すぐ諦める子は自己肯定感が低いのではないと思う。
逆ではないか?
周りで自己肯定感低すぎるよねって愚痴っている教員を見てそう思うわけです。(すごくダメな学年団です。担任個々は悪くないと思うのだけれども、なぜか団になると愚痴しか出ない集まりというのは存在するわけです。責めてなくても責められていると感じる人たちです。これは非常にめんどくいさくて学校組織としては非常に困りものなのではないかと思います。子どもの良さと自分たちの良さとを取り違えます。この人たちはとにかく対話の中で「取り違える」ことを多くしているように感じるんです。)自己肯定感が高すぎて自分が大事すぎるから「やらない」ことが「できない」ことに勝ってしまう。そういう子はどこのクラスにもいるんで担任が悪いわけではないと思う。それは個性であり、性格の問題なのではないのかなということ。であればそれは固有のカラーであり、教育の対象ではないような気がするんです。
そうしたことは自己肯定感が低いのではなく、高すぎるからこその話ではないか?というだけのことです。端的に言って。そもそも自己肯定感というのは何を何のために何に対してどのように伝えたい言語なのか?よくわからないということはこれまでも言い続けてきました。
それを論じる前に自己肯定感が感覚であることを押さえておかなかければなりません。それは尺度としてふさわしいのかということです。自尊感情があるか?ないか?という二択であれば答えはあるでも良いでしょうし、ないでも良いのでしょう。それをいうことに何の意味があるのかはよりわかりませんけれど。
しかしニーチェが言うように絶対的な価値を求めること自体に意味がないという議論はこの問題の核心的な話として一つの指針を示してしまっているように思います。それは人間が生きていく上で必要なことというのは自己の中に押し込まれているものであって他人がどうこうすることではないということです。ましてそんなものが他人からの努力によって可視化できようはずもありません。ましてその対象が子どもである場合はどういう状態なのかを本人はうまく言語化することもできませんし、ましてそもそもそれは変更を目指しているのかどうかすら判定が不可能なことの方が多いはずだからです。
もちろんたとえ感知できたとして、その上で言語化することが奇跡的にできたとしても、それが正確であるかを判定する術があろうはずがありません。
それは精神医学の範疇で枠組みを決めて正しいに違いないと言い張っているだけです。それを精神医学の世界だけでやる分にはお好きにどうぞという感じなのですが、(さらに治療行為として寛解というものが目に見えて存在するならそれに外野が口を挟む余地は全くないと思いますが実際はそうはなっていない。)それが教育の監視下にいる子どもである場合は話は別になります。
こうしたことが学問の領分争いでつながるのは流石にまずいと思いますけれど、問題はこうしたことを曰う精神医学の人間は教育学の素養が著しく低いということです。
おそらくはちょっと書籍を読んでみてこれなら口先三寸でなんとかなると思われたんだろうと思います。確かに教育関係の書き物にはそうしたつまらないもので溢れかえっていることは認めます。出会ったとしても理系特有の文系を下に見るという学者肌を学校現場に平気で持ち込むのはいかがなものだろう?
もちろん学校側が外部に対して敬意を払わないという組織文化を持っていることに対するカウンターであることも理解できるのですが、それを割り引いてもエビデンスのないことを、しかも理解の乏しい場で開陳することに後ろめたさはないのか?と思ってしまいます。
それが学校現場における心理職の正体だろうということです。何の役にも立ってないということです。自己肯定感という言葉がスクールカウンセリングの結果として、教育実践の結果として、そして(私は口にしたことはないけれど)懇談の内容として、有効に作用したことはこれまでに一度もないと思います。幽霊の正体が何かと言っているようなもんです。それなら科学的にアプローチすることは可能ですが、これは無理です。
似たような話として・・・。
実際に我が子の懇談で学校の教員に愛着障害があるかのように言われたときはマジでぶん殴ってやろうかと思いました。お前に何がわかるんだ?あんな〇〇みたいな授業してるくせに・・・それ以来です。わかりようもないことは口にしないようにしようと肝に銘じたのは。
それともう一つ、内容が奇跡的に理解できたとして自尊肯定感は原因なのか?結果なのか?ということです。これはとても重要なのではないかと思います。先ほどは取り違えられる原因として書いてみましたけれど、そもそも原因であるか結果であるかすらも定かにして論じ始めているモノを読んだことがありません。高ければ良い、低ければ悪いと規定するならそれは結果であり、それをサイクルにするならば教育の対象になりうるとは思います。しかし自己肯定感が上がってきたことで課題が解決してきたかのように語る話を聞いても、それが定型発達との関連の中で、そして定型発達とは分けた段階で、どういう変化があったかを言語化できていないからです。アンケート結果だけでそれを証明したかのように語るのはそれこそ騙りだということです。科学的な根拠のない思い込みもしくは決めつけだからです。
そういうことからそもそも原因にも結果にもなれない存在ではない「感」なのだろうということです。幸福感が増えたところで幸福にはならないし、満腹感が覚えたところで目にも見えないし、万人向けの物差しにはならないからです。
最後は恐れのない組織との関連性ということがあります。シチュエーションとして自己肯定感が問題になる場面というのは必ず集団との関わりで発現すると感じているからです。それは自己肯定感について書いているといつも心理的安全性の話と重なってくる錯覚に襲われることとつながっています。
おそらくであるがこの2つのことはほぼ同じことを別角度で述べているだけにすぎないような気がするのです。というのもこの二つは集団と個人という観点で対置されているものの両立することがないと感じることがとても多いからです。
つまり恐れのない組織の成立において必要なのは、無駄に自己肯定感の高い人間ではなく、自己を生かすことのできる主体的な能力を兼ね備えた人間ということではないかということです。それは自己肯定感と心理的安全性が同じロジックのもとに組み立てられている概念であるが故の食い合わせの悪さもしくは同じものを重ねる現象としての具合の悪さを持ち合わせているのではないかと思うわけです。
であるなら自己肯定感というのは何も語ってないということで良いのはないかと思います。それが自己有用感であっても自尊感情であっても自尊心であっても同じことです。心理的安全性も同様です。何かを指摘しているように見えて何も語っていない。実際の世界においては何もさし示していないことになるということです。
これははっきりさせておかねばならないことなのかもしれません。話してはダメということではなく、イデアのように概念の話であって実際にあるとかないとか口にするような実践の話ではないということです。
自我とかアイデンティティというものはあっても良いけれど自尊とか自己有用とかいうふわっとした概念を持ち出して語っているかのように、理解したかのように振る舞うことは現場においてはよろしくないと思うということで良いのはないか?
とにかく対話に向かない言葉であるとは認定して良いのではないかと思います。合意の取れない言葉だということです。