随筆(2021/2/21):小学校算数水準での数の掛け算の「順序」という、しばしば「数学」「教育」上有害にはたらく、公理っぽい何か(G.数の掛け算の「順序」の、生活上の副作用の害とは、「コストの膨張とリソースの浪費で、心身の存続を脅かす」ことである。当然致命的である)
2_9_3.心身の健康や社会生活に役に立つリソースの消耗は容認出来ても、そういう風に役に立たないリソースの消耗は容認しがたい
2_9_3_1.本来成果に効いて来るべき努力を、成果に効いて来ないところのコストに注ぎ込み、成果に効いて来るところのコストに注いでいないようでは、困る
「社会生活において生徒を適応させるために、我々のやるスタイルの数学教育では、こういう制約を課しているのだ」
と主張する人たちがいる。
成果に効いて来る場合は、真面目に単位を守るメリット、あるだろう。
同様に、成果に効いて来ない場合、当然ありうる。
そういう時にまで、単位の遵守の徹底をするということは、要するに、
「本来成果に効いて来るべき努力やコストを、成果じゃないところに注ぎ込み、成果に注いでいない」
という話だ。
これは、困る。
そういう話を、前回まではしていた。
この話は、実は社会生活に限らない。
社会抜きの生活でも、大いに効いて来るところだ。
だから、今から、生活の話をします。
2_9_3_2.努力するなら、せめて役に立っていなければならない
「役に立つ時に、役に立つことをする」
というの、社会ということをすっ飛ばしても、生活を円滑にやっていくためには、ごく当たり前の要求だ。
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これに、算数や数学で扱うより、若干曖昧な「量」の概念を加味した話もある。
つまり、
「判断や努力等のコストには、対処したら消費されてなくなるような、体力気力等のざっくりとした量のリソースが対応している。
少なくとも何らかの場においては、場の役に立たないことではなく、概ね場の役に立つことのために、リソースを費やしてコスト分を埋めることが期待されている。
単にリソースを無駄なコストに向けて費やしているだけで、何か善いことをしたような気になっていてはダメだ。
せめて、役に立っていなければならない」
という話が。
2_9_3_3.それ以前に、そもそも潰れてはならない
そういう観点からすると、
「異なる単位の並び方の遵守をして、役に立つ場合が明白にある。
もちろん役に立たない場合もあるが、「常に」異なる単位の並び方を遵守するという安全策で、「個々の事例の判断をしなくていい」ということにできる。
判断コストの方を削減するために、異なる単位の並び方を一律遵守しましょう」
という話は、
「異なる単位の並び方の遵守をして、役に立たない場合が明白にある。
この場合においてまで、異なる単位の並び方の遵守を一般化すると、安全かもしれないが、無視出来ない程度の努力コストを払う羽目になる。
判断コストの削減だろうが、体力気力の温存だろうが、努力コストを総当たり的に使っている時点で、やはりいつかはバテて潰れる。
この時点で温存は無駄になっている。
じゃあ、やめた方がいいと思うんですよ」
という話の前では、成立しなくなってしまう。
2_9_3_4.リソース、コスト、利益、システム内部における安全
なぜか。
それは、「「安全」とは何か」ということに絡んでくる。
何らかのリソースを素材にして。
また何らかのシステムの生成や存続に寄与し得るような、何らかのコストをリソースによって払い。
それと釣り合うか、出来ればより多いくらいの、何らかの利益を得ることで。
何らかの場めいたシステムを生成し、安定的に存続させることができる。
少なくとも、当面の間、システムが内部から崩壊することは避けられる。
改善により、健全に稼働しているシステムは、利益に比べてコストを低く抑えられる。あるいは、効率が良くなる。
2_9_3_5.脅威、リスク、システム外部からの安全
また、存続のためのリソースや利益は、たいていの場合、システムの外側とつながっている。
同時に、外部からは、破壊をもたらす脅威がやってきたりする。
これには、確実に起きる、ある程度は対処しやすいものと。
