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人類と医学のはじまり 『医学の歴史』梶田昭を読む

 若いころは、自分の健康について無関心であった。若さとは、その身体の充実のあまり、この充実はきっと永遠に続くに違いない、病気とは無縁なのだと、大した根拠もなしに過信してしまうものだ。それゆえ、個人的にはあまり「医学」そのものに関心を持つということがなかった。

 ところが年齢を重ねていくにつれ、「病気」あるいは身体の「衰え」とは無縁なばかりか、むしろ永遠に付き合っていかなければならないものだということを否応なく自覚させられる。

 私は40代になって緑内障になってしまった。これは今のところ完治することのできないものであり、できることといえば薬で進行を遅延させるということだけである。私が生きている間に完治できるようになる技術が出てくるかもしれないが、今のところ一生この病気と付き合わなければならない。つまり生涯、病院通いが必要となる。

 加えて私は、日ごろの不摂生がたたり、半月板の損傷、結石、閃輝暗点そして老眼と、病気および身体の衰えというものに立て続けにみまわれ、悩まされている。それによって、自身の健康や病気について、ようやくであるが関心を向けつつある。それでも日常の不摂生を正さないのだから、大病を患わないとわからないのであろう。われながら困ったものである。

 医学の歴史は古い。病気の治療や日常の食事など、生命を養い健康を保つために欠かせないものはすべて源が同じという考えに「医食同源」という言葉があるが、本当は「医・衣食住」が同源だと唱えるのは『医学の歴史』(講談社学術文庫)の著者、梶田昭氏である。

 本書は人類がまだ無文字社会であった頃から、古代、中世、近世、近代、そして現代に至るまでの医学の歩み、かつ西洋のものに偏ることなく古今東西の医学思想を取り扱っている壮大な「医学史」である。ただし、医療技術や臨床といった、専門的、実践的な話でもない。人類がどうやって病気や身体に向き合ってきたのか、その考え方の変遷という意味で、「医学思想史」といってもよいのかもしれない。

 著者は日本の医師、医学史家、東京女子医科大学名誉教授とのことで、晩年の作品のようである。本書を読んでもらえばわかることだが、著者の博識ぶりは圧巻の一言である。その目次だけを見ても、知的好奇心がくすぐられる。本書の目次は以下のとおりである。

第1章 人類と医学のあけぼの
第2章 イオニアの自然哲学とヒポクラテス
第3章 アテナイの輝きとアレクサンドリアの残光
第4章 イエス、ガレノス、そして中世
第5章 インドと中国の古代医学
第6章 シリア人とアラブ人の世界史的役割
第7章 芸術家と医師のルネサンス―中世からの「離陸」
第8章 科学革命の時代
第9章 近代と現代のはざまで
第10章 進歩の世紀の医師と民衆
第11章 西欧医学と日本人
第12章 戦争の世紀、平和の世紀

『医学の歴史』梶田昭(講談社学術文庫)

 興味深いのは、第4章において、イエスを「パレスチナの治療師」として位置付けていることだ。実際に福音書には、イエスがさまざまな病人の治療を行い、重い皮膚病患者を癒し、死者をよみがえらせたなど、多数の奇蹟が記されているのだが、著者はイエスについて次のように記述している。

イエスの事績は『新約聖書』の中の『福音書』で語られている。『福音書』は、イエスの事績を反映する唯一の資料である。そこには、イエスが行ったさまざまな癒しが記述されている。形の上では、イエスの職業は説教者・巡回治療師であった。五百年前のヒポクラテスと同業だったのである。そのころ病気は一般に罪と考えられており、それから逃れる方法は、神殿で祭司の供犠を受けるか、民間の治療師に助けを求めるしかなかった・・・・そういう状況の中へ、治療を商売とせず、しかも罪の観念にとらわれない治療師が登場した。イエスと彼の弟子たちである。

同書より

 それまで、病気というものは罪の観念が伴っていたとあるように、古代において、病気を治すのは宗教や呪術であった。病気は得体の知れない、憑き物のようなものとして考えられていたためであった。これは西洋に限らず、中国、インドでも同じであった。医学を呪術から解放したのは、「遍歴の医者」と呼ばれる異端・遍歴の苦行者であったという。
 
 その象徴がギリシャではヒポクラテスであり、インドではチャラカ、スシュルタ、中国では扁鵲(へんじゃく)なのだという。彼らによってはじめて病気を宗教や呪術から解放して、「自然」を観察することで、科学として病気を捉えるという「知」を獲得したのであった。イエスは、ヒポクラテスの後裔であると著者は位置付けている。
 
