スプレッドシート共有というチェック法

 過日、語っていた中で登場した加賀市の教育改革である。
 これも文部官僚による教育改革像である。鎌倉市が同じような改革に乗り出しているし、戸田市なども同じようなもんだと思っている。そんな言葉が合うのかどうか疑問だがミドル紫外線放出型とでもいうべきか?
 トップダウンやボトムアップとは一味ちがったミドルポジションが出した目新しさという紫外線に群がる虫たちがさもいいことをやっているかのように振る舞うスタイルということなんだろうと思う。口が悪いことは自覚しておりますが言い得て妙だなぁ。
 もちろん日本の教育現場はこうしたやり方ですらなかなか実現不可能な環境にあるので、それはそれで見るべきところがあるのだろう。しかし結局こうした取り組みの手法は人口20万以下の小規模都市の出来の悪いPR事業にすぎないと思う。このままでは産業もない小都市は先行きがないが、教育に力を入れれば再生可能性があるという物語である。こうした物語は米百俵に例を取るまでもなく、日本文化の根底にある教育の美しい物語である。しかし残念ながらこうした文化は日本が教育の成果によって金持ちになればなるほど勢いよく失われていった物語である。それは体罰を敵視し、子どもの権利条約に傾倒していった時期とピッタリ重なっていると感じている。ヨットスクールのおじいさんと違って今でも体罰をするべきだとは考えていないし、20年以上教員をやって一度もそれに近い行為すらしたことがないけれど、叱られる経験と自分を極限まで追い込む経験を知らぬ人間の人間的な弱さについては身に染みるほど感じている。

 頑張ったことのない人間は踏ん張れないということと、踏ん張らせてくれる他者への感謝の感情はやはり比例する感情なのではないのかということ。そうした人間を大量に生産すれば、そうした唯一の機関である学校への感謝と尊重はなくなってしまうのだろう。
 サマーウォーズのおばあちゃん、栄が励まし励まされるのは、彼女に厳しさがあったからである。それを恨みに思っている相手であっても励ますことができるのはそこにきちんとした責任感が厳しさとして伴っていたことがあったことで存在する関係になりうるということである。残念ながら日本の学校は関係としてのそうした厳しさを失ってしまっている。これは現場で非常に強く痛感する感覚である。いい悪いは別にして。それには多分メリットがあり、デメリットがあるのだろうけれど。

 残念ながらこうした田舎の小都市、加賀市に至っては人口6万、がそうした取り組みをしたところで市の産業構造と人口動態をコントロールすることはできないと思う。
 その物語の描き方は教育の動機としては不純だと感じます。しかも結果論でしかない教育にとっては尚更です。教育は未来の「人」をつくるものであって未来の「特定の街」をつくるものではないということです。少なくとも加賀で教育を受けた人間が加賀に住み続けなければならないということはない。しかも教育がうまくいったのなら大都市や外国でその力を発揮する物語の方が自然です。政策の方向性として矛盾していると思います。

 まあそれは良いとして、ここで私が着目したのはスプレッドシート共有というチェック方法です。もちろん加賀ではこれを中心的に据えているわけではないでしょうから、これは加賀に限った話ではないと断っておきます。
 これはICTを用いた教育でよく使われる手法です。
 ICTにおいて共有するというのは非常に重要な実践上の視点です。
 即時に同時に思考を共有するというのは一人一台が最もダイレクトで効率的です。黒板でもできますが、その場合どうしても個人と黒板との距離が邪魔をしかねません。もちろんこれはそうでない手法も存在するはずですが、誰にでも(教師にも子どもにも)できるという視点で考えれば効率的です。この共有が授業の中で学習を支配していくことができれば授業にイノベーションが起こるというのは私も考えるところです。イメージとしてはそうです。

 しかしこのスプレッドシートによる目標や学習内容の共有がそれと重なるかというとそうはならないんです。いつでも捻くれているのが私の特徴です。このタイプの授業はICTの先進校と言われる学校では割とスタンダードのようでおそらく進学率を上げている中学校や高校でもやられている方法だと思います。(ということはこれは受験学力と直結すると言っても過言ではない。それは実は逆に非常にまずいことになりかねない。一人一台や主体性は受験学力を否定しVUCAの時代に対応することを盛大に謳っているからです。)
 「主体性」を「学習効果」にかなり直線的に直結させる(こんな日本語がないけれど)ためにはこのやり方がわかりやすくて良いのだろうとは思う。しかしこれは低レベルな教職員研修で行われているなんでもオンデマンドと非常に重なる部分が大きいからです。伝達も講話も対話も協働も、なんもかんも味噌も糞も一緒にした「しこう」(思考は志向であり、指向でもあり嗜好でもある至高という私の考え)の足りない手法です。目的があるようで目的がない。それで主体性というのなら遊びとの違いは学習活動の有無だけになってしまう。それは今風のエンジョイベースボールなのかもしれないけれども、それではレジリエンスも社会性も困難への対応もあったもんではない。