不確実で対処が難しい、いわゆるリスクとがある。
リスクに備えることができて、脅威を防げると、外部からの破壊も食い止められる。
で、準備も防御も、それぞれまたコストがかかり、リソースを費やさざるを得ない訳だ。
2_9_3_6.リソースの浪費と枯渇、コストの膨張、利益の伸び悩みは、システム内部における安全を、崩壊に導く
利益よりコストが大きくなったら、いずれリソースは枯渇し、ある日コスト分のまとまったリソースが払えなくなる。こうなると、システムはあちこち崩壊していく。どんどん存続できなくなっていく。
あるいは、脅威が防ぎ切れなくなる。そうなったあかつきには、被害や、たいていそれに伴う存続コストの向上によって、システムの存続ができなくなることもある。
後者は分かりやすく「危険」であり、「安全でない」。
が、前者も「全体としての崩壊に向かっている」のであり、これまた「安全でない」。
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要するに、システムのそもそもの内部的な話として、
「利益よりコストが大きく、リソースが枯渇し、ある日コスト分のまとまったリソースが払えなくなる」
ような、何らかのリソースの不足に陥ると、これはもう「安全ではない」。「全体としての崩壊に向かっている」。ということだ。
リソースの浪費と枯渇、コストの膨張、利益の伸び悩み。
これら全ては、システム内部における安全を、崩壊に導く。
いったんシステムが崩壊したら、もうリソースがコストや利益がどれだけあろうと、安全もへったくれもない。
だって、安全かどうかを問うべき場は成立していないんだから。消滅したんだから。もう誰もそこにいないのだから。
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判断コストを節約して、そこに向けられる気力体力を温存するために、努力コストの犠牲を顧みなかったため、そっちで気力体力が枯渇して、全体としてはバテて潰れる。
というの、正に上の崩壊パターンの具体例だ。
正に「判断」を誤ったケースだ。
本来、こういう時に、判断コストを節約すべきではないのだ。
そんなことをしたら、その後の判断も基本的に間違い続きになるし、これを修正できないし、その被害で果てしなく消耗してくからだ。
じゃあ、結局、意図せざる形で、リソースを浪費している。生存ではなく崩壊に向かっている。という話は避けられない。
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そりゃあ、何かをやった人にとっては、成果、ふつう、とてつもなく大事ですよ。
でも、その成果が価値を持つのは、やった人が生き残った、潰れなかった時だけです。
潰れて、飢えて、死んだら、その後何があろうが、全部無価値です。
価値を享受すべきその人は、消滅したんだから。もう誰もそこにいないのだから。
適切ではないコストの割き方を教えるの、人を存続させるためでなく、崩壊させるための教育だ。
存続させたいのなら、やめた方がいいですよ。
「潰れてもやむを得ない。実際にはあることだ」
という話は、今そこにある実際として、辛うじてやむを得ないとしても、
「潰すような教育をしているが、やむを得ない」
という、ここから先の「方針」を「潰す」ことを、あたかもれっきとした「方針」であると言い張るような話は成り立たない。
何のために教育しているのかというと、「教」えることが「育」つことに結びつくし、
「育った子供は育てなかった子供より社会で生活しやすくなる」
と考えられているからだ。これ自体はムゴイ話だが、だからこそ多くの人が教育に価値を認めているのだ。
「育」てるどころか、「潰す。やむを得ない」という教師、困る。
少なくとも俺は、そんな人に、自分の子供の教育に携わって欲しくない。
2_10.数の掛け算の「順序」は、数学上も、数学教育上も、社会生活上も、一般の生活上も、リスクが大きい。やめましょう
そんな訳で、数の掛け算の「順序」は、数学上も、数学教育上も、社会生活上も、一般の生活上も、デメリットがあまりにも大きい。
やめましょう。
(次回、最終回、総括です)