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1920年の宗教者・学者は、100年後(2020年)の仏教界をどう予想したか。

みなさん、こんにちは、本ノ猪(TwitterID:@honnoinosisi555)です。
前回の文章(「「21世紀版『歴史とは何か』(E・H・カー)」なる本が出版されていたので読んでみた」)から、大分時間が空いてしまいました。
数か月ぶりの投稿となります。ぜひご笑覧ください。

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2020年2月14日金曜日。
京都古書会館で開催の「第6回 古書会館de古本まつり」に足を運んだ。
戦前期の仏教に関する書籍・雑誌を求めて、本棚を一つずつ見ていく。
時に、まったく異なるジャンルの本に目移りしながら、お目当ての本を探していると、
「ううん!?」
と心を打つ雑誌の背表紙が目に入った。
かすれた背表紙に、かすかに残された「中央佛敎」の四文字。

『中央佛敎』とは、曹洞宗の僧侶・飯塚哲英設立の中央仏教社が発行していた月刊雑誌。1900年より刊行がスタートし、1924年からは『大乗禅』と雑誌名を改めた。飯塚哲英は、『中央佛敎』の他にも、『家庭之友』『銃後の婦人』などの雑誌を発行したり、自身の著書『奇僧南天棒』(隆文館図書、1920)や『処世と倫理』(大阪屋号書店、1921)などを上梓している。

私は興奮で手を震わせながら、雑誌に傷がつかないように、丁寧に頁を繰っていく。
「目次」の頁に辿り着き、ざっと目を通すと、更に胸が高鳴っていく。
そこには、魅力的な論稿と執筆者の名前が並んでいた。
そして、胸の高鳴りが最高潮に達したのは、
目次に「ある特集記事」を見出した後、この『中央仏教』の発行年を確認したときだった。
「ある特集記事」とは、

「百年後の仏教」

であり、
この雑誌の発行年は

「大正九年」

つまり

「1920年」

なのである。

「1920年の百年後は2020年じゃないか!!!……この雑誌は私に「読んで欲しい!」とうったえかけているに違いない!!!」

謎の使命感に駆られた私は、さっそくレジで会計を済ました後、喜び勇んで帰宅の途に就いたのだった。

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今回取り上げる記事(『中央佛敎』第四巻第七號)は、1920年を生きる有識者たち(学者や宗教者)に、「百年後の仏教はどうなっていると思いますか?」とアンケートした結果を纏めたものである。
有識者たちのアンケートの答え方には、大きく分けて二つのものがあった。
一つは、アンケート内容を「百年後の仏教をよりよいものにするためにはどうすればいいか」という風に解釈して、具体的提案を答えたもの。
二つ目は、アンケート内容をそのままの形で捉えて、純粋に「百年後の仏教はどうなっているか」を予想した回答である。
上記のどちらのスタンスを選ぶかによって、多少回答の捉え方にも違いが生じることを考慮した上で、実際の回答を見ていくことにしたい。
まずは、『中央佛敎』の質問者側が、どのような方針のもとアンケートを行ったか。それが示されている冒頭の文章を二つ引用する。

謹啓 時下新綠の○貴臺愈々御淸適の段大慶此事に候 陳者今や世界を擧げて改造の機運に際會致し候折柄獨り佛敎界のみは依然長夜の甘睡識者の間にすら佛敎の滅亡近きにありとの歎聲相洩れ候就ては現下の佛敎界を覚醒せしむべき一服の淸涼劑として『百年後の佛敎』なる題下に連葉返信紙に御高見御披瀝の上六月十日迄に御惠投の榮を賜り度く特に及御懇願候 敬具」(P62)

弊社は時運に鑑み、右の如き端書を汎く江湖の識者に拜呈し『百年後の佛敎』に就いて其の御意見を仰ぎたるに、御繁忙中にも拘はらず弊社の請を容れられ、懇篤なる御解答を賜りたるは深謝に堪えざる所、左に之を錄して些か敎界覺醒に資せんとする次第である。(掲載到着順)」(P62)

一つ目の引用文では、最近、「仏教の滅亡も近いのではないか」と言われている現状がある中で、改めて「百年後の仏教」というアンケート(回答期限:六月十日)を行うことによって、滅亡言説を打ち破るための「清涼剤」にしよう、と宣言されている。
次に二つ目の引用文では、回答を寄せてくれた有識者に対する感謝の気持ちが示されている。また、本記事では、アンケートの回答を到着順に紹介していくことも明記されている。

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それでは、以下より、実際の回答を見ていきたい。(各回答を引用した直後に、「ポイント⇒~」といった形で、内容を簡単に纏めている。)

日蓮宗大學敎授 淸水龍山
 各宗徒の自覺を促すも百年河淸已むことなくんば各宗の現制度組織を解體し之を政府の直轄を爲し、政府は宗敎局を置き嚴正不偏以て僧階の進退住職の任免等信賞必罰鞭撻警策し、最善の注意と努力とを拂ふべし、但し寺院を廢合往昔の國分寺の如く土地の距離に準據して一縣若くは一國に幾許寺を制限し、其の住職は該地方の社會敎導は勿論、小、中、高、專、大學の敎育指導又は關渉し得る底、即ち國師國寶を以てすべし、最古は最新なり、現代の如き荒頽の氣分の停滯を洗滌するには之に過ぎたる淸涼劑なし。噫。
」(P62)

ポイント⇒仏教に関する現制度を解体して、宗教局のもと仏教各宗を政府の直轄下に置く。一定の地域の中で寺院数を制限し、その上で住職となったものは地域の指導者として教育などに積極的に関わっていくべきである。

前豐山大學長 權田雷斧
 現代の消息を以て推考するに、今より一百年後の佛敎は純乎たる優婆塞即ち在家宗と成るべし、隨つて政治に關係する佛敎学問佛敎と成るべし、戒律なき佛敎と變化して修道の實行は頗る衰頽すべし、思ふて之に至れば實に慨歎に耐へざるの感あり、嗚呼。
」(P62)

