いろはほのかにかおる ~薫編~

 薫は憐れむ思いで姉のいろはを見つめた。
 兄の穂(みのる)がお盆休みに帰ってくる飛行機の便を間違えて、夕餉の時間に間に合わず、電話もつながらず、家族の皆が心配をしている中、いろははのんきに居間にノートパソコンを持ち込んで、「見てー。この新曲めっちゃいいんだよー」
 と母親のゆりになにやら動画を見せている。
「あの子、ちゃんと帰ってこられるのかしら」
 そう心配するゆりに、いろはは低く笑いながら、
「帰ってくるって。あいつお母さんのことが大好きだから」
 そう言い、「パイナップル。ね!」と言って薫を見る。
 パイナップル。確かにいろはがそう呟いただけで二人で大笑いしていた時期もあった。だがあれから何年経つ? 兄ちゃんが中学生の時の話だ。最近ではいろはがこの話をしても薫はもう笑えなくなっていた。
 薫が小学六年生の時、学校から帰るとゆりといろはがなにやら話していた。ゆりが黄色い長袖のシャツを手にしている。
「薫、このシャツ着る? お姉ちゃんいらないって」
 どうやらゆりがいろはに服を買ってきたらしい。よく見ると白地に小さいパイナップルがみっちり並んでいる柄だった。ほぼ黄色だ。薫は首を振った。
 せっかく買ってきたのに、と悲しそうなゆりにいろはは言った。
「穂に聞いてみて。着るって言うと思うよ」
 はたして、帰宅した穂は「いい柄やん!」と嬉々としてそのシャツを着たのだった…。あの時は笑った、確かに。
 しかしあれから何年も経ち、いまだに笑いのネタにするいろはに薫は意を決して言った。
 「姉ちゃんさ、兄ちゃんがちょっとやらかしたらすごくはしゃぐよね。正直そのネタ、もうそんな面白くないし。おれ、こんなきょうだい、もういやだよ」
 思っていた以上に大きい声が出た。さすがに言い過ぎたか、と薫はちらりといろはを見た。この世の終わりのような顔をしている。
 ・・・うろたえんな。姉ちゃんはなんでもないことでもすぐこんな顔をするんだ。ひるむな。
 そう鼓舞し、いろはを見つめ返す。
 しばらくしていろはが思いつめたように言った。
「パイナップルの話はこれからもしていいでしょう?」
 そこーーーーーーーーーー?
「別に。そんなにしたいならしてもいいけど」
 薫はそう言うのが精一杯だった。穂のいない空港に迎えに行った時の疲れが、いっぺんに出てきた気がした。

おわり

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