人生という名の「感情電車」に乗って、私たちは見えない銃を撃ちまくる
人生とは、栄光に向かって走る列車に飛び乗るようなものである。THE BLUE HEARTSが『TRAIN-TRAIN』を世に放った時、その曲のメロディと歌詞が与えたインパクトは絶大であった。
今、その歌詞を改めて読みなおし、私はここで、私なりの現代的な解釈を試みたい。
人生とは、川のように流れると、喩えられることがある。時の流れの比喩として、川はまさにそのようなイメージに相応しい。しかし、現代のわれわれは、生まれた時から荒野に放たれて、その荒野を自由に走りまわったり、川の流れのように、目的もなく、気ままに流れていく、ということは許されていない。
ありきたりの言葉だが、私たちが生まれてくる社会には、既にレールというものが敷かれており、その上を走る電車という箱も、走る時刻も、本数も決められているのだ。その電車は、「栄光」、今でいえば「成功」、「勝利」という、誰もが掴めるわけではないのに、まるで誰もが掴めるかのようにセットされた「目的」に向かって走るわけである。
その電車の種類には、新幹線もあれば、特急もあれば、快速もあり、鈍行もある。「目的」めがけて、最短で行こうとする者、鈍行にしか乗れない者、電車に乗ることをあきらめてしまう者。さまざまである。だが、人類はこれまでの歴史の中で、誰一人とて、その「目的」に辿り着いたものはいない、といってよい。
それは、止まることのない無限列車、もしくは山手線のような環状線として、同じところを永遠に周回し続けるものであるにもかかわらず、「目的の王国」という終着駅だけは、いつか辿り着く「ユートピア」として、その電車に乗る者たちの頭上にぶら下げられているのである。
私たちは、そんなよくわからないものとして設定された「目的」に対し、それが虚構でしかないのではないかと知りながらも、その「目的」を欲するようになる。いつか自分だけは報われるだろうというユートピア。「見えない自由」のために、時に他者を蹴落としてでも、他者を傷つけたとしても、なりふりかまわずそうしてしまうのである。
特に現代は、言葉という「見えない銃」を誰もが、その内に隠し持っている。ひとたび誰かが銃弾を放てば、他の者も便乗さえしだすであろう。そうやって同じ電車に乗る者を、電車から振り落としていくのである。少しでも、自分を優勢にするために。
まるで、それら銃を放つ人間の負の感情と、その連鎖によって積上げられたものが、まがまがしい巨大な生き物のようになって、この電車ごと動かしているかのように見えてしまうことがある。
だが、そこで放たれる銃=言葉とは、あなたの本心なのだろうか? あなたの考えで、放たれているものなのだろうか?
現代を生きる私たちの人生を何かに喩えるのであれば、それは自然を走る川よりも、既につくられたものとしてある電車の方が相応しい。いや、それはもはや比喩ですらない、現実そのものであるのかもしれない。そう、電車とは私たちの人生の比喩であると同時に、私たちが生まれてこの方、大前提として受け止めなくてはならない社会そのもの、永遠に運動を止めることのない、資本主義社会というシステムそのものの意でもあるのだ。
会社、学校、たいていの人間は、その電車に乗ることを余儀なくされる。乗客の目的は大体同じだらか、乗り合わせる時刻も極端に重なる。サラリーマンである私のような人間は、この電車に乗ることから逃れられない。
ただし、皆と同じ電車には乗りたくない。そんなマイペースの人間も一定数はいるだろう。だが、その電車が地獄のような満員電車であろうと、天国のようなガラガラの電車であろうと、それはどういったペース(環境)でこの電車に乗るか乗らないかの選択でしかない。電車に乗ることには、変わりはないのである。
無限ループの環状線。私はこれを現代の世間の様相に照らし合わせて「感情線」と置き換えてみる。名付けて<感情電車>である。電車は、さまざまな感情や出来事が通り過ぎていく。われ先に有利なポジションを獲得せんと、鼻息荒くする競争心、他者の身体に触れるだけで高まる嫌悪感といったように、殺伐とした感情が詰め込まれまくった時間もあれば、がらんどうのような誰もいない車両で、ひとり流れゆく景色を見ながら、鼻唄交じりに優雅な気持ちで過ごせる時間もある。
確かに満員電車なんかを経験してしまうと、いい奴など一人もいないと思えてしまうが、かといって悪い奴ばかりでもない。それは、たいていが、どの環境に置かれているか、どのような視点で見られるかによって変容するものである。人は「いい奴」の時もあれば「悪い奴」の時もある。同じ人間を見たとして、その人間を「いい奴」と判断する者もいれば「悪い奴」と判断する者もある。
