思考の原理

マネタイズを求めず、タイパを考えず、流動的な立場での思考を言語化して対話に繋げるを目指した『子どもにまつわるエトセトラ』

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最近の記事

アンコンシャス・バイアス?より当たり前の教育の方に価値を。

 ICTにしても、STEAM教育にしても、金融教育にしても。それは「特設道徳」にしても、SDGsにしても、LGBTQにしたってそうです。なんだか知らない間に教育の中に侵食してきたsomething new。出前授業でも、社会人先生でも、実業でも、なんでも良いのだけれども脇役は脇役らしくしておけば良いのではないか?  こうした消えていくこと確定のことに目を向けること自体がどうなんだろう?イチロー選手や大谷選手など教育に導入してフワちゃんのようになってしまったらどうするつもりなの

    • 教員の業務過多は世界共通。しかし・・・

       結婚するかどうかは個人的な事情なのでさておき。  こうしたことでいきなりの死を迎えることに関しては、それがどんな人であれ無念だと思う。若い人がそうなることには特に強くそう感じる。50過ぎるといつ死を迎えても仕方がないと思うようにしているので、それが突然の死であってもそれは受け入れるしかない。多分喚き散らして醜態を晒すことになるは間違いないのだが。  だからと言って、業務過多を減らしましょうということにはしません。  私が捉えたい課題はここ。  現場がこうなってしまうの

      • 主体性には結果論が含まれる というか結果論が全てではないか?

         主体的というのは態度なのであろうか?これは子どもが主体的な授業を作るときに考えたことである。  学校の評価項目の中には意欲・関心・態度という項目が以前にあった。これがよくわかりにくいということで、主体的に学習に取り組み態度という評価項目に変わったのである。これはわかるようなわからん話である。  やる気があるかどうかなんて誰にもわからない。本人にもわからないかもしれない(場合もあると思います)。ましてそれが結果につながるような推進力を生み出すかどうかなどということは前もって

        • 学校代わりの仮想空間やオンラインゲームに何の意味があるのだろう?

           子どもの居場所が不要だとは思わない。多様性も良いだろう。しかし管理もできないのに居場所を用意することには違和感しかわかない。予算の見込みもないのに偉そうな綺麗事ばかりいうのはいかがなものだろうか?  いつも思うことの一つに規律に対するカウンターというのはどこまでの射程を考えているのかということ。それが簡単に言えば不登校という一つの事象に対して何を用意するのか?ということなんだと思う。  そこでこないだ聞いてなるほどと思った事例。 運動会で優先観覧席を設けている学校がある

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        • 教育問題へのコミット
          6本
        • 特別支援教育
          9本

        記事

          主体性をどうのこうのいう前に。

           目の前でだいぶ仕上がってきた学習集団を見ていて思ったこと。断っておくがそんなスゴいもんができているわけではない。  ただ学習しましょうといえば学習できるだけの準備の整うだけである。そして学び始められるだけ、ただそれだけ。  しかしそれを作り上げるのに、小さな工夫は散りばめてあるけれど、半年近く掛かるのである。うーんこれを解体するのはもったいない、そう思うのだけれども、私が受け持たなければたとえ全く同じメンバーであったとしてもその力は発揮できるとも限らない。次の担任さん次第で

          主体性をどうのこうのいう前に。

          苫野一徳さんの教育哲学

           苫野さんは熊本大学准教授。  早稲田生まれ早稲田育ち(?)の教育哲学者で竹田青嗣さん門下といって良いかと思います。「子どもの頃から哲学者」という書籍を気持ち悪さを感じながら読んでいました。ちょっとヘンなヒトであることは間違いありません。変わっているというか、フツーもヒトはそう考えないだろうということを考えています。生まれたときからこうだったということは斜に構えるということでもなく、単純にヘンだったということになります。なぜかアカデミズムにはこうした変な人間を歓迎して真面目で

          苫野一徳さんの教育哲学

          教育に個別化を求める人たちのコスト感覚はどうなっているのだろうか?

           教育は個別化して個々の興味に対応するべきだ、無理やり登校させることは良くない、多様性を認めて自由であるべきだ、などなど昨今の教育にまつわる言説はさまざまあると思います。これらを見渡していて思うことがあります。それは公教育の枠組みの中でそんなになんでもできるのかということです。  今日はそれをコストの面から見てみようと思いました。  以前noteを書いていて思い出したエピソードに大阪府知事横山ノックさんを府立高校生が表敬訪問した話があります。うろ覚えな方が臨場感が増すかと

          教育に個別化を求める人たちのコスト感覚はどうなっているのだろうか?

          閑話休題 兵庫県民の選択 兵庫県民たる内田センセーはどう思うのか?

           斉藤知事が再選しました。そのYahoo!ニュースを見ながら書いています。  しかもゼロ打ちです。圧勝なのでしょう。  知らない間柄ではないので一応おめでとう、お疲れ様と言っておきます。  それはさておき失職して再選する、出直し選挙・当選という手法を繰り返す兵庫県とか大阪府、大阪市とかは一体何がしたいのかということです。    一つにはよく言えば関西人(と一括りにして良いのかどうかはわかりません、京都とか兵庫をあんまり知らないので。和(歌山県)人は大阪人とは別物です。お荷物

          閑話休題 兵庫県民の選択 兵庫県民たる内田センセーはどう思うのか?

