いろはほのかにかおる ~いろは編~
目覚まし時計のアラームが鳴る前に起きたいろはは、ベッドに横になったまま、しばらく部屋のカーテンを見つめていた。
九連休明けの出勤はやっぱりきつい。
なかなか起き上がれず、そういう時いつもいろはは一つ下の弟の穂(みのる)とのやり取りを思い返す。
いろはにはもう一人、三つ違いの弟の薫がいて、身内が言うのもなんだけれど、どちらも見た目はかっこいいが、穂にはどこか三枚目なところがあり、言動がこう、アホここに極まれり、なのである。
二十六歳にもなって彼氏もおらず、愉快なことといえば弟との思い出というのも情けないが、つらい時、とにかく笑いたい時、いろはは穂とのやり取りを思い出の引き出しから取り出し、忘却という名の埃をさっと拭い、あらゆる角度からその思い出を眺めて悦に入り、最後に拭き上げ、また引き出しに戻すのだった。
中には、今考えてもわけのわからない出来事もある。
あれはいつだっけ、穂が就職して最初のお給料が出た日だったから2年前か。
いい居酒屋を見つけたからご馳走するよ、と言われて、ウキウキと出かけたが、お店に入ると、いろはが何を話しかけても穂はうんともすんとも言わなくなった。
(何すかしてんだ? あんたはねえ、あんたはねえ、姉である私を笑わせるために生まれてきたんだからね)
小一時間ほど黙々と食べたり飲んだりして過ごし、店を出た時に一言言ってやろうといろはが口を開いた時、穂が「美味しかったねぇ」と、眉毛やまなじり、口元が下がるいつもの情けない笑顔で話しかけてきた。
「お、おう」と振り上げた拳をしまって、「ごちそうさま」とお礼を言ったんだっけ・・・。
あれはなんだったんだろう。
いろははぼんやりとカーテンを眺めて、ちょっと待ってと、ある日の穂の言葉を思い出した。
あいつあの時なんて言った?
「姉ちゃん。女の子にモテるのはね、薫みたいにあんまりしゃべんないやつなの」
そのあとそのあと。
「薫、飲みの席でもほとんどしゃべんないでしょ」
そうか、あいつ、私を実験台に・・・。
いろはは薄暗い部屋の中でカッと目を見開いた。
おわり