だけど、本当はみな、この感情電車に乗ることが、どこか胡散臭いものでしかないことがわかっている。頭上にぶら下がった「目的の王国」など、どこにもないんだということを、薄々気付き始めている。気付いているけど、そうしていくほかない、電車に乗ることでしか、生きていけないのだという現実がある。
だからこそ、電車に乗らない休息日こそ、自由な空想だけは楽しませてほしい。自由はどこにもないかもしれないけど、思考する私、想像する私、創造する私、その時ばかりは、感情電車のことを忘れることができる、という意味で、自由になれる時間がある。
しかし、そんな休息も束の間で、私たちはまたいつものように、感情電車に飛び乗ることであろう。電車に乗り遅れてしまっては大変だ。逆行はできない。もう、そこにしがみつくことでしか、私たちの現実はないのだ。
それにしても、この感情電車を仕組んでいる「誰か」がいるとでも言うのだろうか。私たち人間を、その感情電車に乗せることで隷従させ、すでに「目的の王国」にあがってしまった人々、殿上人という存在があるのだろうか。だとしたら、こんな世界を仕組んでいるそいつらを打ちのめせばいいんじゃないか? そうやって、また「見えない銃」で私たちは戦おうとすることであろう。
だが、そんな人間はいない。たとえ電車に乗る必要がないかのように見えるウォール街のジェット族、アラブの石油王、鉄鋼王、メディア王、麻薬王、大統領、皇族なんでもよいが、どれだけ富と地位を支配している人間であれ、「目的の王国」を知るものなどいない。それだけは断言できる。「目的の王国」は、誰も知らないゆえに、そこに向かって突き動かされる欲望に終わりがないのである。富への欲望に天井はない。彼らもまた、電車の中の貴族でしかない。
「目的の王国」の仮構は、誰か特定の人間や、人種や、国家や、秘密組織といった、陰謀論めいた人間たちによってつくり上げられるのではない。確かにそれらがその一端を担い、かつ強大な力を持っていることは事実だが、それよりも、その一部の人間の力を支えてさえいる、もっと強大な母体が存在しているのだ。
その母体とは、私たち人間の欲望そのもの、感情の総体のようなものである。それらが、そのようなシステムを必要とし、みながみなで、そういった「目的の王国」を目指した社会をつくり上げているのである。
そしてそのシステムがひとたび怪物のような巨大なものになると、それは誰もコントールできない、現実そのものといってもよいくらいのものとなるであろう。自然という現実の中に、もう一つの現実ができあがる。「帝国の中の帝国」である。その巨大なシステム=帝国は、その中に生きる私たちの感情を吸い上げる。
そして私たちの感情を支える信仰の対象として、「貨幣」というものが、「神」にとってかわるのだ。
このことは、二十世紀の知の巨人、マルクスに先立ち、わが哲学者スピノザも見抜いていた。
これが資本主義という、私たちの現実である。けど、そんなこと言ったところで、もはやこの感情電車を止めることはできないであろう。感情電車に乗ることをあきらめたとしても、他の電車を走らせようと試みたとしても、この資本主義社会の中で生きることに、変わりはないであろう。この現実の<外>というは、もはや地球上のどこにもない。
だからこそ、しがみつくしかないのである。それがどんなに惨めで、痛みを伴うものであったとしても。
この時私たちは、「目的の王国」という設定された自由、「見えない自由」ではなく、もっと別の「自由」を見つけ出すことになるであろう。その時、私たちが心の内に抱える「見えない銃」は、他者を振り払うための銃=言葉ではなく、少しでも私たちの社会を、私たちの生き方を、よりよくするための言葉にシフトさせていかなければならない。だからこそ、同じフレーズでも、上述したような、人を傷つけるような殺伐とした意味には、もはやならない。
そしてそのような人間が増えれば増えるほど、もしかしたら未来は少しづつ変わっていくのかもしれない。システムを内部から変容させ、世界は、今とは違う姿になるのかもしれない。
欲望という名の感情電車を、悲しみではなく喜びに、競争ではなく和合という名の感情電車に変えて走らせるのだ。
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