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人は模倣する生き物 スピノザの感情の哲学をヒントに

 驚くべきことに、17世紀の哲学者であるスピノザは人間の感情について、今からみても、かなり斬新なテーゼを提出していた。

 人は感情において、他者を「模倣する」ということが、それである。

われわれは、われわれに似ているものがあると、それにたいしていかなる感情ももたないのに、それがある感情に動かされるのを想像される場合、ただそれだけで、それと似た感情に動かされる。 

『エチカ』第三部定理二十七

 何だよ、そんなこと日常でありふれているじゃないかと思うかもしれない。われわれはしばし日常生活でのコミュニケーションや、映画やドラマ、ドキュメンタリーなどを見るさいに、自分に「似ているもの」(人でも動物でも)があると、その人に対して本来的には何の感情もないはずなのに、心を動かされている。同郷のものにはすぐに親近感を抱き、気を許してしまうという感情もそうだろう。

 だが、このあまりにもありふれた、われわれの感情作用に、スピノザは人間的(生物的)本質を見てとるのである。

 現代においては、SNS上の、自己承認欲求、他者の賛同としての「いいね!」、あるいは総攻撃的な誹謗中傷、拒絶反応、いわゆる炎上という現象や、コロナ渦において明るみになった同調圧力などについてが、取り沙汰される。

 これらは、今となってはわれわれの日常でよく見る光景ではあるが、この光景の中に、多分に人間の本質的問題が潜んでいると思われる。

 そのことを、テクノロジーの変化、環境の変化、時代の変化と説明することもできるだろうが、それらは様相の変化なだけであり、人は本質的な部分においては、古来より大きく変わっていないと見るべきであろう。

 だからこそ、スピノザの「感情論」は、今日においてもなお有効であり、ひじょうに大きな意味を持っている。それは単に論理的なというばかりでなく、きわめて実践的であるということは、昨今みられる、哲学以外の領域、たとえば心理学、精神分析、免疫学、体育学などにおける研究者が、こぞってスピノザに反応するというような状況にも現れている。

 直近でいくと、精神科医の川谷大治氏が、以下のような著作を出している。

 著者は、これまでスピノザを読んでこなかったのだが、國分功一郎氏をきっかけに、スピノザの『エチカ』に触れ、衝撃を覚えたのだという。そして、なぜこれまでスピノザを読んでこなかったのか後悔している、だが同時に老後の楽しみができた、と素直な意見を口にしている。

 そしてスピノザの考えが、いかに精神療法においても実践的なヒントを与えてくれるものかを述べている。

私は一九九〇年頃からボーダーライン患者の精神科治療に「矛盾を抱える」工夫を取り入れてやってきた。しかし『エチカ』を読んで、もっと重要なことに気づいた。彼らの感情の激しさを精神療法の対象にしてこなかったのである。感情を理性でコントロールするとか我慢するのは至難の業である。ことにボーダーライン患者の感情は巨大である・・・恥ずかしいかな、私は安易に、薬物治療に頼ってきたのである。『エチカ』を読むたびに、当たり前と言われれば当たり前のことなのだが、受動感情に隷従している患者を救う手立てが満載していることに勇気づけられる・・・・・・『エチカ』を読むたびに、スピノザが今の世に生きていたら、精神分析をやっていただろうと夢想し、臨床で体験した心の問題をスピノザが鮮やかに解釈するたびにどんどんはまっていった。

『スピノザの精神分析──『エチカ』からみたボーダーラインの精神療法』より

 
 スピノザの感情論が、どれだけのものであるか、精神科医からみても驚きに値するということだ。しばしスピノザのこの感情論は、フロイトの精神分析を先取りしていたとも言われ、昨今ではスピノザとフロイトの研究が注目され始めている。フロイト自身も、スピノザからの影響を口にしていたように、スピノザの感情論は、今なお「生きた」哲学なのである。

 それまでの哲学において、感情というものは克服すべきものとして蔑視されていた。高貴なる理性よりも下位のものとして見なされていたのだ。しかし、スピノザはこれを覆す。なんなら、人間は理性的な生き物どころか、感情によって動かされる生き物なのだと喝破する。

