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雨のあと 中編

 茜は亮のマンションを出た後、実家に帰ってしばらくは家族から腫れ物に触るような扱いを受けるのかと思っていたが、実際は拍子抜けするほどすんなりと以前の生活に戻っていった。
 亮とのやり取りを話すと母は少し驚いていたが、「縁があればまた出会うから」と言うにとどめ、八歳年下の大学受験生の妹の渚も「縁があったらまたつき合うかもしれないし」とさらりと言って、「お母さんと同じこと言う」と伝えると、渚ははにかんだ笑顔を向けた。
 父は何も言わなかったが、母と二人きりになった時に「あの子は意地っ張りだから、黙って見守ろう」と表情をかたくしていたと、後で母が教えてくれた。
 あいからわず仕事が忙しいのが救いだった。
 茜は日用品メーカーの企画部に所属していたが、パッケージデザインや市場調査、プロジェクトの管理を担い、複数の業務を同時にすすめていくのに毎日がすごいスピードで過ぎていった。
 ここ最近、「何かいいことがあったんですか?」と声をかけられることが多くなった。そう言われるたびに茜は、(笑ってないと、泣いちゃいそうだから)そう心の中で呟いていた。
 いつものように業務を終えて、カップを洗おうと給湯室に入ると、同期の里中絵美がコーヒーを淹れているところだった。
 茜の勤める会社は自由な社風で、華やかな服装の社員も多くいたが、化粧品部門に配属された絵美は入社四年目にしてプロジェクトリーダーに選ばれただけあって、派手過ぎず、しかしぱっと目を惹く明るさがあり、茜はこの優秀な同期を誇らしい気持ちで眺めた。
「久しぶり。めずらしいね」
 絵美のいる部署は別のフロアなのだ。茜がそう声をかけると、
「これからここで打ち合わせがあって。ちょうどコーヒーを淹れたところです。いかがですか?」
そう言うと、茜の持っていたカップを受け取り、コーヒーの入ったカップを渡してくれた。
 入社したばかりの頃、社内で同期が集まった時に絵美はよくこうしてコーヒーを淹れてくれた。バニラの甘い香りがするフレーバーコーヒー。
「美味しい」
 一口飲んでふっと一息ついた時、亮の顔が浮かんだ。
 茜のカップを洗う絵美の背中を眺めながら、涙があふれるのをどうしようもできなかった。
 亮に「離れたい」と言われた時からずっと茜は泣いていなかった。泣いたら、本当に亮との恋が終わるような気がしていた。
 恋が終わる。
 それは唐突な確信だった。
 お父さんの言う通りだよ。意地っ張りだから、亮に自分の気持ちもろくに伝えられず、目の前で思いきり泣くこともできず、こんなふうに会社でみっともなく泣いたりするんだよ。
 茜は企画書の締め切りのこと、気の重い関連部門との調整を思い浮かべたが、何を考えても涙をとめることができなった。
 マスクをしているから、絵美には気づかれずにすむかも知れない。そう願ったが、振り返った絵美は眉を寄せて言った。
「何かありました?」
「疲れてるのかな。会社で泣くなんて。ごめん」
 茜は泣き笑いになって言った。
「前にいとこのお姉ちゃんに言われたことがある。いい年して泣かないでって」
 絵美はゆっくりと言った。
「泣くのに年齢なんて関係ないですよ」
 やわらかい絵美のまなざしに、茜は「ありがとう」とうなずいた。
 今夜も雨の予報だった。
 コーヒーの甘い香り。絵美の優しい言葉。給湯室まで届かないはずの雨の音が、茜には聞こえるような気がした。

つづく

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