 これはまさに受験には勝てるけど、社会には勝てない人間を作る工場の発想ではないかと思うわけです。

 口ではVUCAと宣いながら、日本社会を作ってほしいと言いながらそうした発想にはなっていない。元来、そうしたことが公立初等学校の役割と重ならないのなら一人一台や主体性の発想自体を引っ込めることが政策的に必要ですが、今の日本の教育行政はカネをかけているのだから使え!という発想です。今の日本中の教育委員会の指導主事はこの台詞を吐かざるを得ない。そうしないと議会に申しわけが立たないからです。カネと子どもの教育とどっちが大事なのか?聞くまでもないことです。私から言わせればこうした実践は遣ってしまったカネのために子どもの教育を犠牲にする行為ですが、こうした人間たちは認識の違いとやり方次第でなんとかなるはずだという責任回避の常套句を吐くに決まっています。

 それましたが、スプレッドシート共有によるチェック法というのはおそらくビジネスの世界の共同作業の手法からお借りしてきているものと思われます。これを自由進度や自己調整という学習スタイルにおいて自由や自己が暴走しないように学習に押し留めて、方向修正する役割を果たすものだと理解して差し支えないと思います。それならば正しいように思えるかもしれませんが、こうした授業を見ていて、やっていてやはり違和感が強くならざるを得ません。
 今日は簡潔に。理由は2点。これが子どもという存在に対してきちんと機能するのかという素朴な疑問。そして口では自由にやれと言いながら自由はないこのやり方が学びの自由や広がりと直結すると言えるのか?もう少し言えばこのやり方はこれまで行われた一斉授業の教育効果や実践哲学、一般性を凌駕できるのかという少し深い疑問です。

 スプレッドシート共有のチェック法の授業は見たことはあるけれど、やったことはありません。しかしこの授業の感覚はこれまでやってきた班活動の新聞作りや調べ学習における班長の声掛けとあまり変わりません。めあてを示せばそれに沿って学習をしてくれる学習集団にしておけば割ときちんと機能してくれます。そこでの最高の教育の材料は失敗です。普通の教育実践でも間違った答えを使って学習を進めることがよくあります。算数の教科書やドリルにはそうした問題もあるくらいスタンダードです。しかしこのスプレッドシートには間違いを使うことができない。間違いを見つけることができない。というびっくりするくらい初歩的な弱点があるんですね。使い方が違うというご指摘があるかもしれませんが、どう転んでもこの問題には行き着くはずです。それが1点目のこれが子ども相手に機能するかということです。このチェック方法は管理者にとって手間は省けるかもしれませんが、部下にとって少なくともいくつかの要件を求めると思います。それが真面目にサボらず働く(学ぶ)気があるのか?チェックの意図を理解するだけの知識・技能・認知能力・コミュニケーション能力があるのか?とてもいいアイデアが湧いても今は黙っておいて後で出すことができるか?そもそも根気が続くのか?集団として一人として仕事(学び)から逸脱してしまう人間がいない。などです。ビジネスの場合これはかなりの前提条件です。働くなと言っても働くのが日本人です。しかし子どもは違う。しかも最近はより違う。

 果たしてこの手法が公立初等学校で最初の興味だけのやる気を通過してまで子どもにコミットしていけるのかはとっても疑問です。それができるならその教員はこれまでの一斉授業スタイルでもクラスルームの大多数の子どもを主体的にできるはずだと思います。 

 それが2つ目につながるこの共有がICTとしても学びのイノベーションにつながっているのか?これまでの授業と何が違うのか?ということです。共有しているにも関わらず手数が増えて不便になって覿面注意はしにくくなっているのではないかと感じます。
 進度が自由であるということは学習に差が広がるということです。時間的にも能力的にも。それはクラスルームの運営上あまり好ましいとは言えません。能力・学習知に格差が出るより学習進度に差ができる方が集団運営上は困難が増すと私は思います。自由には平等への対立という失敗がつきものです。それをどこで補っていくのか?がその存在とともに隠蔽されているのはないかという穿った見方もできます。表札を掛け替えただけでイノベーションといってその場だけを乗り切るのはビジネスシーンではよくあることですが、そうしたところまで教育に取り入れるのは得策ではありません。宣伝や単年度の業績と言い張るだけの教育行政にとってはよくても現場にはメリットがないからです。

 共有の意味が認めてもスプレッドシートによる業務内容共有によるチェック法というのは苦労の割には意味がないということです。

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