随筆(2020/9/7):クソリアリスト、ストレスに死す(そんなやつのどこが適応的なんだ)5. 現実世界の背骨に潜む、抽象的な幽霊たち
5.現実世界の背骨に潜む、抽象的な幽霊たち
5_1.数の怪談
さて、今までは「目利きが上がって現実世界が見えていくメリットとデメリット」の話をしていました。
ここで、奇妙な話をします。
「この現実世界は、実在だけでなく、抽象的なものでも出来ているんだ」という、薄気味の悪い気付きの話です。
***
「言葉には、それを指示する、具体的な実在の対象が、常にある」
という、古い教説(ドグマ)があります。
一見納得しそうになりますが、これには大きな問題があって、
「言葉の上だけでも真だと分かること」
というものが扱えません。
***
例えば、今の数学では、数は、
「実在の対象が常にある」
とは考えられておらず、
「実在の対象ではない、とある仮定に基づいて、作られるもの」
という扱いになっています。
リンゴの個数から数が出来る訳ではなく、
「「集合」という仮定された抽象的な何かがあり、その集合が「ZFC公理系」と呼ばれるいくつかの条件を満たすと仮定した場合、数が作れる(他の作り方があってもよいが)」
と考えます。
こうして、何もかもが仮定の、抽象的なものから作られた、数というものが出来上がってから、はじめてリンゴを数えられる。
もうちょっと踏み込むと、例えば、数には、何番目、という順序の話が避けられません。
一番基本的な数を、すなわちこうした順序としての数(順序数)を可能にする条件を、丁寧にほぐすと、なんとこれがZFC公理系の一部と同じものになります。
ごちゃごちゃと抽象的な話しかしていないZFC公理系が、まあ見慣れた、馴染んだ順序数というものになる過程を見ていると、「ヒッ」となります。
数を作れる、仮定のZFC公理系は、仮定とは言え、大したものではないか。
あるいは、仮定のZFC公理系から作れてしまう数とは、実は現実の重みを持たないものなのではないか。
そういう動揺が大事です。
「現実のものだと思っていたものが、実は仮定の組み合わせだけで出来る」という話は、数に限らず、いろんなところでついて回るんだから。
主に数学と、その一部である論理学は、ある時期から、
「言葉の上だけでも真だと分かること」
を扱う学問となったのです。
ここは覚えておくと、ものの見え方が変わってくるでしょう。
5_2.記号の怪談
ひょっとしたら、
「じゃあ、言葉って、何なんだよ。
実在と区別される何らかの得体の知れないものに、何でそんな、扱いのデカイ、特権的な地位があるんだ」
とツッコミを入れたくなるかも知れません。
今では、言葉、専門的に言うと「記号」が満たすべき性質も、基本的にはわかっています。
そしてそれは、数と同様、抽象的に決まっています。
数はある種の順序を満たすものですが、記号はある種の演算を満たすものです。
(えっ!? 記号の、演算!? な、何じゃそりゃ…???)