ポイント⇒百年後の仏教は在家を中心としたものになり、政治的・学問的となる。よって戒律は重視されなくなり、修行は実行されなくなるだろう。

福本日南
 佛敎の滅亡近きに在りといふ者が識者ならば、天日の墜つるを憂ひたる杞人も亦識者ならん。耶蘇敎の亡びず、馬哈默敎の滅びざるが如く、釋迦牟尼敎も亦斷じて泯びず。唯其の振ふと振はざるとは、之を紹述する人に在り。人なる哉。人なる哉。
」(P63)

ポイント⇒栄えているかは別として、キリスト教・イスラーム・仏教は滅びない。

一如洞敎主 武田豐四郎
 精神的盲者たる私たちが何んで當來の佛敎を豫言することが出來ませうぞ。しかし強いて空想を逞しうして私のプレセンチメントを一言致しますれば百年後に於ける佛敎は僧侶の手から離れて篤信の優婆塞優婆夷が辛うじて法燈を護持するやうになりはすまいかと思ひます。それまでの間に宏莊な伽藍や廣漠たる墓地が除かれて、その跡には民衆の住宅が櫛比するやうになり、僧侶といふ特殊階級は次第にその數を減じて行くでせう。
」(P63)

ポイント⇒(私のような人間に予言などできるはずがない、と前置きした上で)百年後の仏教は、僧侶の手から離れて在家が辛うじて教えを護持するような状況になっている。そこには伽藍や墓地などはなく、ふつうの住宅があるばかりである。僧侶の数も減っている。

曹洞宗大學敎授 原田祖岳
 眞實の佛敎豈時に盛衰あらんや。宇宙空じ來るも佛敎は差の盛衰なし、成住壊空塵々三昧なり、而して第二義門頭に立つて信不信の盛衰を計らんか一百年後は有象無象の學敎の迷雲を拂一拂し、無上菩提の太陽を掲げて世界萬國を光濟するの好日なりと信ず、若し斯くの如く信じること能わずんば未だ我が正法を知らざるものなり、信ぜざるものなり、若し我が佛法の大智大悲大機大用を信ずる底の眼力あれば、斯く信ぜざらんとするも得ざるなり、但し決して決して寝て居ての牡丹餅談にあらず、我が無上菩提を信徹するの士は無限の大悲の願輪に乘じ來つて斯の如くせざれば斷じて止まざればなり。
」(P63)

ポイント⇒仏教そのものに盛衰はないだろうが、「人々の信仰」に注目するならば、仏教が世界全体を照らし救う役割を担うことは可能だろう。この可能性を信じられないものは、仏教の教えを理解できていないものである。

鷲尾順敬
 佛敎界と云ふ語に包含せられて居る事實は極めて夥い、今日の寺院組織僧侶生活等は何等の意義がない、問題とすべきものでない、併し是等の事實如何が佛敎の存亡に關係するものと考へてはならぬ、佛敎は今後百年二百年で何等の變化するものでない。「長夜の甘睡」は寧ろ今日の僧侶の獨得の權利である、羨む者は何時にても寺院に入り得度するがよい。
」(P63)

ポイント⇒今日の寺院や僧侶について考える事に意義はない。仏教は百年二百年ほどの時間の経過で変化するものではない。

文學博士 澤柳政太郎
 百年後には佛敎は今日よりも盛であろう、然し丁度今日其の起つた印度や、次に弘まつた支那よりも、却つて日本に存して多少の生命ある如く、百年後には、日本よりも歐米に盛であらうかと想はれる。今日の佛敎家の大反省を望む。

ポイント⇒百年後の仏教は今日よりも盛んになっている。ただ、かつて印度や中国で仏教が勢いを失い、かわりに日本で栄えたように、百年後の仏教は日本で衰え欧米で盛んになっているだろう。今日の仏教家は反省すべきである。

生方敏郎
 百年後には佛敎は篤學者に依つて硏究されませう。併し今日のやうな資本主義的宗敎は佛、耶、儒、神道、共に皆滅びてしまうでせう。むしろそれが當然です。
」(P63)

ポイント⇒百年後にも仏教は研究され続けると思うが、今日のような資本主義に漬かった仏教は他の宗教とともに廃れていくだろう

代議士 佐々木照山
 佛敎の將來は瞿雲の預言の如く更に東漸の兆あり、○は物質萬能の米國が形似下文明に食滯して別に靈魂の糧を求むるとき之に應じて其の需を充たすべきは佛敎ならざるべからず、佛敎は米國に渡りて彼等が僞善的の人道論に代り更に歐洲を經て亞細亞に復歸すべし、其處に佛敎の新生命あり、沈滯不動現狀の儘ならば唯だ自滅あらんのみ。
」(P64)

ポイント⇒物質的に豊かであるアメリカが精神的な豊かさを求めたときに、それに応じるのは仏教でなければならない。仏教はアメリカや西欧で教えをひろめたのち、再びアジアに戻ってくるべきである。そのような過程を経ないで、現状維持を選択すれば、仏教は廃れていくだろう。

壬生雄舜
 一、僧侶自身須らく無明長夜の甘睡より寤むべし。
 二、寺院の制度を敎會制度に改むべし。
 三、寺院財産管理法を制定すべし。
 四、僧侶の參政權を獲得すべし。
 五、完全無缺なる宗敎法を制定すべし、
 斯くして始めて百年後の佛敎は漸く衰滅を免れんか。斯く云ふも障子一枚先きは見えぬ凡夫の事とて不得止過去より現在の狀態を推し現在より將來を豫想して千慮の一端を披陳す。
」(P64)

ポイント⇒百年後の仏教を廃れさせないためには、僧侶一人ひとりが「長夜の甘睡」から目覚めて、寺院制度の改善や寺院財産法の制定、僧侶の参政権獲得、欠陥のない宗教法の制定に努めなければならない