 スピノザは感情を三つの基本的なものとして定義する。

 すなわち、「喜び」「悲しみ」「欲望」である。

 そして、驚き、軽蔑、愛、憎しみ、好感、反発、希望、恐怖、憐憫、後悔、高慢、名誉、恥辱・・など、48種類の感情を分析、分類するのだが、これらは基本的には、上記三つの基本感情の変形、組み合わせによるバリエーションなのだという。

 これらの感情の機能を支えているのが、自己を維持しようという「コナトゥス」であり、「活動力能」とよばれる概念である。

 スピノザにおいては、身体と精神は、同じものである。どちらか一方がどちらかを規定し、コントロールしているという考えは二元論で、デカルト以降そちらの方がメインストリームであったのだが、スピノザは身体と精神はそれぞれが独立しているものではなく、同一のものでありながら、「現われ方」が異なるという考え方で、その「現われ方」は同時並行的なものであるという。

 いわゆる「身心並行論」と呼ばれるものだが、これは実生活、実体験においても、リアリティを持つ。

 身体が快活な時ほど感情は豊かであろうし、反対に身体が大きなケガや病気、あるいは目に見えないプレッシャーでもよい、外的な要因により圧力を受けている時、喜びは減少し、悲しみの感情が支配的になるであろう。

 この喜び、悲しみは、自己の身体を維持しようという「コナトゥス」や「活動力能」といった身体作用にかかわるものゆえ、意志や精神で克服できるものでもないのだ。落ち込んでいる時に考え事をしてもループにはまってしまうだけ、むしろ、散歩をしたり運動をすることで解決するということがよくあるように。

 詳しくは、スピノザ研究者である、立花達也氏の論文『われらに似たるものと自己の観念』から引用しよう。

感情[affectus]は変状[affectio]のサブジャンルである。身体ないし精神に生じる変状が活動力能を増大ないし減少させるときには、この変状が感情と呼ばれる 。たとえば、たんに肌を強く押されて跡が付くといったことではなく、活動を抑制するような痛みを伴う傷をつけられるとか、逆に食べ物が消化されて身体状態が修復されたり成長したりするというような事態を想定しておこう。感情とはまさにこの身体の傷や修復であり、かつそれとパラレルに精神に与えられている観念なのである(E3Def3)。そして、喜びとは精神がより大なる活動力能へと推移する受動であり、悲しみとは精神がより小なる活動力能へと推移する受動である(E3P11S)。たとえば、傷による痛みはまさに身体の活動力能を減少させ、それゆえ悲しみとともに現れるだろう。健康な食事はまさに身体の活動力能を増大させ、それゆえ喜びとともに現れるだろう。
※強調引用者

論文「われらに似たるものと自己の観念 : スピノザの感情論を自己認識の理論として読む
(立花達也)より

 このようにスピノザは、感情を「身体/精神」の変状から派生するものであると考える。この基本的な感情が人間にはあったうえで、「模倣」とはいかなるものであるか。スピノザはこの根拠を、われわれの根源的な経験に求める。

子どもたちの身体は、たえずいわばやっと均衡を保っているようなものだから、だれかほかの者が笑ったり、あるいは泣いたりするのを見ているだけで、彼らもまた笑い、あるいは泣き出すのをわれわれは経験している。なおそのうえに彼らは、他の者がやっているのを見て、なんでもただちに模倣しようとする。結局他の人たちが楽しんでいることを想像して、そのように自分もなりたいと欲求する。

『エチカ』第三部定理三十二

 
 立花氏は、スピノザの論拠は、脳神経科学とも一致していると指摘する。

これは、神経科学でミラーニューロンシステムについて言われていることにとても似ている。霊長類などの脳のとある神経細胞は、自分が活動するときと、他の個体が活動するのを見るときで同じように発火するのだという。もちろん、スピノザが脳神経について知っていたわけではないが、他者と自己とが区別しえない仕方で触発を受けるという点では無視できない一致がある。また、発達心理学では幼児が自他の未識別状態から出発して、いかにして一つの主体として確立されるようになるのかも研究されているという。

論文「われらに似たるものと自己の観念 : スピノザの感情論を自己認識の理論として読む」(立花達也)より

 
 最後の文章にもあるように、幼児が自己を形成するプロセスにおいても、感情の「模倣」を通して行われるのではないかということを、著者は射程に入れている。

 われわれは、「自己」というものは、揺らぎのないもののように考えがちだが、はたしてそれは自明のことだろうかと著者は問う。

「ある精神が自分自身を自己として認識するようになるのかはスピノザの認識論の枠組みでもけっして自明ではなく、自己認識の成立は感情の模倣を通じてなされる」のだと、著者は自己の形成においても感情の模倣の関わりがあることを指摘する。