(数学ではものすごく単純化した演算を扱うことがあります。これもふつうの足し算や掛け算とは別の、ある意味でもっとラフな演算です。まあ見ていきましょう)
演算の際に、演算に入れても、値に影響しない要素がある場合、これを「単位元」と言います。
加法(足し算)においては「いわゆる」0が、乗法(掛け算)においては「いわゆる」1がそうです。
これら0と1と、演算能力を、順序数に組み込んで、おなじみの0,1,2,3,...の、いわゆる自然数というものを作っていくのです(なお、0を自然数に含む流派があります。様々な理由で便利だし、実は自然になるので、こうしているのですね)。
また、要素同士の結合(これを演算と見なしてしまいます)に、とある簡単な法則、「結合律」がある場合があります。
正に記号を例に出しますが、結合した文字列を作る(ある種の)演算を行う場合、"a・b"・"c"と結合しても、"a"・"b・c"と結合しても、同じ"a・b・c"が出来る、というものです。
あまりにも当たり前に見えますが、よく考えたら減法(引き算)ではこれが出来ないようになっていますので、そこまで当たり前の性質ではないことに気付きます。
例えば、(100-10)-1と100-(10-1)は違う。(前者は89、後者は91になりますね)
「単位元」と「結合律」を備える、抽象的な演算の構造(代数的構造)を、「モノイド」と言います。
「記号とは何か」という問いの答えの骨子は、「モノイドとしての代数的構造を満たすもの」です。
記号の単位元とは、プログラマならしょっちゅう目にする、0バイト数文字列、空文字("")のことです。
(バイト数という数の話が出て来るので、記号と数、特に大きさに関する順序数との関係についても考えたくなりますが、今回は飛ばします)
記号の結合律については既に説明しましたね。
記号とは、そういうモノイドです。つまりは、集合と演算で出来ているものです。
集合は抽象的な仮定だし、演算も集合を抽象的な仮定(ZFC公理系の一部)で操作して作れるものなので、全部抽象的な仮定の組み合わせなのです。
5_3.存在論という怪談
さて、哲学の中でも、存在に関する分野、存在論の話をします。
「何で存在論とかいう哲学の分野の話をしなければならないのか」?
まあ、そうなるな。
何でも、物事を考える時に、「対象」とか「性質」とか「関係」とかの概念はふつう出てきます。
ですが、それらがどういうものであるかは、ふつう説明はすっ飛ばされています。
数学や論理学をやっていると、ここの説明は確かにあるのですが、
「それ、相当限定的な用法じゃないのか…?」
と言いたくなることがあります。
数学における性質とは、しばしばある集合に包含される部分集合のことで、関係とは、複数の集合をふつうに掛け合わせた、直積集合の、さらにその部分集合のことです。
(集合の世界の説明、集合論では、掛け算にはいくつかあります。我々の直感で考えるような掛け算を直積と言い、その直積で出来る集合のことを直積集合と言います。
非常に高度な例になりますが、直線的な座標軸の掛け算で、我々にお馴染みの、立体的な3次元ユークリッド空間が出来る、みたいな話です)
直感的には、
「これの中の特にあれを満たすもの」
を性質と呼び、
「これらの中の、あれとあれを満たすもの」
を関係と呼ぶ。と考えてよいでしょう。
メチャクチャ示唆に富み、「なるほどなあ」とも思うのですが、問題があります。
「特にあれを満たすもの」
ってところで、
「何でそれが特に選ばれるのか、そいつらにはどういう共通点があるのか」
の基準については、実は何も分からないんですね。
下手すると、
「これらの部分を、特に特別なものとして、たった今勝手に決めた、定義した。
共通点? ないよ?」
という話が、ふつうに出て来る訳です。
これは、性質に関する、我々の直感に、まあ合わないでしょう。
定義してなくても浮かび上がってくる、抽象化された共通点みたいなものが、しばしばあるはずだ。
我々が性質と呼ぶものは、そういうものではなかったのか。
ということで、対象や性質や関係について、もうちょっと別の考え方をしないと、我々の考える対象や性質や関係の説明としては、だいぶおかしなものになる。
存在論は、そういう、対象や性質や関係の話を考えるジャンルなのですね。