陸軍中將 堀内信水
 百年後の佛敎を知らんと欲せば國亡びて、山河ある今日の印度を視よ、是れ現實の活動寫眞なり。祇園に何の生花が薫り居るか!?! 少林に何處に淸風が吹き居るか!?! 支那に朝鮮に何處に佛敎が活現して居るか!?! 余は佛敎の百年後と云はず大和民族の百年後と云はんとす、何となれば今や日本と佛敎とは一元素にして不可離なり。而して世界中少しく生息し居る佛敎は日本の外なきなり、故に歐米は之れを撲滅せんが爲めに有形無形の赤十字軍を我れに向けつゝあるを知らぬ顔の八兵衞なる僧侶は自分及び其の子孫が滅亡しつゝあるを悟らず、實に可憐也、其罪源は遺敎の「端心正念」を忘れ「浄戒」を破り、「五根之主心」を放棄し先づ自ら「展轉して之れを行はず、如來法身と常に別居」し居るからである。奮起せよ僧侶諸君!
」(P64)

ポイント⇒百年後の仏教の姿は、印度での仏教の現状を考えれば大いに想像できる。今や仏教というのは日本とは切り離せないものであり、世界の国々の中で唯一日本でのみ仏教が息づいている。今後、欧米から様々な思想や宗教が到来し、仏教を脅かす危険性があるため、僧侶はきちんとそれに向き合わなければならない。

曹洞宗大學長 丘宗潭
 佛敎百年の事は兎も角、現今の佛敎大々的覺醒を要す、相互に憤勵して所謂不惜身命但借無上道の境界に住する事第一の要件と存じ候、貴社の如き一意專心此事に從事有之度く御依願申上候。
」(P64)

ポイント⇒仏教百年云々の前に、現今の仏教が覚醒しなければならない。

早稻田大學講師 土屋詮敎
 甞て『日本及日本人』に「百年後の日本」と題し、豫言を徴せられ頗る迷惑を感じたが、今「百年後の佛敎」に關し豫言することは、一層迷惑と申す外無し、佛敎徒の覺悟如何、實行如何、此の觀察により斷案が出來るのである。觀ずるの所、釋尊の豫言として傳へらるゝ末法の實現か、澆季の世か。或は佛陀再現するかも知れず。
」(P64)

ポイント⇒かつて『日本及日本人』から「百年後の日本」について訊ねられたとき頗る迷惑したが、今回の「百年後の仏教」については更に迷惑である。仏教徒の覚悟と実行次第で、末法の世にもなれば、仏陀が再現する世界ともなる

長谷川天溪
 現代の佛敎を救ふ可き第一の方法は佛典の現代語譯なるべしと存じ候、即ち出來得るだけ漢譯を離れて現代の言語と其の脉絡とに從ふことが佛敎を復活せしむる最上の方法と思考仕候漢譯流の佛語を有り難たがりて居る間は佛敎は大病人にて御座候
」(P65)

ポイント⇒現代の仏教を救う一番の方法は、仏典の現代語訳に取り組むことである。漢訳にこだわってはいけない

久津見蕨村
 世相は皆變化性を有して居りますが、之に比すると宗敎は固定性を有して居ると私は見ます。
 二千有餘年前の原始佛敎と今の佛敎とは大分變つて居るやうですが、『百年後の佛敎』と今の佛敎とは餘り變つては居るまいと想ひます、勿論多少の盛衰は免れますまい。
」(P65)

ポイント⇒世相は変わりやすいものだが、仏教には固定性がある。二千年前の原始仏教と現代の仏教を比較すると大分違いを見出せるが、百年ほどの時間の経過であればそれほど変化は生まれないだろう。

文學博士 村上專精
 來年の事さいも豫言致し難い私が百年後の佛敎など如何に考慮しても到底豫想することが出來るものにては無之候間折角の御尋問に候へとも御斷り申より外これなく候、但し現下各宗本山の態度にては餘り繁昌する譯には參りますまい。
」(P65)

ポイント⇒来年のことも予想できない私に、百年後の仏教など予想できるはずがない。ただ現在の各宗本山のあり方から推察すると、百年後の仏教が栄えていることはないだろう。

建長寺派管長 菅原時保
習慣的の宗敎と既成的の佛敎は人知の發達に反し或は其權威を失するも……眞實の宗敎、合理の佛敎は人知の向上と共に益々其光輝を發揮し盡十方世界を照破す……斷乎として疑ふ餘地なし……併し法は獨り弘まらず必ず人に依て弘まる故に願はくは不世出の偉人を得たし……徒らに百年後の佛敎に對し歎聲を洩す勿れ……寧ろ各自分に應じて修養せよ、至囑々々
」(P65)

ポイント⇒習慣的・既成的に存在する宗教・仏教はその権威を失い、真実的・合理的な宗教・仏教は益々栄える。しかし、教えというものは独りでに広まるものではないため、教えを広める偉人の登場を望む。徒らに百年後の仏教を嘆くのではなく、個々人ができる範囲で修養せよ

文學博士 谷本富
 既成宗敎の形を以てしては只惰性に由り僅に隻影を存するのみならん、是れ余輩の今し特に革新を倡導する所以。
」(P65)

ポイント⇒既成の宗教のままでは、ただ影を残すにとどまる。仏教の革新に向かわなければならない。

佐藤鋼次郎
 我が佛敎界にルーターの出づることもあらば格別、然らざれば百年後の我が佛敎は、支那に於ける佛敎の現狀よりも、更に一層憐むべき狀態に立ち到らん歟。

ポイント⇒百年後の日本の仏教界は、今後ルターのような人物が現れない限り、中国における仏教の現状よりも、さらに悲惨な状態に陥るだろう。

文學士 常盤大定
 普魯西が建國百年にして大賢カントを出せるに比すれば我國は今後五十年にして大賢を出すべく、形式は泰西に學ぶもその精神に於ては大乘佛敎を背景とせるものにして、この大思想は其後東洋全般を動かし百年後には國力に於てのみならず、新文化の上に於て東洋の盟たるに至り、以て世界の文化に一轉機を與へん。
 西洋に於て最も今後に期待すべきは何といつても先づ指を獨逸に屈すべし甞て敗殘の屈辱を蒙りし後七八十年にして獨逸大帝國となれる過去を以て將來を推すに今日の敗殘は、眞によく大乘佛敎に觸れ、無我の眞義に徹せしむるを得ん。印度思想の一端のみによつて、ショーペンハワーの如き大組織あらしめたるに見れば、佛敎の根本思想に觸れたる上の新組織には盖し刮目すべきものあらん。
 斯くて百年後には東西兩洋共に大乘佛敎の精神骨髓を以て思想の根柢とすべきも、必ずや共に佛敎を以て標榜とせずして、新思想を以て任ぜん。而して佛敎を標榜する敎界の狀況は今日よりも好望なる見込なし。大體上人格中心の獨立敎國のみが眞の存在価値を有しまた社會事業や慈善事業より離れたる眞の宗敎活動のみが敎化の任に當るを得べし。隨つて其數に於て寥々たるべき眞の宗敎的人格は、却つて居士の中より現はるべく、是に到りて大乘精神一層能く徹底すべし。
」(P65~66)