          小学校の英語学習導入が子どもを不幸にする

           例によっていささか煽ったタイトルだけど先に断っておきます。別に英語が悪いわけではない。順序の問題として最後に入ってきたからそうなっているわけで別にプログラミング教育でも良かったんです。ICTはかなり昔から情報教育として学校教育に入り込んでいたので英語がターゲットになってしまっただけの話です。  しかも日本にいては英語の出番は相当少ない。職業的に英語に触れる機会が少ないにしても英語を使用する機会は私は年に5日もない。総時間数でも10時間にも満たないと思います。そして今はスマー

          小学校の英語学習導入が子どもを不幸にする

          大阪府教育委員会 行政に必要なマネジメント

           この教育長はどうなんでしょう?面白がるような経歴だけでヒトを採用してはいけないという見本だと思います。政治が教育に口を出してはいけない典型みたいなもの。  こうした人間に共通するのは目立たないことには徹底的に目を向けない。愚直は損だというモノの見方です。見栄えしか考えていない。  それが魅せ方という発想。  アピールすることは信頼を獲得するために必要なことなのだけれども、そもそも教育委員会制度が信頼される必要はない。少なくとも現場より教育委員会がより信頼させるということは

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          無駄の研究 見栄えを越える失敗体験

           運動会や発表会など発表の場というのは何を見るべきか?  経験の浅い頃はとにかく見栄えを最低限のラインに無理矢理整えようとしていた。  しかし最近は失敗した方が良くないかな?そう思うようになった。出来のいい子どもにさせるのではなく、自信がなくできそうもない子どもにその役割を託す方を選択することが極端に多くなった。  失敗を恐れないメンタリティというのはそう持てるものではない。それは偉いとか偉くないとか歳をとったとか権限があるとかそういう話だけではないのかもしれない。(権限

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          崩壊する日本の公教育 という認識について

           先に断っておけば、私もこういう認識をして表現としてこう言うときはある。だけれども、文章というのは同じ内容を語っても真意と論理構成が全く違うということはこうしたときにふと感じることである。  だからパクった、パクられたという話にはあまり興味がない。きちんと読めばどちらが深く論理的であるかがわかる(はずだ)からである。私はたとえパクった方の文章でもそちらの方が伝わるように出来上がっていればそちらの方が文章としては良いと考えるタイプです。もちろん道徳的、学問的には非常に問題がある

          崩壊する日本の公教育 という認識について

          無駄の研究 走る子ども

           子どもは走る。低年齢ほど走る。小学校の廊下はさながらF1サーキットである。ぶつかること間違いなしの方向にハンドルを切ってきちんとギリギリ交わしていく。すごく不思議なのは、子どもって左右を見たとき広く空いている側より、狭い方を選び、そして一度選んだらそこがたとえふさがろうともそこ目指す初志貫徹型がとても多いことです。ここでぶつかるのはいわゆる勘の鈍い人間だ。昨今は集団で確実に危険視されている人間もぶつからないことが多い。その子を見た瞬間にみんなが避けていくからである。さながら

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          自立を支援すること 通級指導教室という罠

           軽度のしょうがい児を対象として、通常学級にいながら特定の教室に通うというのが通級指導教室の非常に簡便な説明だと思います。  もちろん制度的には通常学級に所属するかしないかとか知的にしょうがいがあるかなどさまざまな違いが特別支援学級との間で存在することは承知しています。しかしながら全国的にみて一律にそうした制度間にはっきりとした目標の違いがある取り組みがなされていないのではないかと私はみています。  これまでもそうした教育については何度が述べてきましたが、私は基本的に特別支

          自立を支援すること 通級指導教室という罠

          いい学校に入り、いい会社に就職してほしいっていつの時代の話をしているのか?

           この方のルポはまだ読んでいないし、たぶん読むこともないのだろうけれど、こうしたある一面や一部分をさもすべてであるかのように語るのはいかがなものだろう?そう怒っているわけでもなく、純粋に呆れてます。  公立小学校がどういう進化(良いか悪いかを別にして)をしているかがまるでわかってない。子どもを取り巻く状況がどれだけ変わっているかわかってない。  子どもが変わったのか?環境が変わったのか?見え方が変わったのか?それはさておき(精緻に分析すること自体が無駄だと思っている。それは結

          いい学校に入り、いい会社に就職してほしいっていつの時代の話をしているのか?

          閑話休題 「パーフェクトな意思決定-決める瞬間の思考法」ダイアモンド社チラ読了 教育現場の視点からの感想

           別に批判する気もありませんが、なんか釈然としません。それは識学(著者の会社)の決算がコンサル会社としては好調と言い難いからなのでしょうか?前期赤字でしたし。累計160万部売れてもそれは印税収入なので・・・上場企業としてはどうなんだろうということです。  さて内容ですが、意思決定に正解がないということは理解できます。これは教育に正解はないということ、野球に正解がないということと同じことをリピートしたことになります。でもこのリピートが重要なのかもしれません。というかいつまで経

          閑話休題 「パーフェクトな意思決定-決める瞬間の思考法」ダイアモンド社チラ読了 教育現場の視点からの感想