雨のあと 前編
早川茜は宅配業者が荷物を持って出て行くのを見送ると、振り返ってあらためて部屋を眺めた。
もうこの部屋に私のものは何もない。
「離れたい」
先週、亮(りょう)にそう言われた時、私は一体どんな顔をしていただろう。胸がやぶれるという感覚を、あの時初めて知った気がする。
松井亮とは去年同僚に誘われた飲み会で知り合った。一年つき合って、勢いで一人暮らしをしている亮のマンションで一緒に住み始めてから十月で半年経つ。亮は自動車メーカー、茜は日用品メーカーに勤めていて、お互い忙しいながらも生活スタイルをすり合わせて、なんとかうまくやっていたつもりでいたけれど、亮の中ではいつから別れのカウントダウンが始まっていたのだろうと思うと、腹の中に重しをのせたような暗い気持ちになった。
「別れたいっていうこと?」
そうに決まっているけれど、聞かずにはいられなかった。
「来月から海外出張なんだ。二ヵ月くらい。このまま黙ってカナダに行くこともできたけど、茜を騙すような気がして。勝手なことを言ってるのはわかってる。でも今は仕事のことしか考えられないんだ。一人になりたい」
亮は片手で額を押さえながら言った。
「おれがカナダに行ってる間、このマンションにいてもいいよ」
茜は首を振った。
「あなたの家だもの。私は実家に帰る」
「…わかった。とりあえず今夜からおれは友達の家に泊めてもらうから」
ごめん、と亮が部屋を出て行くのを茜はぼう然と見送った。
あれから一週間が過ぎ、ようやく茜は自分の荷物をすべて運び出したのだった。
鍵をかけてエレベーターに乗り込む。
マンションを出ると今にも雨が降り出しそうな曇り空だった。足早に近くの地下鉄の駅の階段をおりて、そのまま電車に乗った。
今井美樹の「雨のあと」が聴きたくなり、イヤホンを取り出す。
亮と今井美樹のコンサートに行ったのは九月のはじめ、ついこの間だ。亮は茜につきあってチケットを取ってくれたのだが、自分の知っている曲が流れると嬉しそうに笑顔を向けてくれた。
こうして思い出す今、涙は出ない。
停車する駅で乗り込む乗客の持つ傘がぬれているのを見て、雨が降り出したことを知る。
雨の匂いのするメロディを聴きながら、茜は地上をぬらしている雨に思いをめぐらせた。
つづく