ポイント⇒プロイセンが建国百年でカントを生み出したように、日本も今後50年ほどで大賢を輩出できるよう努めなければならない。そのために形式はヨーロッパから学ぶも、精神の面は大乗仏教を思想的背景として、東洋全般を動かせるような思想を打ち立てなければならない
西洋において最も今後が期待できる国はなんといってもドイツである。かつて大戦において敗れて、その後七八十年で大帝国となった過去に鑑みても、先の大戦での敗残においては、大乗仏教に触れて無我の境地に達することが望まれる。ドイツと印度思想との接点からショーペンハウアーが登場したことを考えても、仏教思想との接点から生まれるものには大いに期待できる。
百年後には東西両洋で大乗仏教の精神が根付くことが望まれるが、現在の仏教界がそれに応えられるような状況にはあるとは言えない。仏教の教化を行なえるのは、社会事業や慈善事業に従事していないものたちである。優れた宗教的人格は、居士(在家信者)の中から現れるだろう。

豐山大學長 加藤精神
 敎義は世界の學者宗敎家の間に普く硏究せられて、特に深遠なる敎理は彼等學者の獨占するところとなり、僧侶は彼等の前に平身低頭して僅に佛敎敎義の一班を指示せらる を以て無上の光榮と爲すこと恰も大道易者の遠藤隆吉博士に於けるが如くならむ、寺院は檀信徒惣代の命令を遵守する火の番留守居に過ぎず。
 僧侶は二種に分れ一は有識僧侶にして政治、法律、醫術、經濟等を常識として僧侶を兼業とす、二は勞働的僧侶にして專ら葬儀株式會社の日雇人足と爲り糊口するに至る。
」(P66)

ポイント⇒教義は世界の学者・宗教家によって広く硏究される。特に深遠なる教理については学者が独占するものとなり、僧侶は学者に頭があがらず、学者の仏教教義解釈に従う状況となる。この状況は、大道易者界においては遠藤隆吉博士のもとで同じように見られる。寺院については、ただ檀信徒惣代の命令を遵守する火の番留守居のようになるだろう
僧侶は、政治や法律、医術などに関する専門職につき僧侶を兼業とする者(有識僧侶)と、葬儀株式会社の日雇人足となって働く者(労働的僧侶)の二パターンに分かれるだろう。

學習院敎授 鈴木大拙
 百年後と云ふより五十年後又は三十年後と云ふた方がよいかも知れん。近來は何事も急轉直下的に動くやうである。大體の處に於いて、今後の佛敎はどうかと云のに、寺院の多くは破毀せらるべし。貴族的氣分はなくなるべし。因襲に囚はれなくなるべし。社會的に活動すること多かるべし、これが出來ぬことなら佛敎は滅亡すべし。但し此に一の希望あり、何とかして山林的佛敎の淸らかさと、寂しさと、奥床しさとは之を保存する工夫をしたし。
」(P66)

ポイント⇒近代社会は何事も急速に変化しているから、百年後というより五十年後・三十年後を考えた方がいい。今後の仏教界に望むものは以下の通り。寺院の多くが破毀されるべき。僧侶は貴族的気分を捨てるべき。因襲に囚われないようにするべき。社会的活動を増やすべき。以上のことができないならば、仏教は滅亡すべきだろう。ただし以上の要望に加え、山林的仏教の清らかさや奥ゆかしさが保存されるよう工夫すべきであるとも考える。

佛敎大學敎授 梅原眞隆
 今日の樣な宗派とか本山とかいふものを中心とした佛敎は勢を失ふでもあらう、けれどもほんとうの人間の道としての佛敎はだんだん興隆するでありませう。私たちの今日論議してることがきつと實現してくると信じます、こんなにおもふと眞劒にならずに居られません。
」(P66)

ポイント⇒宗派や本山を中心とした仏教は勢いを失い、一方で「人間の道」としての仏教は興隆を見せると思う

天松居士 濱地八郎
 陰陽消長の理は佛法も亦免れざるものにて、今の佛法は此處にて殆んと滅亡すべし、何となれば今の佛法は形式のみありて佛法なければなり、金剛經に「所謂佛と法とは佛と法とに非ず」とあり、今の佛法は所謂佛法なるを以て世間と沒交渉なる時即ち佛法は滅亡せしものなり、故に金剛經に「一切の法は皆是れ佛法なり」と説き給へり、一切の法は皆是れ佛法なりとは世間一切の法即ち佛法なりとの意なるを以て、單に寺院と僧侶とあるとも世間と沒交渉なれば佛法はなきこと勿論なり、
 居士は金剛經の外多くの佛典を讀みたることなし、然れども佛法の第一義は此金剛經に盡きたるものと思料せり、即ち現今の社會を救濟すべき總ての根本義は一々之を説き示しあればなり、故に居士此經を和訓して十數年來世間に流布せり、居士は現今の個人的我儘主義が遠からず行止りて、金剛經に説き示せる如く、各自菩薩となりて自己を忘れて一切の衆生と無餘涅繁に入れて安樂ならしむるを以て人道と爲すことを自覺する時代のあるべきことを信ずるのものなり、現今の社會は個人的我儘主義の時代なり、佛法も亦此我儘主義の爲めに滅亡せり、儒敎も神道も其影響を免れず、然れども各人我儘に行動するときは何事も直に行詰りて自他共に幸福なるものなきに至ること勿論なり我獨り我儘なること能はず人も亦我儘なるべし、人我共に我儘なるとき此に爭あり、故に我を忘れて一切の衆生を安樂ならしむるものなり、居士は此我儘主義の時代が早く行去りて一陽來復して菩薩道即ち人道なることを自覺することの早きを祈るものなり、今の佛法が世間と沒交渉となりしも我儘の爲めなり、僧侶の生活は安樂と云ふに至らざるも、食ふに困らず何事にも手を出さ れば無事なりとの考より然るものなり、然れども世間に生存する以上は結局世間の用を爲さずして濟むべきものにあらず、何となれば世間に用なきものは滅亡に屬すべきは自然の理なればなり、百年後の佛法は世間一切の交渉あるものにして、一切の衆生を無餘涅槃に入れしむべきものなること勿論なるを以て、十萬の佛敎家が早く自覺して我を忘れて菩薩となり、我儘主義の爲めに有形の苦を受け居る衆生を救濟すべき事業に活動すべきことを希望す、是れ佛法興隆の最善の方法なりと信ずればなり。
」(P67)

