見出し画像

  

 皆さん。
 今晩は。 
 お正月の三が日もあっという間に終わり、明後日で世間はお正月明けの日常に戻ろうとしております。

  


  私が、忘備録や、記録などとして残しておくためにも、思ったり、感じたりしたことを、つらつらと書いて行こうと思います。
  もし、内容などが意味が判らないことや、めちゃめちゃな時があれば、すみません。



  これから自分で書いて行き、自分が書いたものがどこに辿り着くのかが不明です。
  自分自身、全く先が読めませんので、ご容赦ください。
  



 私が思い返すと、自分が子供の頃、物書きになるのが夢で、文章で表現をしたかったという夢が、当時はありました。
 しかし、当時の私は自分の日記や、自分で作った小説もどきを書いていたのですが、私の兄弟が、勝手に私が不在の時に私の部屋に入り、私が当時書いた日記や、小説を勝手に私の部屋の中から、私がどんなに隠しても探し出し、それを私に勝手に許可なく読み、私や、私の家族などに、私の当時書いた日記や、自分で作った小説の内容を、私自身や家族に話したり、内容をバラすという事をされ続け、私は自分の部屋に鍵をつけたかったが、それを親は許さず、私の兄弟は、私が不在に時には、私の部屋に入り放題だった。 
 私が書いた日記や、小説などは読み放題。 
と好き勝手を散々され、いくら止めて欲しいと言っても、全く行いと改めなかった、私の兄弟。 そして、その行為を咎めることもなかった、私の親。 
 



 そのうち、私は自分が書いたものを、誰にも読まれたくなくなり、日記などを書くという習慣は、私の人生からは失われた。



 それは、言い訳になるかもしれないが、書くという習慣を失った
私は、ブレインダンプや、モーニングページなどや、目標を書くことさえもしなくなった。



 もしあのままブレインダンプや、モーニングページなどを仮にやれば、兄弟には読まれ、絶対に内容をバラされるし、いくら兄弟に、読まないで欲しい、私が書いた内容を言わないで欲しいし、嫌だと言っても、私がいくらそれらを書いたノートを、私の部屋の中に隠しても私の兄弟は見つけ出して、必ず見て、その内容を私の親などにバラすからだ。




 正直に言うと、私は自分の家族が大嫌いだった。



 私の兄弟とは、私が幼い頃から犬猿の仲だった。
 他にも色々とあるが、人の日記や、小説などを私の許可なく勝手に見て、それを書いた本人や、他の家族などに話すという行為をする兄弟が、大嫌いだったし、私と私の兄弟とは、髪の毛を引っ張り合い、殴る蹴るなどの喧嘩も多かった。

 
 父は、フルタイムで働いていたが、アルコール依存症で、また気も短く、本人がイライラとする沸点が、異常に低く、何かあると、素面でも、すぐにカッとし、怒鳴ったり、当時子供であった、私や兄弟にも、母にもすぐにDVをする人だった。

 


 私達が子供の頃は、時代的に女性は専業主婦の時代で、今みたいにDVが原因で、離婚が簡単にできる時代背景ではなかった。

  

 また、離婚をするケースが少ない時代でもあり、学校の同級生で、両親が離婚をし、苗字が変わった同級生が居ると、当時の大人達に、陰で後ろ指をさされ、あることないことを、陰で言われる時代でもあった。



 私の父は、自分の子供達が非力なのをいいことに、素面で、何かにつけイライラすると、理由もなく、父は拳を握り、私達子供に拳を振り上げ、父の拳が私達に振り下ろされると思った私達は、反射的に、私の手を自分の頭の上に持ってきて、父の拳を自分の頭に受けないように身構えるが、父の拳が、自分の頭に振り下ろされなく、父を見上げると、当時の父は、ニヤニヤと笑って、私達子供を見ていた記憶が、忘れらない。
 

 今思い返すと、父は彼なりの理由でムシャクシャかイライラをし、その腹いせに、私達非力な子供に対し、殴るフリをし、怖がる子供である私達の反応を見て、楽しんでいたのだと思う。 



 今思うと、なんてひどく幼稚で、精神的に幼く、精神が子供のまま大人になった人だったのだろう、と思う。


 それでも、父は衣食住は、私達子供に一応与えてくれたので、その点ではマシなのかもしれないが、当時の私は子供心ながら、父は何かすぐに本人が気に食わないことがあると、アルコールが入っていようが、素面だろうが、拳を振り上げる。 
 父本人は歯を食いしばり、彼は自分の拳を握り、母も含め、力任せに殴る蹴るなどのDVは、日常茶飯事だった。



