本ノ猪
読書から日常を変える。
読書から日常を変える
京都駅を利用するたびに、思うことがある。この構内を行き交う誰一人として、自らの手で人生をスタートさせた人間はいないという現実を。 どの時代に生まれ、どの地域に生まれるか、そしてどの家庭に生まれるかさえ、自分で選択することはできない。与えられた一つの「偶然」を、引き受けて生きていくしかない。 京都駅内にて、私の前を通り過ぎていく人々は、少なくともその一時について、偶然から始まった自身の人生を受け入れている。ここで「少なくともその一時について」なんていう言葉を付け加えたのは
その日の朝は、最悪だった。 目覚めるとともに、鈍い頭痛に襲われ、起き上がると吐き気も追撃してきた。 とりあえず痛みが退くのを待つ。退いてくれさえすれば、何とかなる。 壁の一点を見つめ、ひたすら無心でいる。すると、頭痛の方は少しやわらぎ、何とも言えない吐き気だけとなった。 この体調悪化は、日頃の疲れを取れ、という警告だろうか。だとしたら、それを受け入れるだけの時間的余裕はある。本日は日曜日、特に所用のない一日だった。 いつもは容器を見るだけでテンションが上がる、黒み
これまでにnoteの方で何度も言ってきたことだが、私は普段お酒を飲まない。飲む習慣がない。 友人と食事をした際、付き合い程度に飲むことはある。あえて自らお酒を手に取るということはない。 酒を飲まない私を前にして、酒飲みの友人たちはこうぼやく。「酒でも飲まないとやってられない」と。彼らから激務話を聞かされては、「それならやむなし」と思うけれど、完全に納得しているわけでもない。自分の場合、ストレスが溜まれば、お汁粉(ぜんざい)を作って食べるようにしている。それで大方は解消
友人・知人の家族から、ときどき、買い物に一緒に行こう、と誘いがくる。断る理由もなく、むしろありがたい話なので、「行きます」と反応する。 このお出かけにおける私の役割は、お子さんの見守りである。夫婦でショッピングを楽しんでいる時間、どうしても手持ち無沙汰になってしまう子どもの遊び相手になる。大切な子どもを任せるということは、ある程度信頼されている証拠なので、その信頼に応えたいと任務を引き受ける。 * 知人夫婦が私のことをお子さんにどう紹介しているのか知らないが、「質問
謝ること、と、許すこと。私はこれまで生きてきて、この二つを満足にこなせたためしがない。 するにはするが、いつも消化不良で終わってしまう。 とくに後者に関しては、そもそも機会を設けること自体を忌避して、そのまま相手との関係が疎遠に……なんてことが少なくない。少しずつ進む修復の経過に耐えられず、スパッと関係を切った方が楽だと思ってしまう。まあ、そう思ってしまえる程度の関係性でしかなかったと捉えれば、何事もすんなり呑み込めてしまう実情もあるが。 * 直前で言ったことを撤
みなさんは、本の帯について、何か思うところがあったりするだろうか。 友人数人に訊ねたところ、気にしたことすらない、と言われてしまった。まあ、それが普通かもしれない。 「〇〇って、本の帯についてだけは、辛口だよね」と友人の一人がいじってくる。そうなのだ。基本、本にまつわるあれこれについて、温かい眼差しを向けることが多いのだが、こと本の帯の話になると、ネガティブさが増してしまう。 私は、帯文をきっかけに本を買うことはほとんどなく、むしろそれを理由に本を買わないことを決め
本を読んでいると、気づく。一時癒されることはあっても、一生涯付き合うことになる問題があることに。 その代表例は、「孤独」の問題。 「孤独」の厄介なところは、側からはその人が孤独感を抱えているかを判断できないという点にある。一見すると、友人に恵まれ、多くの支持者・応援者に囲まれている人が、実際は孤独感に苛まれているケースがある。一方、一人でいることが多く、お世辞にも人間関係が豊富であるようには見えない人が、孤独感とは無縁な生活を送っている場合もあるだろう。 現在ではSN
一時期、ある大学の研究室に通い詰めていた頃のこと。 ある日、いつも通り訪ねていくと、普段と研究室前の様子が異なることに気づく。それもそのはずで、私は誤って一つの下の階の研究室に来てしまっていた。 部屋の前には、本が詰まった箱がいくつも置かれていて、付近の壁に「ご自由にお持ち帰りください」という紙が貼られていた。 当時自宅には、まだまだ本を置くスペースが残っていたので、このメッセージに欣喜雀躍して、それから意識的にこの場所を訪れるようになる。 十冊前後は持ち帰ったと思