ポイント⇒今の仏法はほとんど滅亡状態と言っていい。なぜなら、今の仏法は形式のみに拘っているからである。現在の仏教界は、仏法を声高に叫びながら世間と向き合おうとしておらず、没交渉である。金剛経の教えにもあるように、世間にあるあらゆる法を「仏法」とする考え方に則るならば、世間と向き合っていない仏教界の仏法は「真の仏法」とは言えないことになる。
現今の社会は「我儘主義」が蔓延しており、仏教界も例外ではない。よって百年後の仏教界には、まず我儘主義から脱することを期待し、衆生の救済事業に取り組むなど、世間と積極的に関わっていくことを希望する。

文學博士 南條文雄
 「百年後の佛敎」は云ふに及ばず、現今の佛敎も眞實無妄の眞理を體得して自他平等に轉迷開悟の利益を得るに非ざれば駄目なり、虛假不實の凡夫の心ばかりでは自損々他の外なし、自力なり他力なり自利利他の佛の大悲心を顯現するに非ざれば何の面目ありてか佛敎徒と自稱することを得んや。
」(P67)

ポイント⇒「百年後の仏教」は言うに及ばず、現今の仏教は「眞實無妄の眞理」を体得しなければ駄目である。「自利利他の佛の大悲心」を顕現できないのであれば、何を根拠に自身を仏教徒と呼べるだろうか。

豐山派宗務長 小林正盛
 百年後の佛敎! 豫言者にあらざる以上、適確なる御返事は無論出來樣筈なし、然れども現在の狀態、過去の歴史より推斷せば或は予が妄評を許すを得んか。
 過去の歴史が示すが如く、時代人心に順應して、宣傳するものは興り、且つ存すべく時代人心と沒交渉のものは、其の形骸は存すも其の内容は全く朽腐し去りて、何物も留めざるに至らん、法相、三論、華嚴の如きは、全く今日に於て宗敎的活動の存在を認めず、僅かに其の寺門の痕跡に於て、其の遺影を存するのみ、其他の眞言、天台は王朝時代の盛觀なく、浄土、禪、日蓮、眞宗活氣旺盛の觀あるが如きも、これまた、一弛一張、時代を率ゐて百年後の盟主となるものは、其の何なるやは豫想すべからず、併しながら百年後の佛敎は、一大人傑出で此等の各宗派を一團とし眞新佛敎を唱導するあらば、或は、復活の盛觀あるべく、若し、自然の成行に任せば恐くは社會民心の要求を充すの宗派が佛敎の代表として存じ、其餘は、悉く亡滅し去るべし、之れ現在、過去の狀態より推して多く誤まらざるの觀察ではあるまいか、敢て御尋ねに應じ申上候以上
」(P67~68)

ポイント⇒自身は預言者ではないから、正確な返事はできないが、現在の状況や過去の歴史から多少推測することはできる。
過去の歴史が示す通り、時代や人心に順応して、宣伝を積極的に行うものは興隆し、一方で時代人心と没交渉の場合は、形は残ったとしても中身は廃れていく。
法相、三論、華厳については、現今においてほとんど宗教的活動をしている痕跡はなく、ただ寺門が残るばかりで、真言、天台には、王朝時代のような盛り上がりはない。浄土、禅宗、日蓮、真宗については現今において盛んであるが、これらが百年後にも続いているのかというと正直分からない。大事なことは、これらの宗派が一団となって新しい運動を展開することであり、もしこのような動きがなく社会と人民の要求を充たせないようであれば、仏教は滅亡するであろう。

蒲原有明
 貴問「百年後の佛敎」の百年後はおろか五十年後の豫想など出來得べきものでないので、これは空想に過ぎぬこととなる。また「滅亡近し」なども危激の言であるが、現今に於ける日本佛敎が形式に硬化し了りて惰性的に現狀の維持すら容易ならざるものあるは事實である。我等は眞に煩惱と無常の生を痛感して現實に對する信順の一念に現はれて來る綜合の世界に於て同信同證の歡喜を受けつゝ同朋的經營につとめねばならぬのであるが、寺院佛敎としても歷史的勢力のみならず内的統御力を有して居るからには現實に順應して覺醒することに於て新たなる宗敎的意義を認めしめ得るであらう。これが出來ぬ宗派があるならばそれは最早問題外である。
」(P68)

ポイント⇒「百年後の仏教」の予想など空想にすぎない。また「滅亡近し」などの過激の言葉については、現今の日本仏教の悪状態を考えれば分からないでもない。仏教界は、煩悩と無常に満ちる現実と向き合っていかなければならない。これに取り組めない宗派は問題外である。

大谷大學敎授 佐々木月樵
 深く自分の信じて居る宗敎そのものが、百年後は勿論五十六億七千萬年後の佛敎と信じ候。
」(P68)