 確かにわれわれの自己形成には、両親、家族、学校の先生、友人、同級生、先輩・後輩、尊敬する人物、あるいはテレビタレントなど、身近な存在が大いに関わり、そのような他者への模倣、あるいは反発ということにおいて、他者との差異化によって自己を見出していくものであろう、ということは、経験的な振り返りからでも見出せそうだ。

 このスピノザの感情論は、ここでは容易に述べられないくらい複雑なものなのだが、「人は模倣する生き物である」。このことをスピノザが、近代に移行する前の時代においてすでに指し示していたという事実を伝えられるだけで満足としよう。

 そしてさらに、この感情の模倣がどうして、他者と他者でつながる国家=社会を形成できるのか、というところにも、本来は踏み込まねばならないであろう。
 
 国家のようなしっかりしたものを作るには、人間の知性、理性が不可欠なはずである。もちろん、スピノザは人間の理性は排除していない。理性もまた、感情同様に「身体/精神」の人間の知性、機能であるならば、理性も模倣され、互いによりよい社会を作っていこうということも十分ありえるのである。

 しかしスピノザは、この理性だけに頼った国家=社会ということは考えない。ここについては、別の記事にもしているので、そちらも参照頂きたい。

 最後に、感情の模倣について、スピノザが詳細に述べている部分のいくつかを引用しよう。

もしある人が、われわれの愛するものに喜びを与えていると想像するならば、われわれはその人を愛するように動かされるであろう。これに反して、その同じ人がわれわれの愛するものを悲しみに動揺させているものを想像するならば、同じ人を反対にまた憎むように動かされるであろう。(第三部定理二十二)

感情のこのような模倣が、悲しみの一つと見なされるとき、あわれみと呼ばれる。ところが、それが欲望に関係する場合、競争心と呼ばれる。それゆえ競争心とは、あるものへの欲望であるが、これはわれわれに似た他のものが同じ欲望をもっていると想像することから、われわれに生ずる欲望にほかならない。(第三部定理二十七備考)

人々が喜んで見てくれると想像されるあらゆることを、われわれもみずからなそうと努力するであろう。また反対に、人々が背を向けると想像されるあらゆることを、みずからなすことを拒否するであろう。(第三部定理二十九)

自分の愛するものあるいは憎むものを、だれもが承認してくれるように欲するこの努力は、じつは野心である。このことから、だれにも他人を自分自身の気持ちどおりに生活させようとする気質があるのを知る。だから、すべてのものがそろって同じようにこのことを欲求することが、たがいに同じように妨害となる。まただれもがだれからも称賛されたい、愛されたいと願うことが、たがいの憎しみあいを生む。(第三部定例三十備考)

※強調引用者

『エチカ』第三部より

 このあたりの分析は、現代社会、とりわけSNS社会の分析ですか? と思わず唸ってしまうくらいにシャープである。

 現代のわれわれは、SNSを手にしたことにより、あらゆる他者と「想像上」につながることが可能となった。SNSは情報、発言、言論の民主化をおしすすめるものとして期待されたが、実態は、國分功一郎氏や千葉雅也氏が嘆くように、本来隔離されるべきものだった「心の闇」のダダ洩れ状態である(『言語が消滅する前に』)。

 感情というものが、他者を想像することにおいての、欲望、喜び、悲しみの模倣であるならば、SNS上で見られる事態は、まさにこのような感情の模倣と反発、対立のオンパレードであろう。

 SNSという特殊なテクノロジーが、われわれ人間を変容させているのではない。SNSという「想像上のつながり」の具現化が、本来人間が持っていた本質的なものを、より明るみにしてしまっている、という方が正しいように思える。


<参考文献>
・『エティカ』スピノザ/工藤喜作・斎藤博訳(中公クラシック)
・『スピノザの精神分析──『エチカ』からみたボーダーラインの精神療法』/川谷大治(遠見書房)
・論文「われらに似たるものと自己の観念 : スピノザの感情論を自己認識の理論として読む」/立花達也

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