対象を存在と呼びたくなるのはともかく、性質や関係も、対象と同様、存在の一環として取り扱う。ということです。
(存在論でいう存在は、特にマイノング主義者にとっては、実在とほぼ同義の、比較的狭いあり方の話なのですが、その話は面倒なので避けます。
ということで、ぶっちゃけたことを言うと、この文は、主にマイノング主義者への言い訳、アリバイ作りです)
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説明のために、非常に素朴なものの見方をします。
いろんな性質があり、それらを備えたものとしての対象、実体があると考えます。
(実体の核心となる何らかの基体とでも呼ぶべきものがあるかもしれませんが、今回はその話は直接関係ありません)。
具体的な個別的性質のことを「トロープ(trope)」と呼ぶ流派がいて、特に、実体のことを、いろんなトロープを備えた何か、「トロープの束(trope bundle)」と見なす流派がいます。
この説明は、いくつかの意味で、直感に訴え、実態に即していて、便利なものです。
なので、とりあえず、仮に、彼らの話に従って行きましょう。
***
で、性質の組み合わせによっては、別に現実と同じものが出来るとは限らない訳です。
現実は、ある程度は、偶然に左右されます。
「必然的に、こういう組み合わせしか出来ない」
というものは、かなり限られている。
逆に考えると、これは可能性の広がりを意味します。
(ある種の論理学でも、必然性と可能性は裏表です。詳しくは「様相論理」で調べてみて下さい)
***
人間は賢く、頭がおかしい。
なので、一見どんなにバカバカしくても、今起きている現実の別パターン、可能的な在り方について、しばしば想像することがあるんですね。
これは非常に強烈な能力で、ふつうは、これがあって初めて、
「もっといいやり方」
について、
「事前に考えておいてから」
やってみることが出来る。
想像力は、計画力のための、有益な資源となりうるものです。
現状認識だけでも出来なくはないが、それでは現状が詰んでいる時に、しばしば突破できない。
(現状が詰んでいるんだから、その中の発想ではどうにもならないことが、しばしばある訳です)
だから、想像力という資源、是非押さえておきたい。手放したくない。
5_4.娯楽コンテンツの怪談(娯楽コンテンツとしての怪談とは別に)
なお、ここから、よく取りざたされる、非実在娯楽コンテンツの話をします。
非実在娯楽コンテンツは、非実在です。実在しません。要は、可能的なものです。ここはまあ、よいでしょう。
また、ふつう、非存在娯楽コンテンツは、別に計画には直接効きはしませんし、実際の行為への動機や、それをやって当たり前だとする感性にも、直接効いてはきません。
だから、現実世界をひたすらやっていく人たちにとっては、実にくそくだらないものです。
(逆に、動機や感性が、コンテンツの好みを決め、そのコンテンツは動機や感性を揺るぎなく補強することで、動機や感性は強固になっていきます。
当たり前ですよね。一般に、常識とは、そうして形成されるものなのですから。
これがメディア研究の、比較的新しい(つってもだいぶ前からの)通説である、限定効果説というやつです)
***
模倣はされます。現実世界に直接効いてくるとしたら、まずはそこです。
ここの問題は、いつか別の機会に、真面目に論じていくことになるでしょう。
ただ、一つ、押さえておかねばならないことがあります。
子供にとって基本的に、生活の数割は、親を含む広義の養育者の支配や、逆にネグレクトから逃れられない訳です。
露骨に言えば、飯と食費をちらつかせて、子供に言うことを聞かせるのは、今も昔もかなりやりやすい支配でしょう。
(他の大人に食わせてもらうという形で、裏目に出ることももちろんあるが)
公開によって作者の意志を離れた、それ自体は意志をもたない(生き物ですらない)、非実在娯楽コンテンツは、子供に何らかの行動を「余儀なくさせる」ことはない。
が、基本的には常に何らかの意志のある、親を含む広義の養育者は、子供に何らかの行動を「余儀なくさせる」ことがあるのです。
(親が特定の非実在娯楽コンテンツを余儀なくさせた場合というのは、あります。おぞましく哀しい話だ。ちなみにこれは普通は後者の「親が余儀なくさせた」やつの一環に入ってしまいます)