ポイント⇒深く自分の信じている宗教が、何年経とうと存在している。

曹洞宗大學敎頭 忽滑谷快天
 百年後には佛敎は滅亡して佛敎雜誌のみ殘留すべく、其雜誌は中央佛敎なるべしと存じ候。
」(P68)

ポイント⇒百年後には仏教は滅亡していて、仏教雑誌(『中央佛敎』)のみが残る

可睡齋主 秋野孝道
 お尋ねに仍り強いて應へて見れば、百年後の佛敎は分化せる各宗各派の中より學徳兼備なる大偉人の出現ありて此れを統合し、世界思潮の歸趣を指示する緒に就き、佛陀の慈光照三千界の具體的表現を見ることかと思ふ。
」(P68)

ポイント⇒百年後の仏教界には、分かれている宗教を統合する大偉人が現われ、世界思潮においても中心的な存在になるだろう

柘植秋畝
 無限の時間に比すれば百年は一瞬時に過ぎぬが私の微小な想像力から考へれば、隨分長くて遠い問題であります。從てひきしめた痛切の感じがないと共に、想像も想像、實に眞の想像である。然し明治初年の廢佛時代から既に五十三年は過ぎた。此の半百年の佛敎の變遷移推を回顧すれば、これから百年先きの見當も、まんざら付かぬでもない。過去の五十年は殆ど創業時代であつた。これからの五十年はいくらか眞味の進歩があらう。それから先きの五十年だ、これが最も問題である、つまり見樣次第だが、或は再び過去の佛敎に戻りはせぬか、それとも更に一段の進歩があるか、先づなさそうに思ふ。ありとすれば、日本よりは外國に於て其れが見られるかも知れぬ、僧侶の參政權位は屹度得られるであらう、新しい佛敎などは斷じて起らない、不祥だが國家の前途も案じられる、それと共に佛敎の將來も、何れかと云へば先づ案じられる方である。
」(P68~69)

ポイント⇒自身の微小な想像力からすれば「百年後」というのは遠い問題である。しかし明治初年の廃仏時代から53年が過ぎた時点で、この50年間を振り返ってみれば、まんざら予想がつかないわけではない。過去50年は創業時代であり、次の50年は進歩がまっている。問題なのは残りの50年で、私としては日本国内での仏教の進歩はなく、国外(海外)での進歩はありうると予想する。国内では、僧侶の参政権獲得はありえたとしても、「新しい仏教」が誕生する可能性はない。国家の前途も仏教の前途も、ともに気がかりだ。

帝國大學助敎授 紀平正美
 一切の寺院は古美術の展覧場となるべし。僧侶といふ變なものはなくなり、敎育者が宗敎家たるべし。爾時佛は再度拈華微笑せらるゝであらう。
」(P69)

ポイント⇒一切の寺院は古美術の展覧場所となり、僧侶という変な存在はいなくなる。その代わりに教育者が宗教家のようになるべきである。そうしたならば、佛は再び微笑んでくださるだろう。

文學博士 建部遯吾
 小學敎員以下の住職が半數以上を占むるやうにては『滅亡』の外あるべからず。
」(P69)

ポイント⇒小学教員よりも質の低い住職が全体の半数以上を占めるようになったら、仏教は「滅亡」するほかない。

名敎中學校長 龜谷聖馨
 『百年後の佛敎』に對し、吾輩は二樣の觀察をなす。
 一、今のまゝで進まば、佛敎は百年後には滅亡する。其は今の宗敎家、即ち十數萬の大袖は、俗的勢利にのみ狂奔するからである、釋尊は王位を捨て、一沙門として大法を傳へ給ふた。然るに其の流を汲む今の坊さん達は、法輪を轉ずることを思はず、只世間の榮利を得んことを欲して居る、どうして佛敎は滅亡せずに止まふか。
 二、釋尊出世の本懐にして、佛敎の根本法輪たる華嚴の大法を世界に弘通すれば、百年後どころか、永遠に佛敎は盛になる此の大法を轉ずる、果して誰が任であるか。
」(P69)

ポイント⇒『百年後の佛教』に対して、私は2パターンの予想をたてる。
一、現今の宗教が今のままでいるならば、百年後に仏教は滅びる。なぜなら現今の僧侶は世俗の成功に囚われてしまっているからである。釈尊を見習え。
二、仏教の根本法輪である華厳の大法を広めることができれば、仏教は何年経っても滅びない。誰がこの役割を担ってくれるだろうか。

大谷大學敎授 廣瀨南雄
 この頃の若い僧侶にその子供を僧侶にする積りかと訊けば、大槪は「もう僧侶は自分で懲り懲りした、自分の可愛い子供は決して僧侶なんかにしたくない積りだ」といふでせう。若し今日の僧侶が佛敎を嚴護する唯一のものであり、今日の僧業が佛敎の精神を正しく具現して居るものであるとしたならば、百年後の佛敎は滅亡しない迄も、今日以上に餘程影の薄いものとなつて仕舞ふでせう。けれど私は佛敎の眞實のものがそんなものであるとは信じられません。寧ろ垢落ちて却つて佛敎は新しく、若々しく蘇へることでせう。
」(P69)

ポイント⇒最近の若い僧侶に自分の子どもを僧侶にするかと訊ねると、「僧侶なんかにはしない」という言葉が返ってくる。今日の僧侶の取り組みがある程度正しいものであるならば、百年後も仏教は存在しているだろうが、影は薄くなっている。けれどもそんな状態になってこそ、むしろ仏教は新しく蘇るだろう。

岡本貫玉
 欽復 今回御照會の件案見も相立ち申さず候得共吾が敎界の墮落し其底止する所を知らず候、然れども窮すれば又通ずる事ありとせば百年後の佛敎は強度の淘汰が行はれて、苟も行ひの伴はざる能辯は如何に能辯なるも半文の價値なきのみならず、人唾して顚みるものなく此時行事堅固の比丘僧在りて世の尊重を受け、心田開拓者として敬禮せらる、茲に於てか佛敎再び暉きを増し從て世人も自省自覺いたし候事と存じ候。草々。
」(P70~71)

