創建され、この時代には「行徳千軒寺百軒」といわれるほどの寺町が作られたようだ。
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明治になり、陸路が発展すると、この水路は衰退していくことになる。行徳は近代的交通網から取り残され、「陸の孤島」となってしまい、塩の産業も衰退していくことになる。大正六年には大津波によって、塩田も消滅してしまったのだという。
現在の行徳には、かつての塩業、船場、宿場町として栄えていたという面影はない。この私の祖父母が住んでいた千葉県市川市行徳。私にとっては、第二の故郷ともいってもよいほど、祖父母のもとへと頻繁に訪れた地でもあったし、運命的といってよいものか、じつは私の妻もこの行徳(妙典)の出身地ということで、結婚してからは妻の実家の近くということもあり、この行徳で暮らしていたのであった。娘は、隣町の浦安病院で生まれ、娘が幼稚園生になるくらいまでは、行徳・妙典のエリア内で生活をしてきた。とても思い入れの強い町である。
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ところで、塩は食の文化のみならず、宗教においても重要な意味を持っていた。たとえば新約聖書のマタイ伝第五章では、「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである」というイエスが弟子たちに伝えた言葉がある。
これは、塩が世に味わいを添え、腐敗を防ぎ、清潔を保つということから、神を信じる者はそのような社会の模範者たれ、ということの意味合いがあるようだ。塩は防腐剤としても昔から珍重されていた。そのため、多くの文化の中で宗教上の清めの役割も担ってきたのだという。旧約聖書においても、神殿の供え物には塩を添えるように命じている(レビ記2.13)(参照※7)。
レオナルド・ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』には、絵画が復元された際に、ユダの右手前の「倒れた塩壺」が描かれていたのだという。これは何を意味するのだろうか? 西洋では、昔から「塩がこぼれると悪いことが起きる」というのは迷信としてよく言われていることであったようだ。
また、先にも述べたように、塩は旧約聖書の中でも神聖なものとして扱われている。古代ユダヤ人にとって塩は不変な存在であることから、神と人、人と人との間の永遠の契約の象徴として捉えられていた。その塩がこぼれるというダ・ヴィンチの描写は、神との契約が破棄され、来るべきキリストの受難を暗示したのではないかと考えられている(参照※8)。
日本でも、古来より塩は、「お清め」「お祓い」といった力を持つもの、「清浄」の象徴として考えられ、神聖なものとされている。これも西洋と同じく、塩の清らかな白さ、防腐作用の力からきたものである。
『古事記』には、黄泉の国から戻ったイザナキノミコトが自らの身体についた穢れを祓うために、海に浸って禊を行うという記述があるのだが、この禊とは、黄泉の国からこの世に戻る時に行う再生の儀式(「蘇り」=「黄泉がえり」の儀式)であり、これに海水が使われたことを起源として生まれたのが神道における「塩で清める」という行為なのだという(※参照9)。
塩は、穢れを祓うもの、身を清めるものとして、葬儀や法要の場で塩を振りかけたり、塩を足で踏んで玄関に入ったりという習慣において使用される。「盛り塩」というのも、昔、祖父母がやっていた記憶があるが、これも家の中に邪気を入れないため、厄除け、運気を招き入れるという意味合いがあるようだ。塩で邪気を祓うというのは、大相撲で力士が土俵に塩を撒く姿にも見ることができる。
この塩で清める、穢れを祓う行為、死者を不浄なものとして忌避したり、清浄ではない状態を恐れ、遠ざけようとする観念が、日本人の無意識的な差別意識につながっているという論もある(『逆説の日本史4 中世鳴動編/ケガレ思想と差別の謎』井沢元彦)。井沢氏に限ったことではなく、この穢れ思想の歴史的考察は、さまざまな研究者によってなされている。
ただ、上記でも触れたように、この穢れを祓う行為には、本来的には排除や忌避の概念ではなく、穢れからの「蘇り」=「再生」の意味があるということに注目したい。神道では、「ケガレ」は「気枯れ」と書き、気が枯れてしまった状態、すなわち生命力が枯渇してしまった状態を表すのだという。この生命力が枯渇した状態の最たるものが「死」であり、残された人間も例えようのない悲しみや喪失感に襲われ、同様に「気枯れ」の状態にあるのだと考え、このような状態から日常に戻るために使われるのが、あらゆる生命の源である海の水から作られた塩であり、「清め塩」から塩が持つ再生の力を受けることによって、死の悲しみにひとつの区切りを付け、日常に戻っていこうというもののようだ(参照※9)。
私はいぜん、「煙」が人類の宗教的な役割として、死者と交流するもの、死者との別れという一つの「区切り」「小休止」の役割を果たしてきたのではないかと論じたことがある(『「煙‐けむり‐」の文化人類学』)。塩で身を清める、穢れを祓うという行為にも、神道においては「気枯れ」からの再生、悲しみとの区切りにある、ということに、重要な意義を見出したい。
私たちは死者との対峙だけでなく、下手したら「気枯れ」にまみれた生活に陥ってしまうことがある。そのような悲しみとの区切りとして、喜びの回復としての「塩」を見出すことはできないだろうか。塩が世に味わいを添え、腐敗を防ぎ、清潔を保つという含意をもった、「あなたがたは地の塩である」というイエスの言葉を今一度、噛みしめるべきなのだ。
さて、ここまで人類と塩の関係史のいくつかを見てきた。人類と塩の関係は、人類の歴史同様に古いものと考えられる。それは、海と生命、生命と塩、人類と塩、食と塩、産業としての塩、宗教と塩といったように、きわめて広範囲、多義に渡るものとしてあり、調べれば調べるほどさまざまな歴史の局面が姿を現してくる。今回はその一部を、私の関心に基づき、パラフレーズしたものにすぎない。
「塩」を題材に記事を書こうと思ったのも、行きつけの焼肉屋での最近の出来事がきっかけである。新商品として牛タン塩定食がでていたので、牛タン好きの私は、迷わずそれを注文した。だが、その牛タン塩は、恐ろしく塩が強すぎて、とても食べれたものではなかったのだ。塩加減ひとつでこうも食の印象と評価は変わってしまうものかと、残念な気持ちになってしまった。
塩梅とはよくいったもので、塩は人間にとって薬にもなれば毒にもなるのだ。美しいものにほど毒はある、両義性がある。これまで私は好きなだけ好きなように塩分を摂っていたものだが、そろそろそういうわけにもいかなくなった。塩分の過剰摂取は、いつか自身の健康を脅かすものにもなりえるため、塩との付き合いというのが、これからますます重要になってくる。
<参考情報・文献など>
※1 『味覚から考える「サラリーからの解放」』(Webサイト)
※2 『物語フランスの塩税』(Webサイト)
※3 『意外に知らない塩のことその8、塩と人間の関係』(Webサイト)
※4 『塩ナビ・塩の歴史』(Webサイト)
※5 『赤穂の塩づくりの記憶』(Webサイト)
※6 『行徳の歴史』(Webサイト)
※7 『マタイ 5章13~16節 地の塩、世の光(聖パウロ女子修道会)』(Webサイト)
※8 『塩物語・いのちを支える塩』(Webサイト)
※9 『塩が持つ「祓い清め」の力のお話し』(Webサイト)