行動への影響? それは余儀なくさせた方が、高確率で何かを「させる」ことが出来るだろう。当たり前じゃん。
余儀なくさせない影響は、本人が飽きて嫌がったら終わりだ。
余儀なくさせる影響は、本人が飽きようが嫌がろうが、とにかくやらせることができる。ここは極めて大きな違いだ。
***
「嘘だ。子供は言うことを聞かない」
と言いたい人がいるかも知れませんが、これはよく聞くと、しばしば
「(やらせることはできるが)常にやらせることができない。そうなっていないのはおかしい」
と言っているだけだったりするのではないのでしょうか。
本当に、
「おかしい」
じゃないんですよね。
そういうの、言ってることが、まず前提からおかしいんですよ。
要は、
「やらせることが出来てしかるべき」
というのを当然の前提にしているとしか、傍目からは解釈出来ないんですよね。
だから、
「出来ることも出来ないこともある」
というふつうの現状認識は、どこかにすっ飛んでいる訳だ。
こういう前提で行われる、今ここに現にいる子供を育てる営みというのが、傍目からは非常に危うく見えるんですよ。
そういうの、俺はやりたくないんですよね…
***
子供の模倣行動の原点は、親が余儀なくさせた部分が、非実在娯楽コンテンツによる部分より、ふつうは圧倒的に大きい。
しかもそれは余儀なくさせられた不快感を伴う。
これを嫌って、しばしば副次的、代替的、反抗的に、まずは快適な非実在娯楽コンテンツに頼るの、至極当たり前なんですよね。
「不快だが教えなければならないことがある」?
ごもっとも。教育とはそういうものでもあるでしょう。
だが、そう語る親含む広義の養育者はしばしば、
「このようにして教えているものは、このように不快をもたらすものである」
という印象を植え付けているだけだったりする。
これは、子供を教育に導くことを考えると、
「やりたくねえな」
と子供に思われるだけだから、かなり早いうちから反抗を食らいますよ。
こうなったら、かなり早いうちから失敗する。回復は大変だし、予後も悪い。
教育の理想を語っている人が、初手で教育のやる気を蹴っ飛ばさないで欲しい。話がおかしいと思わないのだろうか。
***
ちなみに、支配する親等のみならず、拒絶する他者においても、これに通じるパターンがしばしばあります。
先の話題に部分的に重なる、よく言われるエロ漫画の話題は、原理的には
「他者は自由意志を持ち、自分のやりたいことを拒絶して当たり前であり、合意はまずは相手の恣意であり、偶然に左右される。
どうすればよい、という約束事は、ふつう、ない。人それぞれ、ケースバイケースだ。そこはそういうものだ。
それはそれとして、自分のやりたいことを拒絶されることは、もちろん真剣に心の底から不愉快なことだ。
この手の挑戦を10発やっていって、9発イマジナリービンタされるの、そりゃあ、まあ、嫌ですよ。
慣れなきゃならんが、痛いもんは痛えんだよなあ。
これを連発で食らっていると、
「自分のやりたいことは、やれなくて当然のものである。
なぜそうなのか、いい加減分かってきてしかるべきだろう。
なぜならば、自分は忌まわしい、いるべきでない生命なのだから。
お前がおぞましいから、お前のやりたいことはおぞましいのだ。
他のやつらのやりたいことが許されて、お前のやりたいことが許されていない理由は、お前の一挙手一投足全てにかかっているんだよ。
お前がお前を書き換えて、お前でいることをやめない限り、お前は永遠にやりたいことを実現できないだろう。
そうして、お前がお前を葬ったら、お前は自分が葬った自分の中のインナーチャイルドがやりたかったことを、お前の中のインナーチャイルドの死骸の上で、ようやく実現できるだろう。
それを喜ぶべきインナーチャイルドは、喜びも嘆きもしない。もう死んだ。実現するためにはインナーチャイルドは殺されなければならなかったのだからな。お前が殺して実現したんだよ。よく分かっているだろう。
楽しいかい? 今更楽しくないなんて無責任なことは聞きたくないなあ。
お前が念入りに葬ったインナーチャイルドの分も、盗人猛々しく喜ぶべきであろう。
そうでなければ、何でお前はインナーチャイルドを葬ったのだ?
