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知りたくなどなかった、愛しい喜怒哀楽たちへ
拝啓 私の愛しい喜怒哀楽たちへ
はじめに正直に書きます。書いてしまいます。
言わないできたので、ここでくらい書かせてください。
わたしはあなたたちに出会いたくなんてなかったです。
貴方達に出会わなければと心の中で何回だって思ってきました。
経験したくなどなかった物事で出会った貴方達。
貴方達と、私は出会いたくなかった。
近しいものになりたくなかった。
強い悲しみ・憎しみ、絶望感、無力感。
「人」というものは見えない方がいいのかも
前回、「人が居るということ」という記事を書いた。
その時の気持ちの方向性は
人がいることを、わすれないようにしなきゃねぇという方向性だったと思う。
ただ、ここ数日お茶をしながら、ZOZO関係のニュースとか見ながら思う。
あー、なるほど。
何かを売りたいなら
何かになりたいなら、
何かを作りたいなら
その「人」というものは見えない方がいいのかもしれないな。
そんなふうに思った。
例えば物
人が居る、ということ
私たちは、とかく「そこに居るのは人である」を忘れがちだなあと思う。
システムの裏には人がいる。
私たちが相、対しているのは人である。
人はいろんなものをシステム化することで、
無機質化して「人同士の接触」をなくすことで
何かに集中するための時間を作り、気をすり減らすことを減らし、
発達したり、効率化をあげたりしてきているけれど。
そういっても。
ちゃんと扉を叩いて、やりとりをしていけば
加害者に足りうる私を選ぶということ
前々前回ぐらいのノートに
「ちゃんと大人になったのだから能動的な加害者になるのだ。」と、書いた。
それは感覚的な言葉で、気持ちに合うけど、なんだ?加害者…?というかんじ。
当時はそれ以上の言葉がなかった。
そのノートを書いてからしばらく、なんだかあまり書き物をする気分がしなくてそんなに物を書かずにきた。
色々思いつつ、生活しつつ
人の加害性ってなんだろうなーということについて
時折思い出しなが
自分のこえを、やっと好きになりはじめた
はじめて自分の声を好きじゃないと思ったのは、そういえばいつの頃だっただろう。
定番ではあるが、小学生低学年のカセットで録音した声というのを初めて聞いた時か。
それとも音楽の授業で、女の子たちが歌える歌を地声で歌えず、恥ずかしかった時か。
私の声は女にしては低い。
オーケストラでソロパートが始まった時に
その音色がはっきり届くものと、一瞬どこから鳴っているか迷う、そういう楽器があるが、
そ
健やかであればいいという、責任の所在のなさ
クーラーをつけた部屋で。
苦しくて、苦々しい感情を書きつつ。
ひと段落して、夕方夕ご飯の準備をしていると。
ただただ、
母の優しい部分とか
母が作ってくれるご飯とか
気弱な笑顔とかが、じわじわと思い出されて。
玉ネギの物理攻撃もあって、かなしくなる。
なんで私は母を喜ばせてあげられる存在になれなかったのか
今もこれからも酷いことしている。
そういう気分になる。
いっそ、記憶がなくなれ