茜は亮のマンションを出た後、実家に帰ってしばらくは家族から腫れ物に触るような扱いを受けるのかと思っていたが、実際は拍子抜けするほどすんなりと以前の生活に戻っていった。 亮とのやり取りを話すと母は少し驚いていたが、「縁があればまた出会うから」と言うにとどめ、八歳年下の大学受験生の妹の渚も「縁があったらまたつき合うかもしれないし」とさらりと言って、「お母さんと同じこと言う」と伝えると、渚ははにかんだ笑顔を向けた。 父は何も言わなかったが、母と二人きりになった時に「あの子は意
早川茜は宅配業者が荷物を持って出て行くのを見送ると、振り返ってあらためて部屋を眺めた。 もうこの部屋に私のものは何もない。 「離れたい」 先週、亮(りょう)にそう言われた時、私は一体どんな顔をしていただろう。胸がやぶれるという感覚を、あの時初めて知った気がする。 松井亮とは去年同僚に誘われた飲み会で知り合った。一年つき合って、勢いで一人暮らしをしている亮のマンションで一緒に住み始めてから十月で半年経つ。亮は自動車メーカー、茜は日用品メーカーに勤めていて、お互い忙しいな
薫は憐れむ思いで姉のいろはを見つめた。 兄の穂(みのる)がお盆休みに帰ってくる飛行機の便を間違えて、夕餉の時間に間に合わず、電話もつながらず、家族の皆が心配をしている中、いろははのんきに居間にノートパソコンを持ち込んで、「見てー。この新曲めっちゃいいんだよー」 と母親のゆりになにやら動画を見せている。 「あの子、ちゃんと帰ってこられるのかしら」 そう心配するゆりに、いろはは低く笑いながら、 「帰ってくるって。あいつお母さんのことが大好きだから」 そう言い、「パイナッ
なんでこんなことになったんだ? 穂(みのる)は飛行機の窓から雲を眺めながら思った。 県外に就職して初めての帰省。大学生の弟の薫に車で空港まで迎えに来てもらって、そのまま実家に帰るつもりだった。いや、まさしく帰る途中だ。だが今乗っている飛行機は、縁もゆかりもない県に向かっているのである。 もちろん羽田で乗り込むずっと以前にミスには気づいていた。便を変更するチャンスは何度もあったが、まぁなんとかなるかと、そのまま乗り込んだのだった。 薫には申し訳ないが、県をまたいで迎え
目覚まし時計のアラームが鳴る前に起きたいろはは、ベッドに横になったまま、しばらく部屋のカーテンを見つめていた。 九連休明けの出勤はやっぱりきつい。 なかなか起き上がれず、そういう時いつもいろはは一つ下の弟の穂(みのる)とのやり取りを思い返す。 いろはにはもう一人、三つ違いの弟の薫がいて、身内が言うのもなんだけれど、どちらも見た目はかっこいいが、穂にはどこか三枚目なところがあり、言動がこう、アホここに極まれり、なのである。 二十六歳にもなって彼氏もおらず、愉快なことと
葵は学校の裏門を出たところで颯太を待つこの時間が好きだった。 少し先には金木犀があって、季節が来るとこのあたりは金木犀の香りでいっぱいになる。 業務連絡。葵が悠大の言葉を思い出していたちょうどその時、自転車に乗った悠大が通りかかって話しかけてきた。 「すっげ目立つところで待ってんじゃん。高梨先輩人気あんのにどんな心臓だよ」 葵は思わず笑った。 「その笑顔を先輩に見せろって言ってんのー」 悠大はそう言って通りすぎて行った。 その時ちょうど颯太が自転車でやってきた。自
「葵ちゃんみたいな笑顔のことを、花笑みっていうんだよ」 葵が伯母の家に遊びに行った時、いとこの千穂にそう言われたことがある。 小さい頃はもっとよく笑っていた気がする。だが小学校高学年になった頃から、笑うとその場が一瞬しんとするようになった。そんな時、葵は自分がヘンな顔になっているのかと気にしてすんっと真顔になった。 中学生の時、そんなに仲のいいわけでもない同級生からすれ違いざまに「なんかもう笑顔がすごいんだけど」と言われたことがあり、(笑顔がすごいとは?)と考えていた時
「本当に送らなくて平気?」 ビルの正面玄関まで来たところで万里がもう一度匠に聞いたが、匠は、大丈夫です、と言って小さく頭を下げた。 顔を上げて陸を見つめるまなざしには午前中に初めて顔を合わせた時のようなそっけなさはなく、親しみがこもっていて、陸は少し戸惑った。 オーディションが終わり、時刻はもう午後2時をまわっていた。結果は後日事務所に伝えられるということだった。 万里と陸は匠と別れて、ビルの裏にある駐車場へと向かった。車に乗り込み敷地の外へ出て、ぐるりと大通りへ出た
オーディションでは自己紹介をしたり、カメラの前で複数人で雑談をしたり、最初は三十人近くいた参加者も、お昼を過ぎる頃には陸と匠を含む六人にしぼられていた。 最後の試験は「親友を事故で亡くし、ひとり部屋に戻って泣くトオル」の役だった。一人ずつ部屋に呼ばれるなんてことはなく、スタッフや参加者のいる前で演技をするのだ。 一番手は匠だった。 アシスタントが「はい!」と両手を打った後、匠は突っ立ったまましばらく動かなかった。 (何してんだ?) 陸がいぶかしんで少し身を乗り出して
「匠(たくみ)君、ここ!」 陸(りく)とマネージャーの万里がオーディション会場のビルに着くと、万里は片手を上げて入り口にいた匠に駆け寄った。 陸はなるべく考えていることが表情に出ないように匠を見た。 自分と同い年の男子が事務所に入ってきたことは聞いていた。街中でスカウトしたらめずらしく自分から芝居がしたいと申し出たとのことで、陸と同じ俳優部門に所属している。 スタッフがスカウトしたくらいだから見かけはいいんだろうなと思っていたが、匠は中学一年生にしては身長が高く、Tシ
はじめまして、小田伊織といいます。 小学生の頃から物語を書くことが好きでした。 ずっと自分のためだけに書いていましたが、人に読んでもらうことを意識しながら書いてみたいと思うようになりました。 読んでいただけたら嬉しいです。