ポイント⇒百年後の仏教は度重なる淘汰が行われて、口だけが達者な僧侶は価値を失い、堅実に宗教活動を行う僧侶が尊敬を受けるようになる。こうなれば、仏教は再び輝き始めるだろう。

山田孝道
 百川海に入て竟に一味に歸す、十三宗五十餘派悉く泯滅して一佛法となる、況して、本山、末派、禪師僧正律師僧都等の如き、人爲の階級、禪浄自他勝劣の如き敎理の差別あらん。イヤ寺院なる特種の建物、僧侶なる專門の職業も存せざるべし。斯くて眞の佛法活動するならん。
」(P70)

ポイント⇒各宗各派の区別がなくなり一つになる。禅師僧正律師僧都のような人為の階級や教理の差別はなくなり、仏教に纏わる建造物、僧侶という職業自体もなくなる

木村鷹太郎
 佛敎は印度に起源したものに非ず。釋迦は印度に生れた者に非ず――とのことに氣付かぬ時は、先づ學問上佛敎は馬鹿らしいものとなる。若し夫れ「印度妄着」主義を脱して全世界的に佛敎を硏究し、説明することにならば、從つて全世界的大運動が起り、佛敎は世界統一的の宗敎となるであらう。
」(P70)

ポイント⇒仏教はインドを起源とした宗教ではなく、釈迦はインドに生れた者ではない。このことに気付けない場合、仏教は学問的に馬鹿らしいものとなる。もし「印度妄着」主義を脱して国際的に仏教を研究するようになれば、仏教による全世界的な運動が起り、世界統一を望める宗教となるだろう

高野山大學敎授 長谷部隆諦
 アインスタインのやうな優秀なる硏究家が時々出て來て種々なる方面に新設を立てたり、發見もしたりして今後の科學は、愈々益〻進展して行くが、要するに電子説の確證と、其れを自由自在に應用すると云ふ事が何と言つても、今後數十百年後の世界に於ける豫定の大事業で有る。果して此れが眞實で有るとすれば、必ず其れに伴うて人類の生活……經濟界も道徳界も千能萬狀に變動して、結局今日より一層神經質に成つて來る。換言すれば人類の感受性が益〻強烈に成つて來るから、其の樣な時代に最も適當した宗敎は、今日でもさうであるが、三昧の境に在つて加持感應の妙用に依り、即身に成佛するといふ眞言密敎がいや榮えに榮ゑて、愈〻其眞價を發揮する事は疑ひ無き所で有る。
」(P70)

ポイント⇒アインシュタインなどの研究者の活躍によって今後科学は進展を続けていくが、今後予想されるのは「電子」の応用を巡る日常生活・経済・道徳の変化である。その様な時代に対応できる宗教というのは、即身成仏を説く真言密教に違いない。

精神運動主幹 伊藤證信
 佛敎は百年後にどうなるか、今から測り知る事は出來ませんが、佛敎者が今のやうな狀態で居たら益〻滅亡に近づく事、佛敎者が覺醒し奮發しさへすれば、佛敎は必ず復興する事は確かだと存じます。要するに佛敎者其人の奮發次第だと存じます。
」(P70)

ポイント⇒仏教が百年後にどうなるかなど予想することはできないが、仏教者が今のような状況でいたら滅亡に近づき、仏教者が覚醒し努力すれば復興するだろう。つまり、仏教者の努力次第ということになる。

大森亮順
 世界交通の發達が列國の政治經濟の事情を急激頻繁に變化せしめ、從て一般思想界が其影響を受けて常に大なる渦を巻き起し混亂しつゝある中に、獨り佛敎のみ圏外に居るを許さないのは勿論である。今後の百年間に佛敎界は恐らく空前の大變動を生ずるであらうが、私は今それを豫言する何等の智識もない、只漠然と自分の想像を申して見るだけである。
 傳敎大師は「末法には唯名字の比丘のみあり、この名字をば世の眞實となす更に福田なしたとひ末法の中に持戒の者あらんも既に是れ恠異なり市に虎あるが如し」と仰せられた、大師の在世も既に名字無戒の比丘のみであつたとすれば、之を現今の實際に見今後百年の間には更に一層甚しきものがあるであらうと思ふ。
 一 佛敎敎理の硏究は篤學なる外人の刺擊を受けて大に盛んになる、但し僧侶よりは寧ろ俗人の間に多く硏究される、從て信仰の方面は反て衰へる。
 二 既成宗派は今後當分の間は大に分裂し遂に或は百餘派にも達するが其後種々の事情に迫まられて合併統一が始まり百年の後には僅かに五派か六派になる。
 三 寺院は貧小のものも二十年三十年は氣息唵々として餘喘を保つが遂には漸次大寺院に併合せられ、極く小數の強固なる大寺院のみ殘ることになる、而して各寺院の財産は個々の所有を離れて凡て所屬宗派の有に歸する。
 四 僧侶は單純なる儀式執行を掌る職業的のものとなり終る爲に外形上名字の比丘としては現今より反て整頓されたものになる、但し特に傑出したる名僧高徳は全くなくなるであらう。
學問僧、傳道僧、事務僧、などはなくなり其等は凡て俗人の信徒が之を取扱ふことになる。
 五 日本の神道は神佛一致の思想が再興して遂に佛敎と共に宣傳され又は其儀式を執行することになる。
 以上は夢の樣な私の想像である、私は現今の佛敎は非常の速力を以て舊形の蟬脱に急ぎつゝると思ふ。而して遂に新らしき何ものかゞ其處に生れ出づることと思ふ、乍併變化の一々には皆佛祖の眞精神が常に顯現しつゝあるものと信ずるのである。
」(P71)