 本書のすべてを紹介することはできないので、本記事ではそのさわりである第1章「人類と医学のあけぼの」について触れてみたいと思う。本書の魅力を伝えるのに、この1章を取り扱うだけで十分である。あとは本書を手に取って、実際にその知的スリリングを楽しんでもらいたいからだ。

 本書第1章「人類と医学のあけぼの」で、著者は「医学」をこう定義づけることから始める。

医学は人間の、「慰めと癒し」の技術であり、学問である。

同書より

 著者の視野は広い。サルがそうだが、人間の構造や機能は、人間以前にもすでに存在しているのだとし、医学の芽生えも「人間以前」にあったのだと説く。「医学のもとをたずねると、鳥やサルが互いにやっている毛づくろいにまで、さかのぼることができる」のだという。これが「慰めと癒し」の原型である。

 この「慰め」の技術が進むのは、動物が霊長類になってからである。例えば、チンパンジーは互いに毛づくろいするとき、相手の肉体的欠陥に注意し、小さいはれものや傷を舐めて綺麗にするといった行動がみられるそうだ。目に灰の入ったメスのチンパンジーに対し、オスが両手の指で灰を取り除く行為も観察されている。「毛づくろい」が「医療の兆し」であると、著者はみる。

 人類は、進化するにつれて、病気、怪我、飢えといった危機に対して力を合わせるようになる。ネアンデルタール人が儀式を知っていたことは、墓所の遺跡により確認されているが、儀式は道具作り、火の利用とともに人類の知的発展の重要な証拠である。その協力体制は、人類がすでに「衛生」の概念を持っていたことを示している。「衛生」は、個人の枠を超え、和合することによって社会全体の健康を維持しようとする行為だからである。スコラ哲学者もまた、人間の本質を「社会的動物」と定義している。

 オスラーというカナダ生まれの大医学者は、「看護の起源は医学の起源である」と語る。人類がまだ無文字社会のころ、人間は、小川・里・広場にてこの看護的なものを行っていた。職業としての看護は近代的なものだが、行いとしての看護は「穴居家族の母親が、小川の水で病気の子供の頭を冷やしたり、あるいは戦争で置き去りにされた負傷者のわきに一握りの食べ物を置いた、はるか遠い過去に起源がある(オスラー)」のだという。

 歴史の父といわれるヘロドトスが語るエピソードの中に、バビロニアには医者がいないので、病人が出ると、家に置かず広場へ連れていく、というもものがある。通行人が病人に症状をたずね、知っている病気や経験がある症状だと、その治療法を教えるのだという。

こうして小川の流れる里、広場と街角に、声も文字も残さずに去った、無数の病人やその周りの人物によって、無文字社会の医学史が書き続けられたのである。

同書より

 こうやって、人類の知識、病気を治すためのナレッジが蓄積されていく。霊長類にみられる「毛づくろい」は、やがて整髪や化粧の姿をとり、理髪師の仕事になった。面白いのは、この理髪師の仕事から、しだいに看護師、外科医、医者の仕事が形づくられていくということである。これらの仕事はしばらくは未分化のままだった。

 外科の仕事は長くは理髪師と一つであったのだという。外科が医学の一部になるのは、なんと19世紀になってからなのだそうだ。その名残は、理髪店にみられる。理髪店の店頭にある赤と青と白のねじりん棒の看板。これは赤=動脈、青=静脈、白=包帯のシンボルなのである。

 やがて地球上に「文明」が生まれる。大河の流れが、牧畜と農耕を支え、前5000年ごろには、土器、織物、家屋が作られはじめる。この衣食住によって人間は野生から離れることになる。毛皮をまとうことしか知らなかった旧石器時代から、繊維衣料を使うようになった新石器時代への移行である。こうして、人間の生命維持に必要な要素は、「医・衣食住」となる。

 ただ、古代バビロニアにおいてもそうだったように、医術は予言者やまじない師、占い師を兼務する僧侶の仕事であった(岸本通夫)。原始社会の医師は一人で、医師、僧侶、呪術師を兼ねていたのであり、この複数人格がシャーマン、メディシン・マンなのだという(医学史家シゲリスト)。

 中国においても、古代では「巫」(ミコ、神を招き神仕えする人)と「医」は一つであったのだという。むしろ巫が本業で、医を兼ねていた。このように、それぞれの文明で、医術は、宗教ないし呪術が担っていた。これは錬金術と化学の関係にも似ていて興味深い。古代の人たちは、自分たちの理解を超えていたこと、その原因が当時わかっていなかったことは、すべて神に関係づけるのが普通だった。