インナーチャイルドを殺しておいて、インナーチャイルドが得られるべきものを奪っておいて、虚しいからどうでも良さげにドブへ捨てる?
おう、ええ根性しとんのうワリャア。
そんなことが許されると思うとるんかクソガキャア。
生き汚く貪り啜っとらんかいボキャア」
という絶望が、否応なしにやってくる。
そこはそうなのかもしれない。というか、多分そうなのだろう。
そんなとてつもなく辛く厳しい気持ちで、生きていかねばならない。
絶望してこの世界と決裂しないために、折り合いはつけなければならない。
自分はもう、やりたいことを丸ごと葬るために、火炎瓶で自殺するのは真っ平御免だ。
挙げ句、あいつらは、この自分が、この世界に復讐するために火炎瓶を投げまくる、おぞましい存在と思い込んでやがる。
いやあ、随分と、舐められたものだなあ。
自分はあいつらにやりたいことを拒絶されてきたのに、自分があいつらの負の願望というか、被害妄想を成立させうると思われてるのか。
はっはっは。
ふざけるなと言いたい。
あいつらのおぞましい被害妄想のために、この自分がおぞましいことをする謂れがないんだよなあ。
いや、ぶっちゃけ、ここまで不愉快なことを考えているあいつらに、一発思い知らせてやりたくはあるよ?
でも、それじゃあ、処世なんか出来っこないじゃん。最終的には自分が惨たらしく死んじゃうじゃないですか。やなこったですよ。
ということで、せめて、自分のやりたいことが少しは満たされたのと同じ効果を、ジェネリックで得たいんだよなあ。
これが、一番楽な、折り合いの容易な、折り合いのやり方であろう」
というところから生じる場合があります。(ちったあ息継ぎして喋れ。あとネストした二重括弧をやめろ)
***
現実にやったら忌まわしいのでジェネリックでやる。というの、極めてありふれた話ですし、現にこれで処世をしている人、たくさんいます。
「そんなやつがいるとは信じがたい」?
「やつらは基本的に短絡的なケダモノだ」?
では、かなり多くの、賃労働をされている皆さんに訊きたい。
ぶっちゃけ、仕事を評価しない査定担当や、給料をまともに払わない給与担当に、腹を立てても、別にぶっ殺してないじゃないですか。
そういうの、ふつうはありふれた話なんですよね。
で、何で自分以外の誰かを、殊更「そうではない」と信じた?
しかもこれは、見れば分かる通り、ジェネリックを見て現実でやるという、ある種の人たちが心底嫌う、ある種の模倣とは、完全に逆方向の話になっている。
繰り返すが、現実にやったら忌まわしいので、ジェネリックでやる。ということなんだから。
***
が、そこの話が絶対に見えなくなる人、たくさんいます。
何でだろうなあ。
「模倣の話がとにかく怖いから、それ以外の話は全無視して、何だっていいのでとにかく初手で潰す」?
そういうの、やめた方がいいですよ。
「ゼロでなければリスクは存在する」
という、よくある理屈を真剣に考えると、
「リスクは遍在する」
としか言えないので、
「リスクが集中していると思われるどこかのクラスタを人間松明の森にすれば、リスクは実質ゼロになる」
という、ある種の人たちが迂闊にも信じている御伽噺、通る訳がないんですよね。
どうしても怖がる人はいるし、じゃあ目に付くリスクは全部焼かなきゃならない。
人間松明を焼けば焼くほど、安心して安眠が出来て、「治安がいい」と思ってしまうの、端から見たら下劣で愚劣の極みじゃないですか。ぶっちゃけ、クズバカじゃないですか。
こんなもん、「治安は非常に良くない」としか言えなくないですか。途中でシラフに返らないもんなのか?