ポイント⇒国際化の渦に、当然の如く仏教ものみ込まれる。伝教大師は「末法の世になれば、名ばかりの僧ばかりになる」と述べているから、百年後の日本は、戒律をたもっていない形だけの僧侶にみちていると予想できる。
 一 仏教教理の研究は、海外勢の参加により大いに盛り上がる。ただその中心を担うのは僧侶ではないため、信仰の面は衰退する。
 二 今後、仏教はさらに分派を繰り返すが、百年をめどに統一が始まり、五六派に纏まる。
 三 寺院も百年をめどに統合の動きを見せる。各寺院の所有する財産は、宗派全体のものとなる。
 四 僧侶は儀式を行うだけの職業的な存在となり、名僧が誕生する機会はなくなる。学問僧、伝道僧、事務僧などはなくなり、それらは凡て在家信徒が担うことになる
 五 神道において「神仏一致の思想」が再興して、ともに儀式を執り行うようになる。
 仏教界には旧型から脱して、進歩していこうという姿勢が見られるが、そこには仏祖の精神が満ちていると信じている。

文學博士 加藤玄智
 拜復 御同樣の御質問は既に「日本及日本人」に於て提出せられ申候、その節は耶蘇の言葉を以て致し候、今回は同樣の御返事を釋尊の金言を以て致し度くと存じ候
 愼勿念過去、亦勿願未來、過去事已滅未來復未至、現在所有法、彼亦當爲思(中阿含經、四三巻)
不取敢小生の立場御應迄、早々不一。
」(P71)

ポイント⇒同様の質問を「日本及日本人」からされたときはキリストの言葉をもって返答したが、今回は釈尊の言葉をもって答える。(過去と未来に右往左往せず、現在の仏法を考えることの重要性が説かれている。)

毒鼓主幹 田中智學
 お尋ねのことは小生に取りては中々の大事件に付、卒爾には述べ兼ね候故いづれ好機を得て卑見可申述候へ共今の佛敎は何宗にても一旦滅失した方がよろしと存じ候。
」(P71)

ポイント⇒(詳しい返答はまたの機会にゆずるとして、簡単な返答をすると、)現今の仏教諸宗派は、一旦すべて滅びた方がいいと考える

高島米峯
 「百年後の佛敎」は敎理は哲學として學者の拈弄に委し寺院は極めて小數なる特別保護建物を除きて他は大抵學校、病院などに改造せられ、僧侶は葬式法事株式會社の使用人として經を讀むものもあらむ、たゞ別に居士宗佐人宗の建設あるありて佛敎の宗敎的方面光を放たむ。
」(P71)

ポイント⇒「百年後の仏教」について。仏教教理は一つの哲学として学者に研究され、寺院は(歴史的価値から)保護すべき建築物は除いて、大抵は学校・病院などに改造される。僧侶については、葬儀会社の使用人としてお経を読む存在となる。ただそれとは別に、在家信者を中心とする宗派が起こり、仏教の興隆に一程度の貢献を果たすだろう

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回答の内容として、一番多いパターンは、「~しなければ、仏教は滅びる」というもの。ここでは、1920年時の仏教界が、現状維持を志向してはいけないほど、芳しくない状態にあることが前提とされている。また、ここで否定的に捉えられている「仏教界」というのは、主に僧侶が中心となっている「仏教界」のことを指す。「百年後の仏教は栄えている」と明るい未来を予想する有識者のほとんどは、僧侶というものに期待しておらず、在家信者や海外の信者(及び研究者)に肯定的な眼差しを向けている

ならば有識者は、「僧侶」の百年後をどう予想したか。以下に代表的な回答を纏めてみる。

武田豊四郎⇨在家中心となり僧侶減る。
加藤精神⇨兼業としての僧侶(有職僧侶)または、葬儀株式会社に日雇人足として働く僧侶(労働的僧侶)。
紀平正美⇨僧侶自体いなくなる。
山田孝道⇨僧侶自体いなくなる。
大森亮順⇨僧侶は儀式を行うだけの職業的な存在になる。
高島米峯⇨葬儀会社の使用人として働く僧侶。

僧侶数の減少から存在自体の消滅、または「僧侶」が「葬式でお経を読むだけの職業」となるなど、様々な予想が立てられているが、総じて消極的なものが多いことが分かる。

以上、様々な予想に触れてきたわけだが、ならば実際に2020年時点の仏教界はどのような状況にあり、何が問題となっているのか。
現在の仏教界では、よく「現代人の宗教離れ」「檀家制度の維持の困難」が問題視される。またそれに派生して「葬式仏教」に対する疑問の声も噴出してくる。
これらのマイナスな印象を少しでも払拭するために、「超宗派」的に社会事業に参加する僧侶たちも現れた。また、「布教を目的とせず、病院など公共の場で働く宗教者」(注1)である「臨床宗教師」という肩書をもつ人たちの活動が「東日本大震災」を一つの端緒として始められ、「葬式」以外の場で人々の「死」や「苦しみ」と向き合う仏教者の動きが活発となっている。1920年の予想の中には、「僧侶が意識的にならなければ、仏教は滅びる」「僧侶は社会と没交渉でいてはいけない」という発言が多く見られたが、それらの指摘に応えられている僧侶が一定数いることは心に留めておきたいところである。

「百年後の仏教」のようなアンケートをとることは、ただ単に未来予想を促すだけでなく、正しい「現在」の認識よりよい「未来」を作るための提案を生み出す。1920年時の有識者が「百年後の仏教」について考えることは、「現今の仏教はどのような状況にあるのか」「今後仏教界は何に取り組んでいくべきか」という問いに答えることと同義であり、そこには諦念と期待が入り混じった有識者たちの本音が染み出ていた。そして、現代に生きる私たちが、この「本音」に触れることは、大変意義があることだと思っている。100年前の未来予想を総括できる人間は、100年後を生きる私たちしかいないのだから。

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「百年後の仏教」という記事に出会ってしまったことで、長々と文章を書いてしまいました。
私が今回取り上げた『中央佛敎』のように、まだ内実が分析されていなかったり、記事の一つひとつにきちんと目が向けられていない雑誌は多くあります。そういった雑誌に出会えるのが「古本屋・古本市(古本まつり)」の魅力だと思っていますので、みなさんもぜひ足を運んでみてください。

ご覧頂きありがとうございました。

【脚注】
○注1:藤山みどり『臨床宗教師 死の伴走者』(高文研、2020、P2)



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