古本まつりに足を運ぶと、毎回ではないが、見知らぬおっちゃんと立ち話をすることがある。お互い分かっているのは「古本が好きなのだろう」という情報だけで展開される会話は、刺激的だ。「なんかいい本、見つかった?」と声をかけられて、「そうですね……」とすぐに反応できるのは、おそらく古本まつりの会場だけだろう。 * 最近足を運んだ古本まつりでは、おっちゃんに片岡義男の本を勧められた。「青春の本なんだ」と熱く語る姿を見せられると、もう読まないわけにはいかない。 とりあえず手に取っ
「失われた30年」という言葉がある。これは、バブル崩壊後の、日本の経済の長期低迷を意味する。私の人生は、この30年の只中にあって始まった。 ご年配の方が多く集まる会で、自己紹介などをすると、少なくない人から「それは辛いのー」と気の毒がられる。その大半は生まれた年に起因するもので、「いつ生まれるかは、自分では選べんからな……」と嘆かれてしまう。 嘆く先輩諸氏を見ていると、自分が考えている以上に、「失われた30年」というのは重い現実であることが分かってくる。 * 生ま
今ではへなへなな私でも、十代の後半ぐらいまでは、人と違ったこと、新しいことをして評価されたい、という願望を持っていた。 この願望の第一の関門は、そもそも自分のしようとしていることが、本当に「新しいこと」なのかを見極めるところにある。大抵の場合、この作業の過程で人は挫折する。見極めのための確認作業を途中で放棄するか、すでにしている人を発見してしまうか。どちらにせよ、「新しいこと」を成し遂げるのはそれだけ難しい。 * 私にとっては、研究活動は身近なテーマなので、それを例
喫茶店や定食屋で食事をしていると、隣席での会話が耳に入り込んでくる。そこに興味深い言葉を見つけると、どうしても話の内容が気になって耳を澄ましてしまう。典型的な盗み聞きである。 そのときいつも思うのは、世の中、不満だらけだ、ということ。会話の内容の大半は、ネガティヴなワードで占められている。家族への不満、同僚についての愚痴、政治家に対する非難……その中には積極的になされるべきものもあるが、食事中に側から聞いている身からすると、「せめて食事中はポジティヴな話をした方が、料理も
ある作家の作風に心惹かれて、その人の全作品を漁っていく。この活動を「本」に当てはめたとき、その対象は必ずしも「著者」だけに限定されない。 これまで色々な本好きに会ってきた中で、特定の装幀家・デザイナーが生み出した本を追いかけてきたという人は、想像以上に多い。 よく耳にするのは、和田誠と真鍋博。誰が著者であるかは重要ではなく、とりあえず和田誠や真鍋博が携わっているのなら、買い求める。こういう熱心なファンに、私は三人ほど会ったことがある。 一人目のファンから話を伺ったとき
同世代、または少し上の世代の友人・知人に、ちらほら子育てを始める人が出てきている。会って話しをすれば、話題の中心は自然と「子育て」に。私は当事者ではないから、彼らの話に「そうなんや〜」と相槌をうつしかない。話題が面白くない、というのではなく、「子育て」というテーマ自体に私はどぎまぎしてしまう。 * こういう心理状態をよそに、友人たちは積極的に「子育て」の話をしてくる。それがただの体験談であれば、こちらはただ聞いているだけでいいので気楽なのだが、なぜか彼らは私にアドバイ
「客観的に読む」とは何か、ということを時々考える。 読書の面白さ、および、本の内容や周辺情報について論じることの奥深さに気づいて間もない頃、できるだけ客観的に読みたいという情熱に取り憑かれはじめる。 「取り憑かれ」という表現を用いるのは、そのときの私の読書が、明らかに間違った方向に進んでいってしまったことを、今では反省しているからだ。 当時私は「客観的に読む」を、読書から「感動」を排することだと捉えていた。つまり、読書中に感動するな、心を動かされるな、ということであ
* 冒頭から、何故90年以上も前の天気の話を読まされているんだ? そう思われた方も多いだろう、思って当然である。 執筆者である気象予報士の平沼洋司が、この引用文の後に、どんな話を展開していくかというと、作家の芥川龍之介が登場する。 私には突飛に思われたが、もしかすると「昭和二年の七月」という時期から類推して、芥川龍之介のことを思い浮かべられる方もいるかもしれない。私はそういう人を、純粋に尊敬する。 芥川は七月二十四日の早朝、自ら死ぬことを選んだ。自死である。平沼は、