***
その、
「どこかに集中していると思われるクラスタ」
というのが、卑小で醜悪そうなところを、焼いていい標的として、恣意的に選んでいるのだとしたら、まあ、こんなもん、邪悪もいいところですよ。焼いている側が。
他人や、他所のシマを焼きに行くのを、安易に肯定するの、ダメなんですよ。
こんな、子供に言い聞かせるみたいなこと、本当に言いたくないんだけど。
アメリカの価値観を持つ人は、よく日本を焼きに来るし、これを歓迎する日本人も実はかなりいるが、外形的にはこれは非常に「侵略」的な振る舞いですよ。
これに、少しでも抵抗を覚えるのなら、じゃあデカイ自分たちが狭い誰かを焼きに行くの、やめた方がいいですよ。
これ、同じパターンなんだから。
「違う。何も分かっていない」?
どう違いが分かるか説明できますか?
そしてそれは「侵略」性を正当化しうるほどのものなのか?
そうでないなら何の正当性もない。当たり前ではないか。
その主張から恣意を取り除けるか?
そして、「そこに恣意は含まれていない」という、たったそれだけのことを、焼かれる側や外野の前で、説得として貫徹出来るか?
出来ないなら(最終的にはふつうこれは圧力でしか貫徹出来ないんだけど)、それは正当化を試みて、失敗したのを、圧力で貫徹して誤魔化しただけだ。
要するに、そういう人達がやっているのは、正当化を試みて失敗したのを、圧力で貫徹して誤魔化した、他者への恣意的な侵略だ。
他人のそれを見たら、これが邪悪の数え役満であることは、かなり容易に理解して戴けると思います。
本当によくある成り行きですが、これ、端的に、邪悪の数え役満なので。
自分がやったらそうではない。という理屈、成り立たないので。
後で風向きが変わったら、焼かれるのは自分なので。
ひょっとして、
「今自分が安全地帯にいながらにして誰かを焼けるのなら、後で自分が焼かれようがどうでもいい」
とか思ってませんか?
困ったなあ。
そういう人は、そもそも信頼がないから、隙を見せた瞬間に周囲にボコボコにされて、素寒貧にされて追い出されて追い払われて追撃でまたボコボコにされますよ。
特に、かつて誰かをボコボコにした、今も誰かをボコボコにしたい人は、ボコるだけの正当性(というか、ボコるための正当化)が担保出来なくなったら、猛烈に攻撃されやすくなる。
「後で」というか、これは、「油断したら直ちに」攻撃されます。この時点で、そこは何ら安全地帯などではない。気を付けておきましょう。
***
そんな訳で(どんな訳だよ)、非実在娯楽コンテンツは、模倣を除けば、あまり現実に効いて来ない。
が、非実在娯楽コンテンツは、「可能性について想像を働かせることそのもの」への動機や感性には、猛烈に効きます。
そういう非実在娯楽コンテンツがもたらす想像というのは、メチャクチャに楽しいからです。
そのうち、想像一般が楽しくなることも、割と高い確率で起こりうることでしょう。
(というか、非実在娯楽コンテンツがなければ、多くの人にとって、想像というのは、実につまんない、くそくだらないものでしょう)
「わざわざ想像なんかするな。
そんなことは目の前のことに関係ないし、目の前のことだけやれや。
そんな想像、目の前の問題を、何も解決しないに決まってる」
そういう観点でしか物事を見ない人、います。
これを、目の前にいなかった客を連れてくる大小の広告代理店に、大小の実業をやってる業者が、胡散臭そうな値踏みの視線と共に、実に偉そうに言い放つのを見ると、かなりぎょっとしますね。
(私の前職のIT業界でもありました。本当に勘弁して欲しかった)
人を駆動するほど迫力のある、あるいは、明瞭に伝わる宣伝は、培った感性か想像力がないと、作るのはとてつもなく難しいものなのです。
(またぎょっとするかもしれませんが、たいてい、感性や想像力は、鍛えることが出来ます。また、非実在娯楽コンテンツ産業的には、ふつうはこんなもんは鍛えていて当たり前のものです)
だから、想像力をナメるの、困るのです。
「その手の御託はどうでもいい」?