 父は、外面は非常によく、自分はいかにもいい人間ですというのを演じていた為、母は父のDVや、アル中などは見抜けず、結婚をしてしまい、結婚後に、父の本性が発覚し、母は母の実家に、母の実の父(私の祖父)に離婚したい。出戻りたいと泣いて行ったそうだが、私の祖父は、母の離婚や出戻りを許さず(その当時は、出戻りは後ろ指をさされ、友人、知人、親戚、近所の人の恰好の噂になった時代だったらしい。)、母は耐え抜くしかなく、また父の両親(母の義理の両親で、私の父方の祖父母)にも、離婚をしたいと言ったが、離婚だけはやめて欲しいと、義理の両親に散々引き留められ、当時の時代背景では、もし母が離婚をし、私達子供を連れても、経済的に今より困窮し、母子家庭の生活は大変だったと思う。



 小学生当時、父とは一緒に住みたくはなかった私は、母に離婚をして
と散々お願いをしたが、答えは否の一点張りだった。

 


 小学生の時、私は家出をし、母方の祖母に、一緒に住みたい。
 父の子供で居たくないと言っても、受け入れてはもらえず、私は両親が居る家に戻るしかなかった。




 父方の祖母に、父をなぜあんな人に育てたのか? と 小学生の私が、当時父方の祖母に問うと、父方の祖母は私の問いが気に入らなかったらしく、子供が偉そうにいうな!  と怒られ、当時の私は祖母に、父の事に関し、散々文句を言ったり、つっかかったりした。


 また、父方の祖母の考えは、内孫、外孫という概念があり、生憎父は次男だった為、父の子供である、私達は、外孫という扱いもされ、父の兄は長男で、父の実家を継ぐ人だから、父の兄(私の伯父)の子供達は、内孫で、父方の祖母により、私の伯父の子供達である内孫と、私達外孫との扱いの差別が、かなり激しかった。



 例えるなら、元旦は外孫である私達は、父方の祖母宅には行っては駄目。
 何故ならば、元旦は内孫の一家が、祖母宅に来る日だから。 
 1月2日は、毎年外孫の私達一家が、父方の祖母宅に行くのが恒例だった。
 当然、お小遣いや、お年玉や、入学祝いなどは、内孫は両方とも男子だったので、女子だった私達外孫とは、金額が違うのも当たり前。
 お小遣いをもらう頻度も、内孫は多く、外孫にはたまにしかあげない。 
 



 父方の祖母が言うには、内孫と外孫には差別をするのが当然でしょう?と。




 長男である伯父や、内孫達には、将来祖母の面倒を見てもらうのであり、次男である、父や、外孫の私達は、父方の祖母の面倒を見ないし、父は母の実家に婿にやったのだから、という父方の祖母の言い分だったが、
私が母方の祖母から聞いた話によると、結婚式の招待状を、私の両親が出し、結婚式の直前までは、私の父は、母の父(私の母方の祖父)に、母の姓を名乗り、籍を入れる約束をしていたらしいが、結婚式の直前になり、急に父が、母が父の姓を名乗らなければ、結婚はしないと言い出したらしく、母の父(私の祖父)は、父の翻意に約束が違うと、かなり激怒をしたらしい。




 しかし、当時の時代背景というか、当時の世間の常識では、結婚式直前に結婚を取りやめるというのは、他人や、親戚や、身近な人達から後ろ指をさされ、何をどう言われ、かなり悪い噂をされるか、ある事無い事を言われ、どう悪く言われ、どう評価をされるか、といった時代で、当時の母にそんな辛い立場にさせたくなかった私の祖父は、泣く泣く父の翻意を受け入れざるおえなかった、という話を、悔しそうに当時子供の私に言った母方の祖母の言葉や、表情、態度などが、今でも私は忘れられず、それの話を聞いた私は父を更に軽蔑をし、更に嫌っていた。
  


 自分に気に食わないことがあると、すぐに怒鳴り、手を上げ、蹴るなどのDVを私達家族にし、男だから力任せで、何でも自分の意のままに従わせようとした父が、私は大嫌いで、正直にいうと、今でも許せない。



 私は汚部屋と物屋敷の中間にいると、一番初めに書いたが、私がいる汚部屋と、物屋敷の中間に至る今までの人生や、生き方、習慣などが、成育歴にもあるのだろうな、今まで自分なりに情報を集め、学んだ結果、機能不全家族や、私の成育歴などにも関係があり、物事は何事も全てリンクをしているというのが、私が辿り着いた答えの一つなので、一見すると、全然関係ないじゃんと思われるかもしれないが、多分何かしらが関係してくると思うので、忘備録や記録をいう意味も含め、書いて行こうと思います。




 取り止めもなく、つらつらと書いて行く予定です。




 もし、読んでくださる方がいましたら、よろしくお願いいたします。



 


いいなと思ったら応援しよう!

ひかり @モノ屋敷の実家を、絶賛断捨離中。同時進行で、汚部屋とモノ屋敷の部屋の脱出を目指し中。
よろしければ応援お願いします! いただいたチップは、実家の断捨離費用や、私の記事や記録忘備録などの活動費に使わせていただきます! ありがとうございます!