 病気という原因不明の脅威に対し、それを癒すことは、今と変わらない悲願である。そのため「治癒神」というものが存在した。そしてその治癒神と人を媒介する呪術師の存在が要求されていたのである。古代中国、インド、エジプト、ギリシャ、それぞれの文明に「治癒神」をもっていたのだという。

 ここから人類が、「自然の光」=科学的認識のもと、医学を見出すことになるのはヒポクラテス以降であるというのは先述した通りだが、著者はここで鋭い問いを投げかけている。
 
 医学(科学)の発達により、治癒神や呪術師は退場したかのようにみえるが、じつは医学はいまだに呪術的、神的な要素が残存しているのだという。

医学の発達によって、数々の治癒神は一見忘れられたようにも見える。しかし、「政治が退場して逃避と頽廃の出番になる」ように、医学が退場する第二の「限界要因」が、今日の状況でもしっかり残存している。それは神仏への祈願のときである。神社、寺院に奉納された無数の「絵馬」は、エピタウロスの碑文と本質において変わりがない。

同書より

 この著者の認識は、驚くべきものである。われわれのような現代人は、科学主義的、合理主義的な考えになじみすぎてしまっている。また、科学主義者や合理主義者は、前近代の人間の考え方や非合理的な考え方と、自分たちの考え方には大きな「断絶」があると考えがちだが、人間の本質的なものは何一つ変わらない、というのが、私がずっと自分の記事にて主張し続けている「スピノザ的」な認識である。

 人間の本性は、理性のみにあるのではない。感情、欲望もまた、排除できない人間の本性なのである。合理的な考え方は、非合理的な考え方を蔑む傾向にあるが、人間は誰しもが非合理的なものに足元をすくわれる。そのひとつが、いつの時代にも変わらない「神頼み」である。

 著者は、医学と呪術は紙一重である、ということを主張する。

 人間の深層には、「常識と呪術を織り交ぜた願望が流れており、それがある条件では「医学」の姿になるが、条件次第では、いつでも俗信・常識に戻り、あるいは呪術・宗教に走るのである」

 物理学では「永久機関」という考え方が不可能であるということはすでに証明されている。永久機関(perpetual motion machine)とは、外部からエネルギーを受け取ることなく、外部に仕事を永久に行い続ける装置のことである。医学においては、それに相当するのが「不老長生」「不老不死」であろう。

 これらはかつての専制君主の望みであった。現代においても、医療に求められるものが「不老長生」であり、それによって、それは不可能だという思いを込めて尊厳死、安楽死などが主張されるが、それらは倫理的な問題がつきまとう。

 だが著者は、医学もまた物理学と同じように、「否定そのもの」が新しい理論を生む可能性があってもよい、と説く。

これに関連して、中国の古典『素問』に重要な指摘がある。それによると、医師は本来、「未病」[いまだ病まざる段階]の友、「生理」の相談役であって、治療師であってはならない。治療師は「賤業」であり、聖人の業に値しない、という。こういう言葉で、医術の本来の役割が説かれているのである。

同書より

 この考え方は、医者は世間から期待されている聖人ではないとすることで、できないものはできないという「不可能性」において、医学本来の役割を位置づけ直すものである。

 だが、いつの世でも、医学に求められているものは常に厳しいものである。

「病気ないし死から逃れようとする本能的な、また至上命令的な人の要請と、科学的な実現能力とのほとんど絶望的な[隔たり]があって、その距離を多くの蹉跌を繰り返しながら、何とかして埋めてゆく過程が医学史ないし医療史であった(川喜田愛郎)」。

 医学は、「絶望的な距離」を埋めてゆくための科学的認識とともに、それらとは次元を異にした、生死にかかわるという「至上命令的」なものを要請される、きわめて苛酷な学である。「医学はたんなる認識を超えた悩みの学、そして癒しの学だったのである。いま「医学」と呼ぶ学問・技術は、「悩み」と「癒し」をどちらを看板にするか、両方の可能性があった(梶田昭)」。

「結局、「癒し」が含む「理想」が勝利して医学medicineが成立し、「悩み」に含まれる「現実」は病理学pathologyが引き受けたのだが、どちらにしても荷が重すぎたようである(梶田昭)」

 著者は「医学」が引き受けたこのような宿命への認識を出発点とする。医学がはらむこの葛藤において、人類はどのような挑戦をしてきたのか、ということで次章より医学史の展開が試みられるのだが、このあたりの問題意識は、話題になった医学小説『スピノザの診療室』とクロスするような気がする。

 それについての詳細を論じることは、今の私にはできないが、この『医学の歴史』という書が、「医学」という学問とその歴史に興味を持つには、十分すぎるものであることは間違いない。


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