じゃあ、せめて横からくちばしを突っ込むの、やめて欲しいのです。
他人の仕事を妨げにかかってくる顧客と、取引なんかしたくないんですよ。分かるでしょう。(というか、そこは、いくら何でも、取引で食ってる社会人なんだから、分かって欲しいんですよ)
そこまでするんなら、宣伝なんかやめて、自力で働いて下さいよ。
あるいは、自分で企画を立てて、自分で宣伝して下さい。企画を立ててるうちに、いずれ想像力ということに、それなりに向き合わざるを得なくなるでしょう。
***
想像力を楽しく広げる道具たりうる、非実在娯楽コンテンツは、想像力を楽しく広げることが出来たら、それで十二分に役に立っている。
(他にも、似たような効果として、気晴らしの話もしたいのです。
が、その話は、また次回にします)
***
ふつうは、想像力が広がった方が、そうでないよりは、有益です。
もちろん、広がればいいってもんじゃない。
広がりすぎた想像は、いくつかは幽霊のように、どうにもならない薄気味の悪い脅威として、視界に残る。
でも、その話は、この前もしましたね。
デメリットが大きいなら、それは捨ててよい。
メリットが大きくなるなら、それは捨てがたい。
それだけの話です。
あと、実は、デメリットは、よりバランス良く目利きが出来れば、なくなることがある。
特に、「これしかない」という狭い見方に囚われることは多いが、「他にもバリエーションがある」と視野が広がれば、その囚われはなくなる。
広さがある問題であるというよりは、得られたヴィジョンに囚われることが問題なのであって。
それは、実際には、狭さの話です。
ということで、現実世界の実在に対する目利きの解像度が上がると、抽象的なものや、その組み合わせの、豊穣な地平が広がっていることに気付かされます。
そうして、ある日、ついに、気付くでしょう。
この現実世界は、実在だけでなく、抽象的なものでも出来ているんだ。ということを。
5_5.「この現実世界は、実在だけでなく、抽象的なものでも出来ているんだ」という、薄気味の悪い気付き
えっなにそれこわい。
実在しないものがうごめいていると、メチャクチャ不安になる。キショイ。
という人がいるかもしれません。
そうなんですよ。
怖い話なんですよ。
順序数があり、記号があり、そうして論理があり、自然科学のいくつかの法則があり。
この現実世界は、物理的なところだけでも、自然科学のいくつかの法則に従う。
それらを抜きにして、この現実世界が、今あるように動くことは、決してないだろう。
計画を立てるにも、想像力が強く要請される。
その想像力は、可能的な在り方を探ることで成り立っている。
可能的なものは、実在と同じく、個別的性質、トロープの束だ。
個別的性質は、何らかの抽象的性質の、具体化したものだ。
結局、抽象的なものからは、逃れられない。
このことを考えると、脳が半透明になっていくような恐怖感があります。
現実世界は、実在しない抽象的なものに従っている。
昔なら神話や宗教がこれを担保していたかも知れないが、今はもうちょっと細分化された話になっていて、その根っこに近いところに、数学やその一部としての論理学がある訳だ。
ワーオ。マッジッかよ!? マッジッじゃん。魔法じゃん!
魔法ではありません。
これは、そういうものです。
「力こそ全て」理論の実践者が、慣性や遠心力などの力学の法則を、完璧(パーペキ)に無視(ブッチ)して、バイクや車を飛ばしている訳でもない。そこは体感で分かってるところでしょう。
自然科学のいくつかの法則は、幽霊みたいなやつらだが、ある。押さえておくと便利なことも多々ある。
なので、まあ呑み込んでいきましょう。ひとだまの天ぷらを呑み込むような気持ち悪さがありますが…
(バカみたいに長くなったのでここで切ります)
(何なんだこの記事)
(また後でちゃんとつながりが出て来るんですよ。乞うご期待)